五章 希望と前進
第55話
アッシェン城の使用人たちは皆、そろって浮き足立っていた。
今日はこの城の主人であるアッシェン伯の一人娘エミリアのために、新しい家庭教師がやってくる日。
それだけなら、大して話題にもならず『ああ、またか』で済まされただろう。あるいは階下の者たちの間で、今度の家庭教師は何日保つか……といった賭けでも始まっていたかもしれない。
しかし今回は、これまでと大きく事情が違う。その新人家庭教師は、かつて七人もの家庭教師を追い出した猛者エミリアが、是非自分に勉強を教えてほしいと認めた相手だというのだ。
彼女の名はジュリエット・ヘンドリッジ。
アッシェン領内でも随一の大果樹園主の娘で、まだ十六歳になったばかりの年若い少女である。
それだけでも十分使用人たちの好奇心をかき立てるというのに、噂によると、彼女はエミリアを祝う誕生会の夜、あの『氷の伯爵』と名高い城主オスカーに平手打ちをお見舞いしたというのだ。
「いくらなんでもそれはないでしょ。あのご主人さま相手に手が出せるなんて、騎士団にだってひとりもいやしないわよ」
「いやいや、わからんぞ。今時の若い者は驚くほど向こう見ずだって言うだろう」
「だとしたら相当に気の強いお嬢さんってことかしら? まあ、あのエミリアお嬢さまと渡り合おうっていうんだから、大人しいだけの娘じゃないことは確かよね」
厨房から料理人や台所メイドたちのそんな声が聞こえてきたかと思えば、外からも洗濯婦たちのかしましい声が聞こえてくる。
「ご主人さまもよく、ご自分に手を上げるような娘さんを雇おうなんてお思いになったねぇ」
「本当に! むしろなんでその場で騎士団に突き出さなかったのか不思議なくらいだよ」
「いやいや。噂じゃ先に失礼なことを言ったのはご主人さまだって話さ。それで、娘さんが怒ったとかなんとか」
客室メイドや給仕メイドたちも、朝から玄関先で小鳥のようにさえずっていた。
「ねぇ、聞いた? 新しい先生の噂」
「知ってる。ご主人さまを引っぱたいたって噂でしょ? ここ数日、どこに行ってもその話題で持ちきりよ」
「その先生って、先日ご主人さまが夕食会にお招きしたお嬢さんじゃない? 確かジュリエットって呼ばれていたような記憶があるわ」
「あら、じゃああたしたちと変わらない年齢じゃない。どうせまたすぐ、他の家庭教師みたいに音を上げるわよ」
平手打ちの真相はわからないまま、皆が好き勝手に『ジュリエット』について噂している。
好意的な見方をする者もいれば、中には少しばかり意地悪な目で見る者もおり、城内はいつにない盛り上がりを見せていた。要は皆、新しい家庭教師がどのような人間なのか、早く自分の目で確かめたいのだ。
しかしそんな賑やかな空気を諫めるように、その時誰かが両手を打ち鳴らす大きな音が響いた。
「皆さん、仕事中ですよ! 私語は謹んで、口より手を動かしなさい」
一向にお喋りのやまない使用人たちを見かねて、メイド頭が見回りに来たのである。
「カ、カーソンさん」
「すみませんっ」
深く皺の刻まれた厳しげな眼差しで睨まれ、使用人たちは慌てて口を噤み、蜘蛛の子を散らすように持ち場へ戻っていった。賑やかだった玄関先が、瞬時に静まりかえる。
「まったく……」
腰に手を当て、カーソンは呆れたようにため息を付いた。彼女はつい先ほど、外を回って洗濯婦たちにも注意をしてきたばかりなのである。
次は厨房か、あるいは洗い場か。
すっかり浮ついている使用人たちの気分を引き締めてやらねば。そんなことを考えながらくるりと向きを変えたその時、カーソンの目の前にひとりの少女がやってきた。
城主の娘、エミリアである。
カーソンは廊下の端に寄り、恭しく頭を下げた。
「こんにちは、カーソンさん。ご機嫌いかが?」
