第57話

「その格好は……一体どうした?」

 ジュリエットを見るなり、オスカーが発した第一声がそれだった。冬色の右目は軽く見開かれ、口もほんの僅かに開いている。


「まさか、来る途中に大型犬にでも襲われたのか……?」


 彼にしてみれば大真面目に心配しているのだろうが、ちょっと冷静になってほしい。馬車を襲うほどの大きな犬がいるとしたら、町中大騒ぎである。


「強いて言うなら、小さな愛らしい子犬と申しますか……」

「子犬?」


 そう。黒くて長い耳と赤いリボンが愛らしい、無邪気でやんちゃな女の子犬、、である。

 ジュリエットが身に着けた茶色のワンピースは今や草切れや土埃にまみれ、メアリに頼んで朝から綺麗に編み込んでもらった髪はぐしゃぐしゃ。とても人前に出られるような格好ではない。


 できるだけ人目につかない内に急いで着替えようと思っていたのに、まさかオスカーと出くわすなんてあまりにも運が悪い。

 自身の目と鼻の先にある、新たな住居となる部屋の扉を恨めしげに見つめつつ、ジュリエットは内心で悪態をつく。


 ――なんで城主が日中からこんなところにいるのよ!


 我ながら支離滅裂な八つ当たりだったが、そのくらい恥ずかしい。

 ジュリエットは少しでもマシになればと、両手でさっさっとワンピースの皺や乱れた髪を整えようとした。


「――お嬢さま、それ以上いじると御髪が爆発した鳥の巣みたいになりますよ」


 すかさず、切れ味の鋭い一言が飛んでくる。


「うっ……」


 つまり悪あがきと言いたいのか。

 メアリの発言はいつも大体辛辣で、それでいて的を射ている。

 ジュリエットは身なりをどうにかするのを諦めることにした。今、『世界一みっともなくて小汚い家庭教師大会』を開いたら、間違いなく自分が一位を獲るに違いない……なんて下らない想像をしてしまう。


「一体どうしてそんなことに? まさかその格好のまま馬車に乗ったわけではないだろう。何か道中、事故でも――」

「お父さま、これはわたしが悪いの! ジュリエットを怒らないで!」

「いや、別に怒っているわけではないが……。お前が悪いというのはどういう意味だ?」


 怪訝そうな父親へ向かって、エミリアがかくかくしかじかと事情を説明する。十二歳の割に理路整然とした説明である。ジュリエットが感心しながら耳を傾けている間に、オスカーは事の次第を完全に理解したようだ。


「……なるほど、子犬か」


 オスカーは眉間に皺を寄せ、娘へ厳しい表情を向ける。


「エミリア、危険だからお父さまや護衛騎士以外には飛びつかないようにと言っておいただろう」

「うぅ……ごめんなさい。ジュリエット……先生が来てくれたのが嬉しくて……」

「相手が怪我をしてからでは遅いんだぞ。もしお前のせいで骨折したり、顔に傷を作ったりしたらどうするつもりなんだ」

「アッシェン伯閣下。わたしからも先ほど注意したことですし、幸いにして怪我もありませんでしたから、もうその辺で……」


 少々差し出がましいかと思いつつもやんわりと口を挟む。

 先ほど同じ事でジュリエットから注意されたばかりなのに、この上父親からまで叱られるのは可哀想だ――というのももちろんあるが、本音を言えば早く着替えたい。髪を結い直したい。

 何が悲しくて、こんな格好のまま廊下に佇んでいなければならないのだろう。頼むから一刻も早く部屋に入らせてほしい。


 先ほどから、廊下を行き交うメイドたちの「やだ、すごい髪」「あれって新しい家庭教師の先生? 斬新な髪型ね」と言わんばかりの視線が痛い。

 しかしオスカーはそんなジュリエットの内心の苦悶を知る由もなく、心底申し訳なさそうに表情を曇らせる。

 

