第85話
這々の体で実家から逃げ出したマデリーンは、アーサーに全ての事情を打ち明け、庇護を求めた。
彼は激怒し、二度とマデリーンを実家には戻さないと両親へ宣言してくれた。
「屋敷と会社を売ればいいんだ。そうすれば、両親がふたりで生活していけるくらいの財産は残るだろう。元々平民だったんだ。お前が気に病む必要はないさ」
それからしばらくの間、マデリーンはアーサーの知人の家へ身を寄せ、そこで誰に傷つけられるわけでもない穏やかな生活を送った。
やがて一年が経った頃、アーサーがマデリーンを迎えにきた。
「一緒にアッシェン領へ行こう。あそこなら男爵も父さんたちも、お前に手出しできない。オスカーも、お前のことを心配してくれている」
父親が病死した今、オスカーはアッシェン領主となり、騎士団を預かる身となったのだ。
「マディ、心配するな。どんなことがあっても、俺がお前を必ず守る。俺はお前の兄さんなんだからな」
騎士団副長になった兄は、本当に頼もしかった。
――いや、マデリーンにとって兄はずっと昔から、物語に出てくる英雄のような存在だったのだ。
だからアーサーの手を取った。迷うことなく。
その結果どうなるか、深く考えることもなく。
兄と一緒にいれば、きっと守ってもらえる。兄さえいれば、自分は大丈夫。
それは甘えでしかなかったのだと気付いたのは、ずっと後になってのことだった。
王都から遠く離れたアッシェンでは、マデリーンとエヴァンズ男爵の事件を知る者はほとんどいないようだった。
兄やペネロペ、信頼する侍女たち。そして誰よりオスカーの側にいられるという事実が、傷ついたマデリーンの心を安らかに癒やしてくれる。
アッシェン城へ移り住んだマデリーンに私室として与えられたのは、広い客間だった。
未だ男爵から受けた心の傷が癒えないマデリーンが、男性だらけの騎士団宿舎で生活せずに済むようにという心遣いであることは明白だ。
あえて口にしなかったけれど、きっとオスカーは、マデリーンの身に一体何が起こったか知っていたのだろう。だから何も言わず、黙ってマデリーンを迎え入れてくれた。
それが親友である兄からの頼み事だったとしても、初恋の人に気に掛けてもらえた事実が嬉しかった。
けれどたとえ副長の妹とはいえ、客分でもない女性に対するあからさまな特別待遇は、使用人たちの目に奇異に映ったようだ。
「あのマデリーンって方、旦那さまの愛人なの?」
「旦那さまはもう少しでご結婚される身なのに……」
傍目から見れば、確かにそう思われても仕方のないことだ。本来なら騎士の家族は、騎士団施設内にある家族専用宿舎に住むことになっている。
しかしオスカーはその不名誉な噂を、一切否定しなかった。
理由は明白だった。
訳を説明すれば、使用人たちにマデリーンのおぞましい過去を知られてしまう。そうすればマデリーンはまた『傷物の娘』として白い目で見られてしまうだろう。
オスカーはどこまでも優しい人だ。
己が不名誉を被ることで、赤の他人の名誉を守ろうとしてくれた。
それからの毎日は充実していた。
オスカーはマデリーンに、行儀見習いとして女主人のような仕事を任せてくれるようになったのだ。
帳簿の管理。領地で採れた穀物の産出量の記録。市井の人々の話に耳を傾け、客人をもてなす。パーティーの招待状への欠席を詫びる手紙や、贈り物への返礼品も任せてもらえるようになった。
そうすれば、ますますマデリーンとオスカーの仲が誤解されることはわかりきっていたはずなのに。
「いつか君が結婚した時、少しでもここでの生活が役に立てば嬉しい」
使用人たちの噂など知りもしないという顔で、オスカーはマデリーンに接してくれた。
――これは後になって、偶然知った話だ。
彼の母親は、先代伯爵に乱暴されたことによってオスカーを身ごもった。
だから彼は、マデリーンに親身になって接してくれたのだ。きっと、男爵に襲われたマデリーンの姿と、かつて強引に愛人にさせられた母の姿が重なったから。
「オスカーさまは……わたくしを汚れているとは思いませんの?」
