第58話

 話は三週間ほど前に遡る。

 エミリアの家庭教師を引き受けると決めたジュリエットは、ほぼ毎日のように両親――主に父との舌戦を繰り広げていた。


「どうして駄目なの!?」


 いつもは家族団欒、憩いの場所であるはずのティールームに、ジュリエットの大声が響き渡る。

 手つかずの紅茶や焼き菓子を前に、その日も、ジュリエットは両親の説得を試みていた。

 しかし父母の表情は、湯を入れて三十分放置してしまったお茶よりも渋く、焼きすぎのスコーンより苦い。


「駄目なものは駄目だ! 嫁入り前の娘を男やもめの城で家庭教師として働かせるなんて、許せるはずがないだろう?」

「そうよ、ジュリエット。我が家は娘を働かせるほど困っているわけではないのよ? お小遣いが欲しいのなら、お父さまにお願いすればいくらだって出してくださるし……」

「それはもちろんわかっているわ。でも、そんな話じゃないのよ」


 自分の家が他の貴族と比べてもかなりの資産を有していることは、ジュリエットも一定の年齢を迎えた頃からなんとなくわかっていた。

 父も母もとりたてて贅沢好きというわけではなく、必要な時に必要なぶんだけを買うという主義だが、それでも家具や調度品、身に着けている品々は全て一級品だ。家を訪ねてくる客人たちはいつもどこか羨ましげな顔をしている。

 以前どこかの貴夫人から茶会へ招待され、母と共に遊びに行った際も、周囲の母に対する扱いは明らかに一線を画していた。

「是非お嬢さまとうちの息子を」などと言って、ジュリエットが六歳になるかならないかの内から縁を結ぼうと躍起になる者も、ひとりやふたりではなかった。

 

 ジュリエットはいわゆる『何不自由なく育てられた、恵まれたお嬢さま』だ。

 両親にとって、そんな娘が家庭教師として働きたいと口にするなんて、正に青天の霹靂だっただろう。

 昔から娘の意思を尊重してきた両親だったが、さすがにこれには頷くわけにはいかなかったようだ。


「夜会行きは許したが、こればっかりは駄目だ。半年も実家を出て家庭教師をするなんて、結婚前に妙な噂が立ったらどうするんだ?」

「身分と本名は隠して暮らすから大丈夫よ」

「それでも、もし誰かに知られたら? こんな下世話な言い方はあまりしたくないが……〝家庭教師という名目で愛人として囲われている娘〟なんて目で見られたら、傷つくのはお前なんだよ」


 父はあくまで、ジュリエットを心配して反対してくれているのだろう。そういう見方をする人間がいるということも頭では理解できているし、身分と名前を偽っていても、どこかで嘘が発覚する可能性は否定できない。

 けれど毎日毎日同じことで言い合いを続ける毎日は、ジュリエットを徐々に苛立たせていた。


「別に、もし知られたとしても、やましいところがなければ堂々としていればいいじゃない。わたしはただ、エミリアさまにお勉強を教えにいくだけなのよ。家庭教師は恥ずかしい職業じゃないわ。お父さまたちにだって、ご迷惑はかけないつもりよ」


 ついつい、口調も態度もつっけんどんなものになってしまう。

 少々おてんばなところはあっても反抗期らしい反抗期はなかった娘の、突然のそんな態度に、両親は困り果てたように顔を見合わせた。


「ねえ、ジュリエット。私たちが心配しているのは、我が家のことではなくあなたのことよ。人の悪意というのはとても怖いものなの」

「そうだよ。そもそもアッシェン伯爵家だったら、お前のような若い娘でなく、もっときちんとした家庭教師をいくらでも雇えるだろうに、なぜお前でないといけないんだい。こう言っては悪いが、アッシェン伯には何か下心があるのでは――」

「そうよ、もしあなたの身に何かあったら――」

 

 穿った見方に、かっと頬が熱を持った。


「もう、いい加減にして!」


 沸騰するような怒りに、ジュリエットは反射的に椅子を撥ねのけるようにして立ち上がる。

 確かにリデルと結婚していた頃、オスカーにはふたりも愛人がいた。それを考えれば、女性関係に少々だらしないところはあるのかもしれない。しかし、彼は決して使用人に手を出したことはなかった。

