第86話

 両親は裕福な老人から金を巻き上げ、それを全て違法賭博に注ぎ込んでいたらしい。

 両親が財産を巻き上げたせいで家を失い、病を得ても治療を受けることすらできず、絶望の中で亡くなった人間までいるそうだ。

 たった二年、実家を離れていた間に、両親は犯罪者に成り果ててしまった。そのことに、大きな衝撃を受ける。


「このままだと君たちのご両親は、たとえ死刑を免れたところで一生を牢獄で過ごすことになるだろう。聞いた話だが、詐欺罪で捕らえられた罪人は一日一食、粗末な食事しか与えられず、冬になっても薄い毛布一枚で過ごさねばならないそうだな? おお、そんな恐ろしい環境に両親が置かれているなど、私ならとても耐えられない!」

「男爵。貴殿は何を仰りたい」


 震えるマデリーンの代わりに、アーサーが男爵の前に出る。

 マデリーンと同じ色をした、彼の榛色の目は常になく鋭い。


「アーサー卿。ご両親が善良な老人から巻き上げた金を、私が代わりに返してやろうと言っているのだよ。借金も全額肩代わりする。借金を返して多少の金さえ積めば、ご両親も晴れて自由の身と言うわけだ」

「……そんなことをして、貴殿に得があるとは思えないが」

「もちろん、その通りだ。私が金を出す条件はただひとつ。そこのマデリーン嬢が私の妻になること」


 それは、穏やかだった日々に終わりを告げる一言だった。

 

 男爵はまだ、自分のことを諦めていなかった。二年近くも離れていたのに。男爵から離れるため、こんな遠い場所まで来たのに。

 招待状も持たず勝手に夜会へ闖入した末、衆目の前でマデリーンを散々に辱めた男爵は去り際、内緒話をするような声で言った。 


「私の親切な申し出を断るのは愚か者のすることだ。君が、ご両親を見捨てられるような薄情な性格でないことはわかっているよ、マディ、、


 べったりとこびりつくような声音で、親しい者にしか赦さない愛称を呼ばれ、反射的に耳を削ぎ落としたくなった。


 兄の口から彼の婚約が決まったと聞かされたのは、それから一ヶ月後のこと。

 相手は兄より十五歳も年上の子爵令嬢で、あの夜会に参加していた招待客のひとりだったらしい。

 男爵の起こした騒ぎを見てアーサーたち兄妹を哀れに思い、手を差し伸べようと思ったそうだ。


 十代半ばで結婚する女性の多いこのエフィランテにおいて、資産家の貴族であるにも拘わらずいまだ独り身の、三十七歳の子爵令嬢との結婚。

 それが何を意味するのかわからないほど、マデリーンも鈍くはない。

 なのに兄は自身が望まぬ結婚をすることで、家族を救おうとしている。


 ――お兄さまには、お付き合いしている相手がいらっしゃるのに……。

 

 けれどその相手はきっと、アーサーと婚約を結んだ子爵令嬢のように、マデリーンの実家を救えるような財力を持った女性ではなかったのだろう。


「お前は、何も心配しなくていいんだ。兄さんに全て任せておけば上手くいくから」


 そう口にした兄の目に、悲壮な決意が浮かんでいたことに気づいていたのに、マデリーンは何も言えなかった。

 

 それから半月後には、件の子爵令嬢が兄に会うためアッシェンまでやってきた。

 頭から香水を被ったようなきつい香りを漂わせ、音を立てて紅茶を啜り、大口を開けて笑う。侍女ではなく美男子の侍従を大勢侍らせ、少しでも気にくわないことがあるとすぐ怒鳴り散らす。


 彼女はアーサーをいたく気に入り、できる限り早く婚儀を上げようと言った。アーサーも、微笑みながら黙って頷いていた。


 兄弟のいない、行き遅れの子爵令嬢。

 金に困っている正騎士。


 第三者が見ても、この結婚の意味がわかったことだろう。

 アーサーが婿入りする代わりに、子爵家には実家の借金や両親の保釈金を払ってもらう。それはエヴァンズ男爵が持ちかけた話と、なんら変わらない取引。

 結婚と言う名の人身売買だ。


 ――わたくしがエヴァンズ男爵と結婚すれば、お兄さまはこんな女性と結婚せずに……恋人との仲を諦めずに済む。わたくしが、我慢すれば。


 マデリーンには好きな相手はいても、恋人はいない。けれど兄には、互いに愛し愛される相手がいるのだ。

 

