第81話

 それからの数日は、表面上は何事もなく穏やかに過ぎた。

 カーソンはあれ以来、ジュリエットをこれまでと同じく『家庭教師』として扱ってくれるし、約束通り他の誰かに話した様子もない。


 けれど更に数日経って、ジュリエットの気持ちもだいぶ落ち着いてきた頃のことだ。

 エミリアがマデリーンと大げんかをしてしまったのは。


 その日マデリーンは、足の怪我も大分よくなり、そろそろ座学だけなら復帰できそうだということで、久しぶりにエミリアの授業を受け持つことになったのだった。 

 ジュリエットも授業の引き継ぎのため、その場に同席していた。

 しかし授業が始まって数分が経ったころ、明らかにやる気の見られないエミリアの態度を見て、マデリーンがジュリエットへ嫌味を言ったのだ。


「わたくしのいない間、一体どんな授業をなさっていたのかしら」

「す、すみません。でも、エミリアさまも以前と比べてとてもよく――」


 先日、エミリアが解いた問題集の結果を見せようとしたのだが、マデリーンは聞く耳を持ってくれなかった。


「言い訳は結構ですわ。ジュリエットさんはどうやら、お嬢さまと遊んでばかりのご様子。……お嬢さま、厨房で遊ぶのはほどほどにし、これからはより一層熱心にお勉強していただかないと困ります。お料理なんてできたって、貴族のご令嬢にとっては何の役にも立ちませんわよ」


 秘密裏に準備をしているから、マデリーンは知らないのだ。エミリアがなんのために厨房へ通って、何を作っているのか。

 せっかくの父への贈り物の準備を遊びと断言され、エミリアが唇を噛んでぎゅっと俯く。きっと、父を思う心すら否定されたような気持ちになっていることだろう。

 彼女の心が頑なに閉ざされていくのを感じ、ジュリエットは慌てた。

 せっかく以前より熱心に取り組むようになってくれたのに、このままではまた、勉強が嫌いになってしまう。


「あの、確かに勉強とは関係ないことかもしれませんが、エミリアさまにも、たまには心を休める時間も必要かと思います」

「あなたは黙ってらして。これは家庭教師であるわたくしと、お嬢さまの問題です」

「待ってください。今はわたしもエミリアさまの家庭教師ですし、そんな言い方をなさったら、エミリアさまだって――」

「余計なお世話ですわッ!」


 恐ろしいほど甲高い金切り声だった。マデリーンの目尻はかつてないほどつり上がり、顔全体がすっかり紅潮している。


「知ったような口をきいて――エミリアお嬢さまの教育に関しては、しっかり考えた上で授業を組んでいます! わたくしはもう、三年もお嬢さまの家庭教師を務めているのですから!」

「ですが、エミリアさまは――」

「黙りなさい!! エミリアさま、エミリアさまとうるさい小娘ね! エミリアさまの家庭教師はわたくしよ!」


 パン、と大きな破裂音が響き渡り、頬に鋭い痛みと熱が走る。何が起こったのかわからず、ジュリエットの時は三秒ほど停止した。


「あ……」


 呆けたようなマデリーンの声が聞こえたのは、痺れた頭でゆっくりと、今の状況を呑み込み始めた頃だった。

 叩くつもりはなかったのだと、彼女の顔を見た瞬間理解した。マデリーンは自分で自分の行動に絶望したように青ざめ、顔を強張らせていたから。


 痛む頬を押さえながら、ジュリエットは何か言おうと口を開く。だがこんな状況は初めてで、なんと声を掛けていいのかすぐには答えが見つからない。


 気にしないでと言うのもおかしな気がするし、怒るのも違うように思う。


「わ、わたくし――」


 しばらく沈黙が続き、先に声を発したのはマデリーンのほうだ。しかしジュリエットは、その先を聞くことはできなかった。


「どうしてジュリエットを叩いたの?」


 静かな声だった。

 けれど冬色の瞳には、燃え滾るような鮮烈な怒りが浮かんでいた。

 いつの間にか椅子から立ち上がっていたエミリアが、マデリーンをまっすぐに射すくめている。


 マデリーンは弁解をすることもなく、これまで以上に顔色を失い立ち尽くしている。

 いつも自信に満ち溢れ堂々としている姿からは想像できないほどに、後悔に苛まれている様子だった。

 しかし良くも悪くも直情型である十二歳の少女の目には、『友人が理不尽な暴力を振るわれた』という事実しか映っていなかった。


 ひりつく空気を肌で感じ、咄嗟にエミリアを宥めようとしたが、もはや時既に遅かった。


「どうして、そんな酷いことをするの!?」


 山百合の種が弾けるように、エミリアの怒りが爆発する。止めようと伸ばされたジュリエットの手をすり抜けたエミリアは、全身に怒りをみなぎらせながら、強くマデリーンを見上げる。


「ジュリエットはわたしの大切なお友達なの! いつも一生懸命、勉強も教えてくれるわ! なのに何で……ジュリエットが男爵夫人に何をしたの!?」

「わ、わた、わたくし――ごめんなさい……本当に……」


 悄然と俯き謝罪を口にするマデリーンだったが、怒りに打ち震えるエミリアの耳にはほとんど届いていなかっただろう。


「……い」


 エミリアが唸るようなくぐもった声で、何かを呟いた。昂ぶるものをなんとか身の内に収めようとしているせいか、全身がぶるぶると戦慄いている。

 拳を握りしめ震えるその姿は、込み上げる激情にしばらく抗っているように見えたが、そう長くは保たなかった。


「……男爵夫人なんて……、嫌いよ」


 再び紡がれた声は先ほどより低く、けれどやけに鮮明な響きを帯びて、ジュリエットの耳に届いた。


「嫌い、嫌い嫌い! 大っ嫌い!! 出てって! 出て行ってよ! 男爵夫人なんて、ここからいなくなればいいんだわ!」

「エミリア!」


 激しい怒りを露わに嫌悪の言葉を吐く娘と、呼吸さえ忘れたかのように全身を酷く強張らせるマデリーンを。どちらもとても見ていられず、思わず叱責のような大声を上げる。

 マデリーンが部屋の外へ飛び出して行ったのは、それとほぼ同時だった。咄嗟に呼び止めたが、聞こえていたかどうか。


 まだ足が完治していないためか遠ざかる靴の音はやや不規則で、にも拘わらず間隔が非常に短い。


「どうして止めたの!?」


 慌てて追いかけようとしたジュリエットをその場へ押しとどめたのは、エミリアの抗議の声だった。


「男爵夫人は、ジュ、ジュリエットをたた……叩いて……っ! う゛、うぅ――~~~……っ」


 友を侮辱されたことが余程悲しく、悔しかったのだろう。非難は途中で涙声に代わり、両目からぼろぼろと大粒の雫が零れ始める。

 顔をジュリエットのみぞおちへ押しつけるように抱きつきながら、不格好な声を上げて号泣するエミリアを放っておくなどできるわけがない。


 服を濡らす涙の温かさに戸惑いながら、華奢な背や小さな頭をぎこちなく撫で、抱きしめる腕に怖々と力を込める。


 初めて娘を抱きしめたにも拘わらず、けれどジュリエットは気もそぞろだった。

 部屋を飛びだしていく直前、マデリーンが浮かべていた表情。 


 それが、ジュリエットの目にはなぜかとても――とても傷ついて、打ちのめされていたように見えたのだ。


 ――マデリーンが部屋へ戻ってこない。


 血相を変えた彼女の侍女ペネロペがオスカーにそう報告したのは、その日の夜更け過ぎのことだった。

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