 両親に心配されなくても、彼がたった十六歳の家庭教師を無理矢理手込めにするような卑怯な人間でないことは、ジュリエットがよくわかっている。


「悪気がなければ何を言ってもいいの? アッシェン伯はそんなことをする方ではないわ。高潔な騎士の精神をお持ちなの!」

「――お嬢さま」


 咳払いと共にメアリの窘めるような声が聞こえ、ジュリエットははたと我に返った。見れば両親は目を丸くし、突然の娘の激昂ぶりに驚愕の表情を浮かべている。


「……お前、そんなに熱くなるなんて。まさかアッシェン伯を――」

「やめて。違う。違うの。まさか。それは絶対にないわ」


 放心状態だった父がようやく発した第一声を、ジュリエットは何度も言葉を重ね、きっぱりと否定した。

 むしろ苦手だと言いたいところだったが、それを口にすればきっとまたややこしいことになるだろう。

 しかし、冷静になって改めて考えると、先ほど両親が発した言葉は、果たして怒るほどのことだっただろうか。自分でも疑問に思う。

 両親はオスカーへの悪意があるわけではなく、単に娘を心配しているだけだ。本人を目の前にして言ったのならともかく、内々だけの会話ならさほど問題のある内容ではない。

 

 ――あまりにも毎日同じことで言い争っているから、きっとわたしも苛々してるのね。


 頭に血が上っていたとはいえ、先ほどのジュリエットの態度は、両親に対する態度として決して相応しいものではなかった。


「せっかく心配してくださってるのに、怒鳴ったりしてごめんなさい」


 席に座り直しながら、ジュリエットは真摯に両親を見据える。


「お父さまたちに相談せずに家庭教師のお話をお受けしたことも、悪いと思っているわ。でも、これはわたしにとってとても大事なことなの。どうしても、どうしても、エミリアさまを立派な淑女にするお手伝いがしたいの」


 初めは、エミリアのおねだりに負けてうっかり頷いてしまったことを後悔もした。けれどその後、これは女神スピウスの与えてくれた好機なのではないかと考え直したのだ。

 前世で、リデルはエミリアに何もしてやれないまま命を落とした。母親として側にいることもできず、娘の成長を見る事も叶わなかった。それが、リデルにとって一番の心残りだったと言ってもいい。


「我儘だってわかってるわ。だけど、わたしは本気なの。このお願いを聞いてくれたら、もう今後、二度と我儘を言ったりしないわ。だから一生に一度のお願いと思って、どうか許してください。お願いします」


 短い期間とはいえエミリアの側にいられる。彼女の成長を手助けできるのだ。

 母親、、にとって、これほど嬉しいことはない。贅沢でも、我儘でも、自分勝手でも、ジュリエットの中の『リデル』はそれを渇望していた。

 娘の改まった態度に、両親は戸惑いながら顔を見合わせる。


「……何か問題が起こったらすぐ実家へ連れ戻す。そのことは、きちんと肝に銘じておくように。わかったね?」


 普段より少し厳しい父の声に、咄嗟に反応できず、ジュリエットはまたたきを繰り返した。

 しかしすぐに、彼の言葉の意味を理解する。


「――お父さま! ありがとう、本当にありがとう!」


 ジュリエットは父に飛びつき、彼の頬に繰り返しキスを贈った。

 近頃めっきり娘から甘えられる機会の減った父は、少し照れくさそうな顔をしつつ、それを妙に真面目くさった表情で覆い隠す。


「そうと決まったら、アッシェン伯へ手紙を書かないといけないな。うちの娘に手を出したら、頭髪を全部毟りにいくから覚悟しておくようにと」

「絶対にやめてちょうだい」


 本気か冗談かもわからない父の言葉に、さすがの母まで真顔になった。

 オスカーがフォーリンゲン子爵邸を訪ねてきたのは、それから一週間後のことである。

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