第94話

 それからふたりは長いこと、リデルの墓前でさまざまな話をした。

 出会った時のこと。結婚してからのこと。エミリアが生まれてからリデルが亡くなり、十二年間に起こった出来事。


 その中にはとりとめのない話もあったし、聞いていて辛くなるような話もあった。


 理路整然と話せたわけではない。すべてを話せたわけではない。

 互いに言葉に詰まり、気まずい沈黙が流れることも多々あった。

 十二年という時は、それほどに長い歳月だ。


 それでもふたりは、失われた時間を埋めるように互いの声に耳を傾け、かつて口にできなかった想いが伝わるよう言葉を尽くした。


 会話をする中でオスカーは何度も、謝罪と懺悔を繰り返した。

 身体の弱いリデルを傷つけまいとして、いつまでも初夜に踏み切れないでいたこと。けれどイーサンとリデルの関係に嫉妬し、思わず激情に駆られて初花を踏みにじってしまったこと。

 にも拘わらず、若さゆえのつまらぬ自尊心が邪魔して謝ることすらできなかったこと――。

 友人たちに『富や名声が目当てで結婚した』と言ったこともそうだ。

 オスカーは彼らが美しい妻に興味を抱くのを恐れ、あえてそのような言い方をしたと言う。まさか、リデルがすぐ傍でその残酷な言葉を聞いていたとも知らずに。


「俺はとんでもない愚か者だった。貴女を傷つけまいとして逆に傷つけ、貴女を誰かに奪われまいとして自分から遠ざけるような真似をした。自ら国王陛下に貴女との婚姻を願い出たにも拘わらず、長いこと貴女を苦しめてしまった……」


 そうしてリデルを療養させるため、温かな地方の別荘に送ったせいで、オスカーは永遠に妻を失うことになった。

 よかれと思ってしたことが、妻の命を奪う羽目になったというのは、なんという悲劇だろう。


「俺は母親から娘を、娘から母親を奪った。本当に申し訳ないことをした」


 十二年もの間自責の念を抱き続けるというのは、どれほど辛いことなのだろう。

 きっとそれは、ジュリエットが想像するよりずっとずっと苦しく、耐えがたいことに違いない。


 かつてのリデルならば、そんなことは気にしていないと答えてオスカーを慰めたのだと思う。本当の心を微笑みの奥に押し隠して。

 だけどそれでは意味がないのだ。

 無条件に赦し、受け入れるだけならば、それはかつてと変わらない。そしてきっと、オスカーが本当の意味で救われることはないだろう。

 だからジュリエットは、今だからこそ口にできる自分の思いを伝える。


「……確かに、わたしは旦那さまの言葉や行動に傷つきました。今だって思い出すたびに胸が辛くなるし、泣き出したくなることだってあります」


 そう。どんなに過去の事情を聞いたところで、傷ついた事実は消えないしこれからも長い間、心の奥にしこりとなって残り続けるだろう。

 ゆえに、ジュリエットは今、どうしても彼に聞いておきたいことがあった。


「ひとつだけ教えてくださいませんか?」


 何度か深呼吸を繰り返し、勇気を出して口にする。


「あなたはわたしリデルのことを……、愛していましたか?」


 その問いかけにオスカーは軽く目を見開き、そしてほとんど間を置かず、嘘偽りのない口調ではっきりと答えた。


「心から愛している。恋をしたことこそが罪なのだと思ったこともある。それでも、これまでも、これからも――永遠に、あなたは俺のすべてだ」


 ずっと欲しかった言葉に目の奥が熱くなり、たちまち視界がぼやける。

 長い冬が明けて春の光が降り積もった雪を溶かすかのように、胸の奥にわだかまっていた感情がゆっくりと解けていく。

 初めて、報われたと感じた。


「旦那さま。過去に囚われるのはもう、お互いに終わりにしませんか?」


 オスカーが息をのみ、顔を上げる。

 目と目が合う。ジュリエットは逸らすことなく冬色の瞳を見つめ返し、そしてはっきりと告げた。


「わたしはかつて、こう心に決めたのです。たとえあなたがどんなにわたしを厭おうと、自分があなたのお役に立てる限りはお側にいようと。その思いは、今も忘れていません」

「リデル……」

「わたしは、旦那さまが苦しむことを望みません。過去に囚われることも、贖罪の気持ちを抱えて一生を生きることも。エミリアだって、きっとそう思っているはずです」


 口にして、初めて気づいた。ジュリエットは、オスカーを責めたかったわけでも謝罪してもらいたかったわけでもない。多分ずっと、これを伝えたかったのだ。

 彼が後悔していると知った時から、ずっと。


 オスカーの両手を取り、そっと握りしめた。

 彼の手は少し冷たくて、そしてジュリエットと同じようにかすかに震えていた。


「悲しみや後悔を抱えて生き続けるより、喜びや幸せを抱いて過ごしませんか? ――もう、後ろを振り向かなくていいんです。前を向いていいんです。あなたは過去ではなく、現在いまを……未来を生きているのですから」


 ひとつきりの目から、一筋の涙が零れ出して頬を伝う。


「ありがとう。本当に……君に再び出会えてよかった。リデル」


 透明な雫と震える声は、かつて誰より強く完璧であろうとした彼が初めて見せた、弱さの片鱗だった。

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