第56話

「ジュリエット、ジュリエット、ジュリエット!」


 玄関へ足を踏み入れるより早く、弾んだ声が近づいてきた。

 馬車の音を聞きつけたのだろう。玄関から飛び出してきたエミリアが、ジュリエットの腕の中へ飛び込んでくる。

 あまりに勢いよく来られたため、ジュリエットはその体重を受け止めきれず大きくよろめいた。


「きゃぁっ!」


 エミリアもろとも背後へ傾いたジュリエットは、反射的に小さな身体を庇うようぎゅっと抱き込む。

 そのまま盛大に、地面に倒れ込んでしまった。


「ジュ、ジュリエット! ごめんなさい、大丈夫!?」


 ジュリエットが下敷きになったおかげで、エミリアは無事だったようだ。がばりと身体を起こし、慌ててジュリエットの上から飛び退く。

 

「な、なんとか……」


 地面が芝生だったのと、衝撃を和らげるよう咄嗟に尻餅をついたこと。そしてエミリアの体重がとても軽いのが幸いだった。もちろん多少の痛みはあるが、大したものではない。

 ゆっくりと身体を起こせば、ワンピースの裾や袖が草の汁やら土やらで汚れてしまっているのが見えた。背面はもっと酷い有様だろう。


「痛いところはない? 怪我は? わ、わたし、すぐにハリソン先生を呼んでくるわ!」


 エミリアも、まさか自分が飛びつくことで相手がよろめくとまでは考えていなかったのだろう。可哀想になるほど青ざめた顔で、右往左往している。

 しかし尻餅をついたくらいで医師を呼ぶのは勘弁してほしい。

 念のため手首や足首など捻っていないか確かめてみるが、今のところ特に違和感がある場所はない。


「大丈夫です、なんともありませんから。でも、今のように突然相手に飛びついたら、本当に怪我をさせてしまう可能性があります。今度からは気をつけてくださいね」 

「気を付けるわ。本当にごめんなさい。今日からジュリエットがこのお城で暮らすと思ったら、嬉しくてつい……。これって、また夢を見てるんじゃないわよね?」


 エミリアは自分で自分の頬をつねっている。 

 また、ということは以前にも似たような夢を見たのだろう。それほどまでに楽しみにしてくれていたのかと、ジュリエットは密かに感激してしまった。


 本当はもっと早く来たかったが、実家から離れて暮らすにあたり色々と用意しなければならない物もある。

 ジュリエットは二週間の準備期間をもうけ、衣類、化粧品、裁縫道具など身の回り品の他、実家の出入り商人に頼み、エミリアのための教材もいくつか見繕った。

 おかげでトーマスから譲り受けた二つの鞄は、全てはち切れそうなほど膨らんでいる。

 そのトーマスはと言えば、今、ジュリエットの背後にある幌馬車からちょうど荷物を下ろし終えたところだ。


「それではジュリエットお嬢さま、お荷物はこちらに下ろしておきましたので」

「ええ。何から何まで本当にありがとう。お祖母さまのこと、よろしくお願いします」


 トーマスや彼の娘の協力なくして、エミリアの家庭教師となることを実現するのは不可能だった。今後も色々と、力を借りなければいけない場面が出てくるだろう。

 感謝を込めて軽い抱擁を交わしながら、小声で言葉を交わす。

 遠くから誰かに見られていたとすれば、十分『別れを惜しむ親子の様子』に見えたことだろう。

 トーマスが馬車に乗るのを見届け、ジュリエットはメアリを手招きした。


「エミリアさま、こちらはメアリです。伯爵閣下のお許しをいただき、わたしの世話係として同行させました」

「お父さまから聞いているわ。夕食会の時、少しだけ顔を合わせたわよね? よろしくね、メアリ」

「はい。よろしくお願いいたします、エミリアさま」


 深々と頭を下げるメアリは、フォーリンゲン子爵家の侍女服ではなく、祖母の家から借りてきたメイドのお仕着せを身に着けている。これも、ジュリエットの身分を偽装するための変装の一種だ。

 ジュリエットには当初、メアリを伴う予定はまったくなかった。

 子爵令嬢とはいえ田舎育ち、その気になれば自分の身の回りの世話くらい、なんとかなると考えていたのである。

 実際になんとかなったかどうかはおいておくとして、その件についてジュリエットは相当な苦労を経て、アッシェン城までやってきたのである。


 苦労の内容は、主に両親の説得だ。  

 いくら両親が大らかな性格とはいえ、娘が身分を偽り、半年もの間よそで生活することに頷けるほどの寛容さは持ち合わせていなかった。

 両親の気持ちはわかる。ジュリエットが親でも、きっと反対しただろう。

 けれど、今回ばかりは譲れない。

 毎日言葉を尽くして懸命に説得し、どうしても行きたいのだと何度も訴えた。

 滅多に我が儘を言わないジュリエットの必死の様子に、すったもんだの末とうとう折れた両親は、願いを受け入れる代わりにいくつかの条件を出した。


 その内のひとつが『メアリを一緒に連れていくこと』だ。

 両親にしてみれば、自分たちの目の届かない場所で娘を生活させることが不安で堪らなかったのだろう。

 世話係兼お目付役として、常にメアリを側におかなければ承諾できない、と言われた。


 しかし、庶民の家庭教師が使用人を伴うなど前代未聞。妙な目で見られてしまうのは間違いない。

 悪目立ちすることを避けたいのに、それでは本末転倒だ。

 もちろんジュリエットは懸命に反論したが、両親はこの問題に関しては決して折れてはくれなかった。

 おかげでジュリエットは「父がとても過保護で……」という言い訳を、いちいち口にしなければならなくなってしまったのである。

 面倒臭いが、エミリアを落胆させないためには仕方のないことなのかもしれない。

 そんなこんなで両親の説得に時間がかかったおかげで、ジュリエットは予定より二週間近くも遅れて家庭教師を始める羽目となったのである。


「さあ、行きましょう。あ、荷物は従僕に運ばせるわね。重いでしょう?」

「お気遣いありがとうございます。無理矢理詰め込んだせいで、少し持っただけで腕がちぎれそうで」

「そうだと思ったわ。その鞄、とても大きいんだもの」


 エミリアが軽やかに走り去り、それからすぐ、従僕たちを従え戻ってきた。

 彼らに荷物を任せた後、ジュリエットはエミリアの案内で西棟を目指すことになった。そこに、ジュリエットとメアリが滞在するための部屋が用意されているそうだ。


「すごく可愛いお部屋よ。今朝、お庭で摘んだお花を飾ったの。どんなお花かは見てのお楽しみだけど、ジュリエットが気に入ってくれると嬉しいわ。……あ、今日からはジュリエット〝先生〟ね。間違えちゃった」


 あらかじめ誰かから注意されていたのか、エミリアは少し慌てた様子で律儀に言い直す。


「授業以外で周りに誰もいない時は、今までどおり呼んでくださっていいんですよ」


 こっそり耳打ちをすると、たちまち口元がほころんだ。

 家庭教師という立場でやってきた以上けじめをつけないといけないことはわかっているが、この程度のことなら許されるだろう。


 ――だってわたしは、エミリアの『お友達』でもあるんだもの。


「エミリアさま。改めまして、今日からよろしくお願いいたしますね」

「うん、こちらこそ! よろしくね、ジュリエット」


 今日からまたしばらく、アッシェン城がジュリエットの住まいとなる。

 荘厳な城を眺めているとなんとも複雑な思いに駆られるが、それでもエミリアの嬉しそうな笑顔を見ていると、自身の選択は間違っていなかったのだと確信できた。

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