「本当にすまない。この子は日頃から護衛騎士たちを遊び相手にしているせいか、加減がわからないところがあって……」

「いいえ、問題ありませんわ。わたしはそういうことも含め、エミリアさまへ様々な礼儀作法やお勉強を教えるために参りましたので」

「そう言ってもらえると助かるが……。本当に大丈夫か、どこか痛いところや、怪我をしたところなどは――」

「あの、閣下! そろそろお部屋に入っても構いませんか! 身支度を整えたいのですが!」


 とうとう堪らず、ジュリエットはオスカーの言葉を遮る形で主張する。これ以上鳥の巣頭を人前にさらしていると、さしものジュリエットも心がぽきりと折れてしまいそうだ。

 焦るあまり無駄に大きな声が出てしまったが、偶然にもちょうど人通りが途切れたところでよかった。

 オスカーが若干気圧され気味に頷く。

 

「あ、ああ。それは構わないが……。ジュリエット、身支度が終わったら私の書斎へ来てくれ。メイド頭や執事たちに会わせておきたい」

「わかりましたすぐに参りますそれではごきげんよう!」


 彼が全て言い終えるか終えないかの内に一息に言い切って、ジュリエットは部屋の扉を固く閉ざした。


「――なんだか、旦那さまには変なところばかり見られている気がするわ……」


 内装を確認する心の余裕もないまま、壁に背を預けてため息まじりの言葉を口にする。その大きすぎる独り言は、側にいるメアリにもしっかり聞こえていたらしい。


「旦那さま? ああ、アッシェン伯閣下のことですか」

「えっ!?」


 びくりと身体が跳ねた。ついでに踵も僅かに床から浮いた気がする。


 ――わたし、今、『旦那さま』って言っちゃった!?


 いくら気が抜けたとはいえ、前世で用いていた呼称がするりと口から飛び出すなんて、ありえない程の失敗だ。

 

「そっ、そうそう! ほら、家庭教師として雇われているからには、気安くお名前で呼ぶわけにもいかないし」

「ですが、家庭教師は厳密には使用人ではありません。お名前でお呼びするのはともかく〝旦那さま〟というのも違和感があります」

「そうね! その辺については、閣下にも伺ってみるわ」


 ジュリエットはほほほ、と祖母がいつもするような笑い声を上げる。怪訝そうなメアリの視線から逃れるため、やや大げさに両腕を広げ、くるりと身体を回転させながら、新住居の様子にはしゃぐ演技をしてみる。


「見てメアリ! 寄せ木細工の床がとってもお洒落な部屋ね。この扉の向こうがあなたのお部屋かしら?」

「はあ、そうですね」

「大きな本棚もあるし、衣裳部屋も広々してるわ。光沢のある絹織物のカーテンに、大理石のティーテーブル。きっと輸入品ね。こっちの扉が浴室で……。こっちが…………」


 部屋の隅から隅まで飛び回って観察している内に、ジュリエットの声から徐々に勢いが削げ落ちていく。


「……お嬢さま?」

「ねえ、待ってメアリ。このお部屋、豪華すぎない……!?」

 

 淡い緑と青、白を基調とした部屋は清潔感があって明るく、すっきりと統一感のある女性らしい家具は非常にジュリエット好みだ。が、この大理石のティーテーブルだけで、ジュリエットが家庭教師として得る予定の給金、十年分を遙かに超える金額が付くだろう。


「ええ、まあ。家庭教師に割り振られるにしては。という意味ではあり得ないほど豪華なお部屋かと」


 主人に追従し、メアリもまた室内をざっと眺める。

 フォーリンゲン子爵邸――つまりジュリエットの実家にある私室と比べればさすがに少々手狭だが、さすがに好待遇が過ぎる。

 一般的に家庭教師に与えられる部屋は、この部屋の半分の広さもないはずだ。


「わたしはお客さまじゃなくて、家庭教師としてアッシェン城へやってきたのよ? 特別待遇はしないでほしいって、散々言っておいたのに……」


 ジュリエットは頭を抱えた。

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