 だからお兄さまはどうか、好きな相手と添い遂げてくださいと。

 こんな時まで、『兄』であろうとしなくていいと。


 何度も喉まで出かかった言葉を、どうしてとうとう口に出すことができなかったのだろう。

 だけど、どうしても嫌だったのだ。男爵の後妻になり、あのいやらしい顔を毎日見て過ごさねばならないと考えるだけで吐き気を催した。


 兄だってそうだったはずなのに。


 望まない結婚に、思い悩まなかったはずはないのに。

 けれど彼は決して、マデリーンにその役目を押しつけようとはしなかった。

 優しい人だった。両親や妹を見捨てでまで、己の幸せを優先するなど決してできない人だった。


 ――それに比べて、わたくしは……。


 罪悪感と、それ以上に、自分が男爵に嫁がなくて済むようになったことへの安堵を覚えていた自分は、なんと姑息で卑怯な人間なのだろう。

 どんなに頭の中で申し訳ないと考えていたところで、結局マデリーンは、我が身の可愛さを優先して兄を見捨てた。

 誰より汚い人間だ。汚くて醜くて、身勝手だと自分でわかっている。


 ――だから、眩しくてたまらなかった。だから、嫌いだった。


 誰より美しくて、汚れを知らないような清らかな目をした、あの少女が。

 自分とは正反対に雪のように真っ白で、純粋で、繭の中で守られた儚げなあのお姫さまが。


 ――わたくしが何より欲しいものを与えられていながら、それに気付きもしない世間知らずな王女さまが……そこにいるだけで劣等感を煽る奥さまが、わたくしは大嫌いだった。



§


リデル王女プリンシア・リデルの暮らす離宮は、壁紙も調度品も白で統一されていた。こちらでご用意する部屋も、同じ雰囲気で整えておこう。住み慣れた場所と内装が似ていれば、きっと彼女も安心して過ごせるだろう」

「リデル王女は生まれつきお身体が弱い。少しでも無理をすれば、三日間は寝込むほどだと彼女の腹心の侍女が教えてくれた。基本的には侍女たちが身の回りの世話をするが、皆もよく気遣うように」

「結婚式の際に聖堂へ飾る花は、リデル王女の一番好きな白薔薇で揃えるように。温室中の白薔薇をかき集めるんだ」



 国王から結婚の許しを得てからのオスカーは別人のように浮かれはしゃぎ、まるで幼い少年のようにきらきらと輝く目をしていた。

 王女と結婚するため、死に物狂いでオルディア山脈の紛争を制圧したのだ。天にも昇る心地だっただろう。


 長いこと空のままだった城主夫人の部屋が、リデルのためにめまぐるしく変わっていくさまを、マデリーンはただ突っ立って眺めていることしかできなかった。


「これから王都に行って、改めてリデル王女に求婚をしてくる。薔薇の花束を、喜んでいただければいいのだが……」


 父の死後、身を粉にして働き疲労困憊しているにも拘わらず、王女のためにと手ずから温室の薔薇を摘み、小さな花束にしたオスカー。

 王女に頷いてもらえたと、嬉しそうに報告したオスカー。

 間もなく始まる新婚生活に胸弾ませていたあの時期の彼は、マデリーンが知っている中で、最も生き生きしていた。


 そして、婚礼衣装に身を包んだリデルと、そんな彼女を切なげに見つめるオスカーを目にした瞬間、マデリーンは完膚なきまでに打ちのめされた。

 光降り注ぐ聖堂で永久の愛を誓うふたりは、神の祝福を一身に受けているかのごとき神々しさだった。なんと満ち足りた、幸福な夫婦なのだろう。

 負けた、と。あれこれと頭の中で理由を考えるより先に、心で理解していた。


「マデリーン、君もリデルを支えてやってくれ。女主人としての仕事は、彼女の弱い身体には負担がかかってしまうだろう。リデルがこの城での生活に慣れるまでは、君に任せることになってしまうが……」


 ――それを、わたくしに仰るの?


 あと一年で、マデリーンはアーサーと共にアッシェンを離れる。

 兄の婚約者となった子爵令嬢のはからいで、彼女の屋敷で共に暮らすことを許されたからだ。


 子爵夫人の相談役となって本を読んだり話し相手になったり、子爵令嬢の介添人シャヴロンとして外出先に同行する。

 それが、今後のマデリーンの仕事だ。


 子爵令嬢はマデリーンの働きに見合った手当も出すし、いずれ地元の名士との縁談を結ぶとも約束してくれた。

 もう結婚なんてどうでもよかったが、いずれにせよこのままアッシェンに残ることはできない。子爵令嬢の申し出を断る理由は、マデリーンにはなかった。


 偽物の笑顔は得意だ。けれどこの時ばかりは、表情が凍り付いていなかったか自信がない。

 それでもマデリーンはなけなしの矜持を振り絞り、震える声でオスカーの頼みに答えた。


「いいえ、どうぞお気になさらず。これまでのご恩返しに、喜んで奥さまをお支えしますわ」

「ありがとう。助かるよ、マデリーン。きっとリデルも喜ぶだろう」

 

 妻の姿を思い出したのだろう。オスカーの浮べた笑みはどこまでも柔らかく、愛情に満ちていた。


 ――なぜ、その表情を向ける相手がわたくしではいけなかったのですか?


 愛おしくて堪らなかった。だからこそ、それ以上に憎らしかった。

 マデリーンの気持ちに微塵も気づかず、無神経にも目の前で楽しげに王女のことを語る彼のことが。


 ――先に出会ったのは、わたくしのほうだったのに。


 叶わぬ恋とわかりきっていても簡単に手放せないほどには、その想いは真剣だったのだ。

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