第72話

 淡い光が広がり始める空の下、ジュリエットはそっと礼拝堂の扉に手を掛ける。

 窓の少ない建物だ。鍵のかかっていない扉の向こうは薄暗く、空気は外より少し冷たい。


 礼拝堂内に燭台の火すら灯っていないことを驚きつつ、目をこらしてようやく、オルガンの前に腰掛ける女性の姿を見つけた。

 ジュリエットの位置からでは後ろ姿しか見えないが、頭部を覆う白いヴェールと、同じく白い衣は修道女スーリのそれだ。 


 ――こんな暗い中で……。


 初めは、賛美歌の練習でもしているのかと思った。

 けれど、穏やかで優しい旋律と柔らかな歌詞に耳を傾ければ、それが子供をあやす子守歌であるとすぐに知れた。

 いわゆる澄んだ歌声ではない。しかし土に水が染みこむように、しっとりと耳に馴染む心地よい声だ。

 

 ――もっと近くで聞いてみてもいいかしら。


 邪魔にならぬよう静かに扉を閉め、端の席に腰掛けようとする。しかし、微かな物音で勘づかれたのか。


「……何かご用ですか?」


 オルガンの音色がぴたりと止み、修道女が椅子から立ち上がる気配がした。

 演奏を中断させてしまった申し訳なさと気まずさから、ジュリエットは反射的に頭を下げた。


「す、すみません、綺麗な歌声に誘われてつい……」

「ありがとうございます。嬉しいですわ」


 微かな笑いを含んだ声は優しげで、まるで十年来の友人と接するかのような親しみが籠もっているように感じられた。縮こまった心を自然と解きほぐす喋り方は、修道女という立場ゆえのものか、あるいは本人の元々持った性質だろうか。


「お祈りにいらしたのでしょうか? でしたらご遠慮なさらず、どうぞこちらへ」


 普段は自由に解放されているとライオネルが言った通り、修道女は突然の訪問者に驚きも見せず、快く受け入れてくれる。

 安堵しつつ、促されるがまま祭壇のほうへ足を進めようとしたジュリエットだったが、薄闇の中で視界がおぼつかず、うっかり椅子に足を打ち付けてしまった。

 鈍い打撃音と呻き声に、修道女は大いに慌てたようだった。


「まあ……! 申し訳ございません、わたくしったら、気が利かず……。すぐに灯りをご用意いたしますので、少々お待ち下さいませ」


 靴音が響き渡るほど慌ただしくどこかへ去って行ったかと思えば、ほどなくして、手燭を携え戻ってくる。

 燭台に火を移していく手際は慣れたものだ。

 ひとつ、ふたつと小さな炎が泳ぐようにゆらめき、室内を優しいオレンジ色に染め上げていく。


「おみ足は大丈夫でしょうか? お怪我はなさっておられませんか?」 

「ありがとうございます、大丈夫です。スーリ、――」

 

 礼を言うため改めて修道女に目をやった時。彼女の顔を確認したその瞬間、不自然に言葉が途切れてしまった。

 そして次に口を開いた時、ジュリエットの唇はその名前をごく自然に紡いでいた。


「シャーロット……」

「わたくしの名をご存じなのですか?」


 相手が軽く目を瞠ったと同時に己の迂闊な発言を後悔し、何か言い訳をしなければと考えたのも束の間。

 そこで初めて『あること』に気付き、ジュリエットはシャーロットが暗い中でも不自由なくオルガンを奏でられた理由をようやく知った。

 

 目が、見えていないのだ。

 かつて陽光の下で宝石のように輝いていた彼女の緑の瞳が、今や冬の湖面のような灰色に変じている。

 そしてよく見れば左手には、歩行を助けるためであろう銀色の杖が握られていた。


「ああ、もしかしてあなたがジュリエット先生ですか? お嬢さまの新しい家庭教師としていらっしゃった?」

「あ、は、はい。初めまして」

「やっぱり。耳慣れないお声でしたから、そうではないかと思っておりました。お嬢さまからお話を聞いてご存じかと思いますが、わたくしはこの礼拝堂の管理を任されております、スーリ修道女・シャーロットと申します」


 あのシャーロットが。

 オスカーの愛人だった女性が神のしもべとしての人生を歩んでいる上、視力を失っている事実に、ジュリエットは今、自身でも驚くほどの衝撃を受けていた。


「若い頃に病を患い、直接この目でお姿を拝見できないのが残念です。ですが、きっと素敵な方なのだと雰囲気でわかりますわ。お会いできて光栄です、ジュリエット先生」


 差し出された手を握り返した時、シャーロットの掌との温度差で、自身の指先が酷く冷えていることを知った。

 けれど不思議なことに、それまで滑らかに喋っていたシャーロットもまた唇を唐突に閉ざし、どこか驚いたような表情をしている。


「あなたは――」


 挨拶にしては不自然なほど長く手を握り込んだまま、全く、あるいはほとんど見えていないはずの目で、まっすぐジュリエットのことを見つめている。

 顔を。表情を。雰囲気を?

 否。これはもっと別の、深い何か――。そう、まるで心の奥底にある魂を見定められているかのような。


「スーリ? わたし、何か……?」


 どこか居心地の悪さを覚え、ジュリエットは声を上げずにはいられなかった。

 途端にシャーロットが短く息を呑み、我に返ったようにジュリエットの手を解放する。


「……あ。いいえ、申し訳ございません。お祈りにいらしたのにお時間をとらせてしまいました。さあ、どうぞ女神さまのお側へ。慈しみ深きスピウス女神が、きっとお声を聞き届けてくださいますわ」


 先刻までの驚きを覆い隠すような微笑に小さな引っかかりを覚えたが、初対面の相手にそれを追求するほどの勇気はない。

 勧められるがまま最前列の席へ移動し、跪く。

 そして全てを包み込むように両手を広げた女神像を見上げながら、雑念を追い払い、ただひたすら心の中で語りかけた。

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