第83話
マデリーンは、年齢の割に成熟した色香を持つ少女だった。
町を歩けば誰もが美しいと褒めそやし、パーティーではその場にいるどんな令嬢より、男性たちの注目を集めた。結婚を申し込まれた回数など、もう覚えてはいない。
女性たちは、そんなマデリーンを毛虫のように
『あの方、父親の商売相手を籠絡し、のし上がったという噂よ」
『まあ。道理で、ご年齢のわりに大人びていらっしゃると思いましたわ。きっと
マデリーンが夜会へ顔を出す度、嘲笑混じりの陰口が挨拶代わりのように飛び交う。
初めの頃は酷く傷ついたし、何度耳にしても慣れるようなものではなかった。中には信じられないほど残酷な中傷もあったけれど、マデリーンは気にしないふりをした。
彼女たちがあんな酷い言葉を口にするのは、嫉妬しているからだ。自分が幸せではないからこそ、他人を攻撃して優越感に浸りたいのだ。
だから外ではいつも艶然とした笑みを貼り付け、どんな陰口も気にしないよう振る舞った。
陰口を叩いてた女性たちにとっては大層皮肉なことに、そんな堂々たる様子は益々男性たちの関心を引き、マデリーンはますます夜会の華として持て囃された。
けれどどんな男性から愛を向けられようと、マデリーンの心を占めていたのはただひとり。
「オスカーさま、ごきげんよう! いらしてくださって嬉しいですわ。さあ、紅茶とお菓子をどうぞ」
「マデリーン。いつもありがとう」
「おい、マディ。いつも言ってるがそれはメイドの仕事――」
「お兄さまは黙ってらして! わたくしの淹れたお茶は美味しいと評判ですのよ!!」
やや強引にティーカップを並べると、オスカーが控えめな苦笑を零す。
年齢の割に成熟していると言われるマデリーンだが、オスカーには敵わない。彼はまるでいくつも年上のような顔をして、困った娘だと言いたげな目でマデリーンを見るのだ。
『あいつは気を許した相手にしか笑わないんだ。特に女性が苦手みたいでな。まあ、あの顔だから色々と面倒も多いんだろう』
初めの頃は無愛想だったオスカーが『マデリーン』と親しげに呼びつけるたび、徐々に打ち解けた様子を見せるたび、兄がこっそり教えてくれたその言葉を思い出した。
そしてうぬぼれた。
彼にとって自分は、きっと特別な存在なのだと。
密かに胸を熱くしていたマデリーンの希望は、しかしある日突然、打ち砕かれた。
嫌な予感はしていたのだ。
女性に贈り物をしたいと言ったオスカーの表情を見た時から。
『……月の光を浴びた、妖精のような女性だ。砂糖菓子のように儚げで、ガラス細工のように危なげで、花びらのように繊細な……。見ていて放っておけないと、つい手を差し伸べたくなるような』
こんな彼を、マデリーンは知らなかった。
こんな優しげな眼差しで誰かのことを語る彼を。
愛おしそうな口調で、迷うように言葉を選びながら、柔らかな詩を紡ぐように話す彼を。
――わたくしは……本当に知らなかった。
どうして自分が特別だなんて、恥ずかしい勘違いをしていたのだろう。
オスカーにとって自分はあくまで『友人の妹』で、それ以上でもそれ以下でもない。アーサーがいなければ相手にすらしてもらえない存在だったのに、ひとりで浮かれて、思い違いをしてしまった。
驕りにもほどがある。
終わったのではない。この恋は、始まってすらいなかったのだ。
だけど未熟な少女の心は、突然の失恋を簡単には受け止めきれなかった。
――こんなに好きなのに。
初恋だった。
彼しかいないと思っていた。それなのに。
瞬く間に頭に血が上り、気づけば、マデリーンは挨拶もせずに客間を飛び出していた。
――ひどい、ひどい、酷い……!!
