第95話

 ひとしきり話を終えた後、ふたりの間にはどこか気恥ずかしいような空気が流れた。互いにぎこちない動きで、握っていた相手の手をゆっくりと離す。


「……見苦しいところを見せてすまない」


 頬に残った涙を拭いながらオスカーが浮かべたのは、少し照れたような笑みだった。かつてはあれほど大人びて、完璧に見えた彼の人間くさい表情が心から好ましく思える。


「見苦しくなんてありません。むしろ、旦那さまもひとりの人間だったんだなぁと、親しみを感じています」

「なんだそれは」

「だって以前の旦那さまは、いつも高潔な雰囲気で、近寄りがたくて……。本当に〝氷の騎士〟のようでしたから」

「……そんなにか?」

「ええ、とっても」


 自覚がなかったのだろうか。

 オスカーが困ったような顔をするものだから、ジュリエットは思わず笑ってしまう。

 すると彼は眩しげに目を細め、感慨深そうに呟いた。



「そうして笑っていると、あなたがリデルなのだとより強く実感するな」

「笑顔、同じですか?」

「ああ。いつまでも見ていたいくらいに」


 さらりととんでもないことを言う。

 かつての彼では絶対に言わなかったような言葉に、ジュリエットはたちまち頬を赤くした。

 そんなジュリエットを見て、今度はオスカーが笑みを零す。


「あなたは、昔と変わらないな」

「……子供だと仰りたいのですか?」

「いいや。まっさらで、純粋で……変わらず綺麗だ」


 飾らない言葉に、ますます頬が熱くなった。

 軽くあしらうような技量は、今も昔も持ち合わせていない。ましてや年齢を重ね、大人の男性となった彼に対抗する手段など。


「あの、恥ずかしいので、その辺りで止めていただけると……」


 絞り出すようなジュリエットの声に、オスカーは声を上げて笑った。


 かつてとは違う穏やかな空気がふたりの間に流れ、やがてジュリエットは表情を改めてオスカーと向き合った。

 不思議なほどに心は凪いでいて、驚くほどまっすぐに、冬色の瞳を見つめることができる。


「リデルを愛してくださって、ありがとうございます。お墓を守って、ずっと、想い続けてくださって……。それに、エミリアを育ててくださったことも」

「リデル――」

「わたしは本当に、幸せです」


 オスカーの手が、再びジュリエットに伸ばされる。

 抱きしめられるのかもしれないと、直感的に感じた。

 しかしその手が届くより早く、ふたりの間に溌剌とした声が割って入った。


「お父さま、ジュリエット! こんなところでどうしたの?」


 エミリアがミーナを従えてやってくるのが見える。

 ジュリエットは慌てて後ずさり、オスカーから距離を取った。


「エミリア……さま。おはようございます。伯爵閣下に、エヴァンズ男爵夫人の容態をお知らせしていたところです」

「そうだったの。わたしもちょうど、お母さまにご挨拶してからお見舞いに行こうとしていたところなのよ!」


 幸いにして、ふたりの間に流れる微妙な空気には気付かれないで済んだようだ。

 エミリアはリデルの墓前で手を組むと、目を瞑って静かに祈りを捧げる。


「皆で一緒に行きましょう?」


 祈りを終えたエミリアは無邪気に笑い、ジュリエットと父親の手をとって礼拝堂へ歩き出した。

 オスカーが物言いたげな視線を送ってくるが、ジュリエットは小さく首を横に振り、こっそりと人差し指を唇に当てた。


 これから先のことはまた改めてオスカーと話し合うとして、今はまだ、エミリアに正体を明かすべきではない。幼い娘をいたずらに混乱させるような真似はしたくなかった。

 

 

§



 礼拝堂へ着いた時には、マデリーンは既に目を覚ましていた。


「皆さん、このたびは――」


 一行を見るなり神妙な面持ちで口を開いた彼女だったが、エミリアがその言葉を遮る。


「男爵夫人のばか!!」


 突然の罵声に、皆が目を丸くして驚いていた。

 もちろん、マデリーンもその内のひとりだ。榛色の目を大きく見開き、まじまじとエミリアを見つめている。


「エミリアさま――」

「男爵夫人がいなくなってから、キティとジェーンはずっと泣いてたわ! あの子たちにはお母さましかいないのよ!? それなのにどうして、何も言わずにいなくなっちゃうの……!」


 強い口調でマデリーンを糾弾したエミリアだったが、声は掠れ、震えていて、後ろ姿しか見えなくても泣いていることがすぐにわかった。

 すかさずオスカーがエミリアの側へ行き、その背に手を添える。


「エミリア」


 その声は泣いている娘を慰めるようにも、励ましているようにも聞こえた。

 その場にしばらく嗚咽が響き、やがてエミリアは涙のにじむ声で言った。

 

「違うの……。本当はこんなこと言いに来たんじゃなくて……。ごめんなさい、出て行ってなんて言って……。わたし、男爵夫人にとても酷いことを言ったわ。だけどもう二度と、あの子たちを置いていかないで……。寂しい思いを、させないであげて……」


 しゃくり上げながら自分の思いを訴えるエミリアに、マデリーンが唇をぎゅっと噛みしめ、目を潤ませる。

 彼女はそんな自分の顔を隠すように俯く。そしてようやく聞き取れるような小さな声で告げた。


「エミリアさま……申し訳ございません。それに、ジュリエットさんも……叩いたりして、ごめんなさい。本当に、申し訳ございませんでした……」


 最後の謝罪は誰へ向けられたものだったのか。

 ジュリエットは、自分だけがその答えを知っているような気がしていた。

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