「なぜ君が汚れているんだ? 汚れているとしたら、それはエヴァンズ男爵のほうだろう」
ある日、勇気を出して質問したら当然のようにそう返され、思わず言葉に詰まってしまった記憶がある。
「世の中、エヴァンズ男爵のような男ばかりではないし、無責任な噂に踊らされることなく君の良さを見てくれる男性もいるはずだ。あんな屑のせいで修道院行きを決めるのは、まだ早いだろう」
「ふふ……、兄と同じ言葉を仰ってくださいますのね」
思わず声が霞んだ。
大勢の悪意にさらされ傷ついたマデリーンの心に、家族でもないオスカーからの優しい言葉がどれほど深く染みたことか、彼にはわからないだろう。
泣き出したマデリーンを見て、オスカーは珍しく大慌てになっていた。
「も、もちろん、修道院に行きたいというのを無理に止めるつもりはない。ただ、アーサーも俺も、君が幸せになることを願っているんだ」
――ああ、やっぱりオスカーさまだわ。
あの下卑た眼差しで全身を舐め回すように見てくる毒蛇のような男爵とも、自分を成金の淫売と罵った男たちとも、傷物の娘は結婚できないと言い放った両親とも違う。
アーサーと同じで、心からマデリーンの幸せを祈ってくれている。
まっすぐで、優しい彼の言葉が嬉しくて、悲しかった。
なんて鈍感で残酷な人なのだろう。
もうあと一年もすれば妻を迎えるというのに、自分を恋い慕う女相手に、そんな風に柔らかで無責任な言葉をかけるなんて。
否、気づいていないからこそなのだろう。
同じ城で暮らしても、どんなに女主人としての仕事を懸命にこなしても、オスカーにとってマデリーンは以前と変わらず、『妹』のままだった。
§
「マディ。夜会に参加してみないか?」
アーサーがそんな提案をしたのは、王女の降嫁まで半年を切ったある日のことだ。
「嫌なら無理にとは言わないが、今回の夜会は招待客も身元の確かな人間ばかりだそうだ。アッシェンではお前の過去を知る人間はいないだろうし……俺が付き添うから、気晴らしに行ってみないか? いい男が見つかるかもしれないぞ」
「……そうですわね。わたくしもそろそろ、身の振り方を考えないと。いつまでもお兄さまやオスカーさまのご厚意に甘えるわけにはいきませんもの」
オスカーが妻を迎えたら、マデリーンは完全に邪魔者だ。夫に懸想する女が側にいて、女主人顔であれこれと城の仕事をしていては、きっと王女も嫌な思いをするに違いない。
それに近頃アーサーには恋人ができたようだ。休日のたびにいそいそと町へ繰り出すし、部屋では上機嫌に鼻歌を歌っている。
彼らには彼らの人生があり、マデリーンにもマデリーンの人生がある。
「そろそろ、前を向かなければならない時なのかもしれませんわね」
「違う、そういう意味で言ったんじゃない。無理をして前を見ろなんて言わない。お前はいくらでも俺に甘えていいんだ。俺はただ、お前の悲しい顔を見たくないんだよ」
だが、アーサーが意図したのはそういうことではなかったようだ。
彼はマデリーンがまだ、未練たらしくオスカーへの想いを抱えていることを知っていたのだ。そして、その想いが決して報われないことも。
「オスカーなんかより見る目のある誰かが、きっとお前を幸せにしてくれるはずだ。俺は、お前に世界一幸せになってほしいんだよ」
「お兄さまったら……」
「心配するな。お前はいい子だ。神も見守って下さる。どこか社交界の噂が届かない場所で、穏やかに暮らせるさ」
自分はなんて果報者なのだろう。
不幸のどん底にいたつもりだったけれど、こんなに優しく思いやりのある兄を持っただけでも幸せだったのだ。
――そう。思えばその時が一番幸せだったのだろう。
兄が側にいて、愛する人が自身のために心を砕いてくれて――まだマデリーンの未来には、沢山の可能性が広がっていた。
兄と共に参加した何度目かの夜会で、再びエヴァンズ男爵と顔を合わせるまでは。
アーサーの背に隠れ震えるマデリーンに向かって、黄色い歯を剥き出しにして笑った彼が告げたのは、両親が投獄されたという事実だった。
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