第84話

 マデリーンがあからさまに避けようとしても、男爵はしつこくつきまとった。


「マデリーン、どうか私と結婚してくれないか。君も私を愛してくれているだろう? 君は孤独な老人の無聊を優しく慰めてくれる、素晴らしい女性だ」

「恥ずかしがらなくていいんだよ、愛しい人。ああ、それとも、息子や親戚連中に遠慮しているのかな? そんなものは私が黙らせてやろう。私は君の虜なのだから、何も心配することはないさ」

「結婚式は盛大に挙げよう。絹と宝石をふんだんに使ったドレスは、君の赤い髪にきっと映える」


 人目もはばからず口説こうとしてくる男爵を、マデリーンは必死で拒絶した。一体誰が、こんな不気味な男と結婚したいと思うのか。

 けれど必死になればなるほど、周囲の目は冷ややかになっていく。


「もったいぶって……駆け引きのつもりかしら」

「老人をもてあそんで、酷い女だな」

 

 社交界で孤立無援となったマデリーンに味方する人間など、ひとりもいなかった。


 絶望するマデリーンの許には毎日のように、ドレスや大粒の宝石、花や香水が送られてきた。

 ドレスはすべて、身体を売る女のそれと変わらないほど大きく胸元が開いたデザインだ。中には下着まで混じっており、小さなカードにミミズの這ったような字で男爵からのメッセージが添えられていた。


『君に似合うと思って選んだものだ。今度の夜会で、私への愛の証としてこれらを身に纏ってほしい。我が愛しの女神、マデリーン』


 屈辱で目の前が真っ赤に染まるかと思った。

 マデリーンは血の滲むような努力をして、淑女の立ち居振る舞いを身に着けたのだ。男爵の贈り物は、そんなマデリーンの努力を踏みにじるものだった。


 そして最大の不幸は、両親までもがマデリーンでなく、男爵の肩を持ったことだろう。


「ねえ、せっかく求婚していただいたのだし、少し前向きに考えてみてはどうかしら?」

「そうだな。年は少し離れているが、男爵に嫁げば一生楽に暮らせるんだし……悪い話ではないんじゃないか?」

「嫌よ! あんな人と結婚なんて……っ!」


 せめて男爵が本気でマデリーンを愛してくれていたなら、こんなに嫌悪感を覚えることはなかったかもしれない。けれど相手が自分を本当に愛しているかいないかくらい、世間知らずのマデリーンにだって判断はつく。