鈴の鳴るような声でエミリアが問えば、カーソンはそれだけで満面の笑みになった。
男女問わず全使用人から恐れられ『鬼のメイド頭』などと不名誉なあだ名を付けられているカーソンだが、この小さな伯爵令嬢を前にすると形無しだ。眉間に寄った皺はすっかり取れ、まっすぐに引き結ばれた唇はたちまち弧を描いてしまう。
「お嬢さまの可愛らしいお顔を拝見できて、今日はとてもよい気分です」
「何言ってるの。わたしの顔なんて毎日みたいに見てるじゃない」
「それでもですよ」
「ふぅん?」
納得できたようなできていないような顔で、エミリアが小さく首を傾げた。
そんな何気ない仕草すら可愛くて、孫と接する祖母というのは皆、こんな気持ちなのだろうかと想像してしまう。
自分たちはあくまで主従関係であり、このようなことを考えるのは不敬だ。そうわかっていながらつい図々しい感情を抱いてしまうのは、きっとエミリアを赤ん坊の頃からずっと見守ってきたせいだろう。
「それにしても、お嬢さまは今日は一段とご機嫌でいらっしゃいますね」
「当然よ! だって今日は、ようやくジュリエットがお城に来る日なんだもの!」
ここ数日、エミリアはこれまでにないほど嬉しそうだった。以前から友達を欲しがっていたことももちろんだが、ジュリエットというあの少女を、余程好いているのだろう。
ジュリエット本人に関しての評価はこれからだが、初めてできた友人にはしゃぐエミリアの様子を見ていると、自分までつられて嬉しくなってしまう。
エミリアは可哀想な娘だ。
一歳にも満たない内に母親を亡くし、過保護な父親によって籠の鳥のように育てられた。
父から愛され、大勢の使用人に囲まれ大切にされる生活はある意味恵まれていたが、同時に不幸でもあった。そのせいで彼女はこれまで城の外に出たことがほとんどなく、友人を作ることさえままならなかったのだから。
エミリアが澄んだ水色の瞳で時折寂しげに外を見つめていたことを、カーソンは知っている。
「……楽しみですね。ですがお嬢さま、ジュリエットさんは家庭教師としていらっしゃるのですから、今日からは〝先生〟とお呼びしませんと」
「あ……そっか。そうよね」
いくら友人とはいえ、授業の間は先生と生徒。そこはしっかり線引きしておかないといけない。
カーソンの指摘に、エミリアは神妙に頷いた。
こういった気楽なやりとりができるのも、ひとえに主人が大らかな性格であるからに他ならない。
実際にカーソンの知る先代城主やその奥方は、使用人たちと目も合わせようとしない部類の人々だった。会話は必要最低限、それも基本的には『はい』か『いいえ』と答えることくらいしか許されない。小さな失敗すら許されないような緊張感の中、毎日息を詰めて働いたことをよく覚えている。
古くからのそういった方針が悪いとは思わない。それでもカーソンは、当代の作り出したこの雰囲気が好きだ。
人によってはけじめがないと感じる場合もあるかもしれないが、主従の立場を最低限守りつつ、使用人ひとりひとりを大切にする――。そんな主人の下で働けることを、誇りに思っていた。
その時、玄関のほうが俄に騒がしくなり、エミリアが瞬時に反応する。
「きっとジュリエットだわ! わたし、お迎えに行ってくる!」
たった今注意されたばかりにも関わらず家庭教師の名を呼び捨てにし、軽やかな足取りで走って行く姿に、カーソンは苦笑した。新しい家庭教師の言うことを聞き、もう少しだけ落ち着きのある貴族令嬢として振る舞えるようになればいい。
そして密かに願った。
ジュリエットがエミリアの寂しさを慰め、そしてエミリアにとって何かよい変化をもたらす存在になりますように――と。
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