七章 恋という名の罪
第82話
細い雨が、路面を静かに濡らしている。
大勢の人々が働くアッシェン城だが、礼拝堂の付近はいつもしんと静まり返っている。ここにはアッシェンの先祖だけでなく、任務で命を落とした騎士団の人間も多く眠っているからだ。
誰にも告げず部屋を出て、気付けばこの場所へ足が向いていた。兄の名が刻まれた墓石の前で立ち尽くしたまま、どれほど時間が経っただろう。
少し前に落ち始めた雨は小降りのまま一向に強くなる気配を見せないものの、傘もささず長いこと佇んでいたせいで、髪やドレスはもうすっかりずぶ濡れになっている。
きっと化粧が流された顔は、酷い有様になっているはずだ。
「……アーサーお兄さま」
月も星もない夜空の下、何度目とも知れず兄を呼ぶ。
返事などあるはずもない。いつもマデリーンを慈しみ、可愛がり、助けてくれた兄はもうこの世界のどこにもいないのだから。
彼は命を奪われたのだ。
マデリーンの、己の愚かな過ちによって。
§
マデリーンがオスカーと初めて出会ったのは、十六歳の時。まだ両親が健在で、実家の商売が一番順調だった頃のことだ。
幼い頃から実家を離れ、立派な騎士となるべく厳しい修行を積んでいたアーサーが、休暇の折にオスカーを伴って帰省したのである。
兄から定期的に届く手紙で、オスカーの話題が出たことは何度もあった。
少し無愛想なところもあるが同期の中では一番優秀で、滅多に弟子を褒めない師からも認められている。自分より二つ年下だが、これ以上頼りがいのある友人はいない。
それがアーサーの、オスカーに対する評価だった。
たった八歳で王宮騎士団へ奉公に上がった当初、アーサーは平民出身ということで随分といじめられたようだった。
だからマデリーンは純粋に、兄に友人ができたことを嬉しく思っていた。
けれど両親には違う思惑があったようだ。
『あのアッシェン伯爵家の跡継ぎと友人になったなんて、素晴らしいわ。早速知り合いの奥さまがたに自慢しないと』
『我が息子ながら大したものだ。アッシェンと繋がりができれば、我が家を成り上がりと馬鹿にした連中を見返してやれる!』
両親は上昇志向が非常に強い人たちだった。
平民出身でありながら生まれ持った商才を生かし、準男爵までのし上がった父と、贅沢で煌びやかな世界が好きな母。
それが、
せっかくアーサーが次期伯爵を連れてくるのだからと、両親はその日、朝から張り切ってマデリーンを着飾らせた。
「マディ、いいこと。なんとかしてオスカー卿に気に入られるの」
「お前ならできるさ。これほど美しい娘は他にいないのだからね。お前が微笑みかければ、どんな男もすぐ骨抜きになるさ」
とびきりの布地を使った少し胸元が大きめに開いたドレスに、異国から取り寄せた真珠をふんだんに使った髪飾り。普段より濃く施された化粧。
誰の目から見ても十分すぎるほど気合いが入った装いに、心底うんざりしたことを覚えている。
両親は暗に、こう言っていたのだ。
『色仕掛けでもなんでもいい。次期伯爵を誘惑しろ』
――わたくしの夢は、愛する男性と結婚することなのに。
恵まれた箱入りお嬢さまの甘い考えと笑われるかもしれない。
それでもマデリーンは姿形や家柄より、心から想い合える人と結ばれることを夢見ていた。
しかし結局、マデリーンの心を奪ったのは王都中の貴族令嬢たちがこぞって関心を買おうとするような高嶺の花だったのだから、皮肉としか言いようがないだろう。
その、少年期特有の少し掠れた声で挨拶をされた瞬間、無様に凍り付いてしまったことを今でも鮮明に覚えている。
「マディ、紹介するよ。こいつが親友のオスカー」
「お初にお目にかかる、
冷たい瞳だった。
射貫くような、それでいて何ものをも映さぬ硝子玉のような、無機質な。
威圧感すら覚える高貴な佇まいに、マデリーンは相手が自分より年下であることも忘れ、あっという間にその空気に呑まれてしまった。
「マデリーン、何をぼうっとしているの。ご挨拶なさい……!」
「……っ失礼いたしました! ご、ごご、ごきげん麗しく存じますっ、
母に肘で小突かれ、マデリーンはようやく我に返った。
散々な挨拶に呆れられたかと心配になったが、彼は顔色ひとつ変えず無表情のままだ。
「ごめんなマディ。こいつ本当に不愛想でさ。でも根はすごくいい奴だから心配するなよ」
「アーサーッ!」
「お前はアッシェン伯爵家のご嫡男になんという口をきくんだ!」
次期伯爵の肩を気安く叩く息子の姿に母は卒倒しかけ、父は慌てて窘める。
しかし元々我が道を行く性格の兄が気にした様子はない。
「いいんだよ、俺たちは親友同士なんだから。なっ、オスカー」
口笛さえ吹きそうなアーサーの態度に、青ざめた母は侍女たちに両脇を抱えられながらとうとうその場を後にする。
父も慌てて後を追いかけ、その場には兄とオスカー、そしてマデリーンの三人だけが残された。
「それにしてもお前、少しは愛想良くしろって言っただろ? ほら、うちの可愛い妹がすっかり怯えて、目を潤ませているじゃないか」
「それは……フェナ・マデリーン。本当に申し訳ない。怯えさせるつもりは――」
「えっ!? も、もう、お兄さまは大げさですわ! わたくしは気にしておりませんから、どうか顔をお上げになって、ステア・オスカー」
律儀にも深々と下げられていたオスカーの顔が、静かに元の位置へ戻る。
容貌もそうだが、所作も美しい少年だ。
けれど何よりマデリーンの心を捉えたのは、次の瞬間。
あれほど無機質だと感じた薄青色の瞳に初めて、ほんの僅かだが人間らしい感情が浮かんだ時だ。
「……聞いていた通り、仲のいい兄妹なんだな」
「もちろん! マディは世界一の妹だからな」
眩しいものを見るように目を細め、口元を緩ませたオスカーの、微笑とも呼べないほど小さな表情の変化。
たったそれだけのこと、と人は言うかもしれない。単純だと笑われるかもしれない。
けれどその、少し寂しげで何かに憧れるような、焦がれるような眼差しに、気づけばマデリーンは心を鷲づかみにされていた。
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