 男爵の黄ばんだ目は、マデリーンを見ているわけではない。従順な若い肉体を。自分の意のままにできる美しい人形を欲しているだけだ。


「マディ、こんなに素敵な贈り物をくださる男性なんて滅多にいないのよ。オスカー卿のことは残念だったけれど、王女さまには敵わないわ」

「オスカーさまのことは関係ないわ! わたくしは、互いに愛し合える方と結婚したいだけ!」

「お前は世の中を甘く見ている。後妻とはいえ、貴族の妻になれるなんてとても名誉なことなんだぞ? 愛だけで腹を満たすことはできない」


 果たして両親は、これほどまでに言葉の通じない人々だっただろうか。目の色を変えてマデリーンを説得しようとする二人は、まるで同じ顔をした別人のようだ。



§



 事件が起こったのは、そんなある日のこと。

 忘れもしない、新月の夜だった。


 某貴族の屋敷で開かれた舞踏会で、室内の熱気に当てられ外の空気を吸いに庭に出たマデリーンは、その隙を突いたエヴァンズ男爵によって襲われた。

 共にいたペネロペが悲鳴を上げる間もなく昏倒させられ、物陰に引きずり込まれ――。それはあっという間の出来事だった。


 闇に覆われた中庭で。

 広間から軽快な音楽が流れてくる中で。

 人々の楽しげな笑い声が聞こえてくる中で。

 深い茂みの中に口を塞がれ、音もなく連れ込まれた女の存在に一体誰が気づけただろう。


 それでもマデリーンは懸命に這い出ようとした。

 助けを呼ぼうとした。

 けれどいくら老人が相手とはいえ、女の細腕で何ができただろう。


 見上げた空で、星がまたたいていた。


 ――ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ。


 男爵のべたついた手が肌の上を蛇のように這う。

 男爵の取り巻きたちの歯が、夜空の下で白く光っている。


 星が――星が消えていく。

 ひとつずつ遠ざかって、闇に呑まれて、掻き消されていく。


「可愛いマデリーン。ようやくお前とふたりきりになれた……」


 男爵が嬉しそうに何かを囁いている。けれどマデリーンにはこれが現実なのか、夢なのかわからない。


 ――だって、こんなことありえない。わたくしは、わたくしの未来は。わたくしの……っ。


 きっとこれは悪夢だ。

 なぜなら広間では皆、あんなに楽しそうに踊っているから。あんなに楽しそうに笑っているから。


 これ、、は、マデリーンが思い描いた未来とは違う。


 ――わたくしはオスカーさまと結婚して、家庭を築いて……。ああ、違うわ。オスカーさまはとっくに、王女さまと甘い夢を見ていて……。そしてわたくしは、選ばれなかった。


 頭の中が黒いインクで塗りつぶされていくようにぐちゃぐちゃで、考えが纏まらない。

 この悪夢から、早く抜け出さなければ。

 マデリーンが正気に戻ったのは、皮肉にも、男爵が嬉々としてドレスの裾に手を差し入れた時だった。


「いやぁぁぁぁぁっ」


 その瞬間、マデリーンは自分でも信じられないほどの力で男爵を突き飛ばしていた。よろめいた男爵の隙を突いて、彼の下から抜け出す。


 しかし運が悪いことに、その時マデリーンの声を聞きつけた人々が大勢、中庭へ駆けつけてきた。あられもない格好をしたふたりに、大勢の侮蔑の眼差しが注がれる。


 ――淫売。


 誰かがぼそりと呟くのが聞こえた。


 ――他人の家の庭で、なんとみっともない。

 ――所詮は平民だな。


 ただ襲われただけ、未遂だと言っても、きっと信じてもらえない。それに打ち砕かれた心で、即座に反論などできるはずもなかった。

 乱れた格好のまま愕然とするマデリーンは、その後、自分がどうやって自宅まで帰ったのか覚えてすらいない。


 そして翌日には、例の出来事は、マデリーンが人目も憚らず男爵を誘惑したせいだということにされてしまっていた。


「マデリーン。エヴァンズ男爵の求婚を受けなさい。汚されたお前にはもう、それ以外の道はないのだ。幸いにして、男爵は持参金はいらないと仰っている」

「可哀想だけれど……。あんなに大勢の人に、男爵といるところを見られてしまったのだもの。純潔でない女性を妻に貰ってくれる男性はいないわ」


 寝室で塞ぎ込んでいたマデリーンは、見舞いという名目で訪ねてきた両親の言葉に我が耳を疑った。

 

「いやよ! 絶対に……それだけは嫌っ!! あんな……あんな汚らわしい男!! それに、わたくしはまだ……清らかなままですわ!」

「実際は未遂だろうとなんだろうと、人々は既にお前が傷物だと信じ込んでいるんだ。皆にとっての事実とお前にとっての真実は違う! それくらいわかるだろう!?」


 だからと言ってなぜ、どうして、あのようなけだものと自分が結婚しなければならないのか。両親は、娘に酷いことをした相手を憎くは思わないのか。怒りを覚えはしないのか。

 男爵はマデリーンの尊厳を奪い、未来を閉ざしたのだ。それなのに。

 しかし何度拒んでも、両親が娘の意見を聞き入れることはなかった。


「あの男と結婚するくらいなら修道院に参ります! もう、わたくしのことは放っておいて!」

「口答えをするな、マデリーンッ! 私はお前のために言っているのだぞ!! 裕福な暮らしをしてきたお前が、修道院での貧しく過酷な生活に耐えられるはずがない! 現実を見ろ!」

「お父さまはご自分の生活を守りたいだけでしょう!? 知っていますのよ、お父さまの商会の経営が危ういということを! 今回のことだって、お父さまたちが手引きしたんじゃありませんの!?」


 今までどんなにわがままを言っても暴力を振るったことのない父が、マデリーンの頬を殴った時に見せた、あの恐ろしい表情は一生忘れられない。


「親に対してなんだ、その口のきき方は!」

「あなた……っ。もうやめて、どうかお怒りにならないで。マディだって今は動揺してものの道理がわからないだけ。きちんと言い聞かせればわかってくれますわ」

「お母さま……?」

「ねぇ、マディ。よく聞いて」


 母はマデリーンが子供だった頃、よくそうしていたように腰を屈め、視線をまっすぐ合わせながら微笑んだ。わがままな子供を宥める時の顔だった。


「あなたが言ったとおりよ。我が家にはたくさんの借金があるの。男爵さまはそれを知って、資金援助をしてくださると仰っているわ。借金も全て返して下さるって。あなたさえ男爵と結婚すれば、わたしやお父さま、それにアーサーや使用人の皆も助かるの。だから、お願いだからお父さまの言うことに従って……ね?」


 ――この人たちは、何を言っているの?


 娘の尊厳を踏みにじった相手に頭を下げ、娘を犠牲にしてまで守りたいものとはなんなのか。


 ――誰より傷ついたのは、わたくしのはずなのに。皆が助かる、なんてあまりに卑怯ではないの。


 これではマデリーンが悪者のようではないか。

 愛情のない人たちではないと思っていた。けれど娘の矜持より己の保身を選んだ時点で、彼らは親としての資格を失ったのだ。

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