悲しさと、悔しさと、羞恥と怒りが胸の中で渦巻いている。
醜い感情が腹の奥に澱のように溜まっていき、熱い涙となって零れていく。
心配したアーサーや侍女が何度も慰めの言葉をかけてくれたが、マデリーンはそのたびに八つ当たりをすることしかできなかった。
理不尽な怒りだと、頭の片隅でわかってはいた。
オスカーはただ、己の愛する人を見つけただけだ。
それがただ、マデリーンではなかったというだけ。
悪いのは告白もせず、ただ『その時』が来ることを勝手に期待していたマデリーンだ。
せめて己の思いを伝えてさえいれば、こんな悔しい思いはしなかったかもしれない。けれどマデリーンにはその勇気さえなかった。
これでは、欲しかった玩具が手に入らなかった子供の癇癪と変わらない。
マデリーンは自室に立てこもり、それから一週間、身体中の水分を出し切るかのように泣き続けた。
§
オスカーの婚約が決まったのは、それから一年も経った頃だった。
王家の落ちこぼれと呼ばれる第四王女リデルと、将来有望な騎士オスカーの結婚。
『氷の騎士』と『はずれ姫』の縁談を、貴族たちは面白おかしく囃し立てた。
『国王が貰い手のない娘を無理矢理押しつけた縁談』
『王女が権力を嵩にきて、初恋の人と強引に婚約を結ぼうとしている』
無責任な噂がいくつも囁かれ、そのたびに尾ひれ羽ひれがついていく。
しかし、マデリーンはそのような噂は歯牙にもかけなかった。
きっとそのリデル王女こそが、オスカーが贈り物をしたいと言っていた相手なのだろう。
だとすれば、彼があれほど愛おしげな目で語っていた女性が、貴族たちから噂されているような落ちこぼれであるはずがない。
きっとオスカーの言っていたような、美しく清らかな女性なのだろう。
まだ、心から応援しようと思えるほど心の傷は癒えていないけれど、それでオスカーが幸せになれるのだとしたら。
――わたくしにできることは、おふたりの結婚が上手くいくよう祈ることだけだわ……。
そうして、この傷ついた心も徐々に癒えていくのだろうと――。その時は己の未来も知らず、純粋にそう考えていたのだ。
§
マデリーンが未来の夫――エヴァンズ男爵と出会ったのは、その時期のことだった。
とある夜会で出会った彼は、年の割に酷く
「初めまして、フェナ・マデリーン。噂に違わず美しい女性だ」
「あなたは……?」
「半年前に妻に先立たれ、寂しい余生を過ごす孤独な老人です。久しぶりに社交界に復帰したが、妻に似た女性に出会えるとは神のお導きのようだ。どうぞお見知りおきを」
聞けば彼は商売人に出資をしたり、土地を売買する仕事をしているらしく、社交界では有名な金満家らしい。
当時、彼は五十歳。十七歳だったマデリーンにとっては祖父ほど年の離れた男性である。
きっと、自分のことを孫のように思ってくれているのだろう。妻を亡くして寂しい思いを、妻に似た自分と話すことで紛らわそうとしているのだろう。
当初のマデリーンは呑気にそんなことを考えていたが、男爵のほうはそうではなかったようだ。
彼の視線が、自身の身体にねっとりとまとわりつくような感覚を覚えたのはいつ頃からだっただろう。
彼が笑顔を浮かべるたび、全身が粟立ち嫌な悪寒が走るようになったのは。
自分の出席する夜会に必ず顔を出す男爵が恐ろしくなり、ようやく彼を避け始めた時にはもうすべてが遅かったのだ
「あんないやらしい爺さんによく色目を使えるな? 孫と祖父ほども年が離れているじゃないか」
「金を出してもらえるならなんでもいいんじゃないのか? 案外、大金持ちと結婚できると喜んでるかもしれないぞ」
気づけば、周囲の男性たちは皆、マデリーンに見向きもしなくなっていた。
あれほどマデリーンを信奉し、褒めそやしていたのに。あれほど、マデリーンの歓心を買おうとしていたのに。
もはや彼らにとって、マデリーンは資産家の後妻の座を狙うしたたかな女でしかないのだろう。
夜会の華としてもてはやされていたマデリーンは、その頃には『金持ち老人の情婦』とまで揶揄されていた。
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