書籍化お礼番外編『氷の騎士の独白』

 白い敷布の上に、細い手が力なく落ちる。

 その小さな音で、オスカーはハッと我に返った。

 城内は未だ静まりかえっているが、カーテンの向こうは僅かに明るく、遠くから一番鶏の鳴き声が響き渡っている。空気は少しだけ冷たく、火照った肌に心地よい。

 夜の気配を残しつつも、朝がじわじわとその色を濃くしていく……そんな時間帯だ。


 いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。

 見下ろせばそこにあるのは、意識を失った妻の姿だった。 

 普段から白い顔は更に青白く、しかし唇は、鮮やかな薔薇色をいたように赤く染まっている。


「――リデル」


 普段あまり口にすることのない彼女の名を、慌てて呼んだ。

 問いかけに返事はなく、伏せられたままの濃い銀色の睫毛は僅かにも動かない。ぐったりと横たわる姿は、まるで――。


「……っ」


 心臓が、凍えたような気がした。

 微かに開いた唇へ耳を寄せ、覆うもののない胸部を凝視する。

 呼気の音と、白い膨らみが控えめに上下する様を確認した瞬間、喩えようもないほどの安堵を覚えた。

 汗でぐっしょりと濡れた額に張り付いた銀糸の髪を、脇に払いのける。頬に残る涙の痕と、唇の端に滲んだ血に、苦々しい思いが込み上げた。 


 頭に血が上った夫の愚行は、どれほど彼女を恐怖させたことだろう。

 オスカーの強引な振る舞いを前に、リデルはかつてないほど怯えていた。悲鳴を押し殺し、枕に縋り付き、必死で唇を噛みしめていた。

 

 ――なぜ、優しくできなかった。


 もっと他に、いくらでもやりようがあったはずだ。

 オスカーは彼女を、恐怖の底に陥れたかったわけではない。

 むしろ、いつかその時、、、が来たら、繊細な硝子細工を扱うように、大切に大切に触れようと心に誓っていた。悦びと温もりに満ちた行為となることを望んでいた。

 それなのに、彼女がクレッセン公爵と親しげに話している姿を目にしただけで、オスカーの中にくすぶっていた炎が燃え上がった。


 自分は、王女に相応しい伴侶ではない。

 そんなことは、誰より自分自身が一番わかっている。それでも、懸命に見ないふりをしてきたはずの事実だった。

 王に認められた結婚なのだ。後ろ暗いところなど何ひとつない。自分こそがリデルの夫なのだと、胸を張ればいいではないか。


 しかしクレッセン公と向き合うリデルを見て、オスカーの劣等感はこれまでにないほど大きく膨れ上がった。

 イーサン・ディ・ラングフォード。

 目映く輝く金髪。リデルと同じ、瑠璃色の瞳。王族の血を引く、由緒正しき貴族――。

 どれほど激しい嫉妬の炎に炙られ、胸を掻きむしりたいほどの苦痛を覚えても、オスカーは本心でこう考えている。


 美しく高貴な彼こそが、リデルの夫に相応しい……と。


 けれど、オスカーはそんな自身の心の声を、必死で否定した。

 認めたくなかった。

 リデルが自分以外の男の手を取り微笑む姿など、想像したくもなかった。


 それなのに、『リル』『お兄さま』と呼び合うふたりの姿は、オスカーの頭に容易にそんな未来を思い起こさせる。

 リデルの気持ちはわからない。ただ、イーサンのほうは間違いなく、彼女を女性として愛しているのだろう。

 挑発するような彼の態度からは、『従妹の夫』に対する以上の、何か別の感情がひしひしと感じ取れた。


 あの場面で互いに手を出さなかったのは、いっそ奇跡と言っても過言ではないだろう。リデルの制止によってイーサンは身を引き、おかげでオスカーは彼に殴りかからずに済んだ。

 けれどオスカーの中で膨らみきった怒りは、イーサンの退室後、そのまま妻へ向いた。

 

 全身の血が沸騰するような怒りを抱えたまま、オスカーはなんの非もないリデルを責め、冷酷になじった。

 そして宝石のような涙を流し震える彼女を目にしながら、こう思ったのだ。


 鳥は羽切はぎりをして、犬は首輪を嵌めて、逃げないよう囲い込むものだ。

 ならばこの美しい月光の妖精も、どこか遠くへ飛んでいってしまわぬよう、枷を嵌めようと。

 気づけばオスカーの唇は、残酷な言葉を吐き出していた。


『跡継ぎを産むんだ。――クレッセン公でも別の男でもない。正真正銘俺の血を引いた子を』


 子供さえいれば、リデルをこの場所に縛り付けることができる。

 どんなに歪んだやりかただとしても、今のオスカーにはそれ以外にリデルをつなぎ止める方法が考えられなかった。


 それから何度、リデルの押し殺した悲鳴を聞いただろう。

 服を引き裂いた時も、唇で触れた時も、まだ何者をも知らぬ部分を暴いた時も――。そのいずれも、リデルの涙混じりの制止は夜の空気に淡く溶け、オスカーに聞き入れられることなく消えていった。

 自分という人間が、ここまで愚かしいとは思っていなかった。

 彼女を妻にできた。それだけで十分だと思っていたはずなのに、どうやらオスカーは自分でも気づかないうちに、それ以上を望んでいたらしい。


「……すまない」


 銀色の髪を一房掬い、オスカーは毛先にそっと口づける。

 リデルにしてみれば、どの口がそんな戯れ言をと思うだろう。どれほど謝罪をしてみたところで、それはオスカーの自己満足だ。

 こんな矮小な男の妻でいるよりは、イーサンの所へ行ったほうがリデルも幸せなのかもしれない。

 イーサン本人が言っていた通り、宝石もドレスも共に過ごす時間も、彼のほうがオスカーよりずっといい物を与えてやれるだろう。

 けれど。


「――それでも、もう貴女を手放すことはできないんだ」


 それは血を吐くような、オスカーの想いだった。

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