第93話

 それを聞いた瞬間、ジュリエットもまた長い間捜していたものが見つかったような心地になっていた。


 ――わたしはずっと、旦那さまからそう呼ばれたかったんだわ……。


 たとえジュリエットとして生きようと決意しても、やはり心の奥底では、『リデル』を捨て切れないでいたのだ。

 だから彼から名前を呼ばれて、こんなにも嬉しいと思ってしまう。

 

 胸がいっぱいになり、目の奥が熱くなる。声を出せば共に涙が零れるような気がして、ジュリエットはぎゅっと唇を引き結んだ。

 それでも胸元を押さえ、目を潤ませるジュリエットの姿に、何か感じるものがあったのだろう。


「やはり、貴女だったのだな。姫君プリンシア


 次にオスカーが唇を開いた時、その声は迷いひとつなく、はっきりとした確信をもってその場に響いた。

 彼は墓前を離れるとジュリエットの前で立ち止まり、ひとつきりの目でじっと相手を見つめる。その表情は凪いでいて、たった今得たばかりの事実に、彼がさほど驚いていないことが窺えた。


 なんの冗談だと笑い飛ばされても、仕方のないことだと思っていた。あるいは、ふざけるなと怒鳴られても無理はないと。

 それなのにオスカーはまるで当然のことのように、なんの疑問も抵抗もなく、ジュリエットがリデルであることを受け入れている。


「どうして……?」


 掠れた声で、ジュリエットは疑問を紡ぐ。


「どうして、気付いてくださったのですか……?」


 銀髪と茶髪。瑠璃色の目と焦げ茶色の目。

 リデルとジュリエットには、外見の共通点がほとんどない

 それなのになぜ、目の前にいる姿形も違う娘のことを、なんの迷いもなく『リデル』と呼んだのか。そしてそんな荒唐無稽な状況を前に、なぜこんなにも落ち着いていられるのか。



「――確かに貴女は、声も髪色も、目の色も容姿も、リデルとは全く違う」


 信じられない思いに目を見開いていると、オスカーの静かな声音が耳を打った。


「だが、眼差しだけは同じだった。エミリアを見つめる貴女はいつも、〝母親リデル〟の目をしていたんだ」


 そう言うと彼は懐から懐中時計を取り出す。

 蓋を開くと、そこには生まれたばかりのエミリアを抱き、優しく微笑むリデルの肖像画が納められていた。かつてエミリアの乳母を務めていた、モリス夫人が描いたものだろうか。繊細で柔らかなタッチが、彼女のものによく似ていた。


「はっきり〝そう〟だと気付いたのがいつだったのかは、自分でもわからない。妻を慕わしく思う心が、俺に都合のいい荒唐無稽な夢を見せているのだという思いもあった」


 彼は一瞬自嘲するような笑みを浮かべる。

 しかしすぐにその表情を消すと、懐中時計の蓋を閉め、金色の表面を撫でた。まるで、その向こう側にある絵の輪郭をなぞるかのように。


「だが俺は、貴女が亡くなってから毎朝、毎晩、毎日この絵を眺めて続けてきたんだ。瞼を閉じても、エミリアを抱く貴女の姿が思い浮かぶほどに。だから、あの眼差しを――見間違うはずはない」


 それに、とオスカーは続ける。


「貴女はこれまで何度か、俺のことを〝旦那さま〟と呼んだことがある。無意識のことだろうから覚えてはいないかもしれないが……。声は違っても、響きは変わらないままだった」


 気を付けていたのに、一体いつ、彼をそう呼んでしまったのか。

 記憶を辿っても全く思い出せないが、屋敷中の人間がオスカーを『ご主人さま』と呼ぶ中、ジュリエットの迂闊な発言は彼の中にひときわ強い印象を残したことだろう。


「ですが……あなたはそのようなこと、少しも態度には出していらっしゃいませんでした」


 オスカーの口ぶりから察するに、彼がジュリエットの正体に気付いたのはつい最近というわけではなさそうだ。にも拘わらず、彼は探りを入れるでもそれらしい言動を取るでもなく、ただの雇用主としての態度を崩さぬまま、ジュリエットと接していた。


「貴女はきっと、知られたくないだろうと思ったから」

「え……」

「俺は貴女にとって最低の夫だった。悲しませ、傷つけ――失意の中、死なせてしまった。そんな夫との再会を、誰が望む?」


 拳を強く握りしめ、絞り出すような声で告げる。

 その苦しげな表情は、この十二年間彼が、己のリデルに対する言動をどれほど後悔していたか察するにあまりあるものであった。


「だから俺は、貴女が生まれ変わり、別人としての生を幸せに歩んでいるのなら、それを知れただけでも十分だと思った」

「旦那さま……」

「だが、俺は駄目だな。いざ、貴女がこうして〝リデル〟として目の前にいると実感すると……」


 真っ赤に充血した目を片手で覆うと、オスカーは天を仰ぎ、肺の中の空気全てを吐ききるような長く重いため息をついた。

 冬色の目が再びジュリエットを捉え、すぐ耐えきれぬように俯き、震える声が想いを紡ぐ。

 

「ずっと長い間――貴女の名前を呼びたかった。貴女に会いたかった。赦されないことだとわかっていても、貴女ともう一度、話をしたかったんだ……」


 語尾は震えて、ほとんど声にならなかった。

 そこに立っているのは、かつてリデルに対して心を閉ざし、冷たい言葉を向けていた青年ではない。

 己の過去を悔い、今もまだ暗闇に囚われ一歩も動けないでいる大人の男性だ。


 だからジュリエットは、勇気を出して彼の手を取った。

 冷たく骨張った指先におずおずと触れ、暗闇の中から引っ張り出すように、静かに己のほうへ引き寄せる。

 はっとして顔を上げたオスカーに、ジュリエットはぎこちなく微笑みかける。

 今、初めて、オスカーの心に触れた気がした。


「お話ししましょう。リデルが生きていた頃のこと、そしてリデルが亡くなった後のこと。わたしたちが一緒にいられなかった間のこと、全部」

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