第73話

 祈りを始めてしばらくは、なんの変化も起こらなかった。

 しかし諦めて立ち去ろうと腰を浮かしかけた時、突如として頭の中に見知らぬ光景が映し出される。


 古い絵画のようにどこか古ぼけ色あせた、音のない世界。

 教会の中庭だろうか。周囲を建物に囲まれたその場所には、噴水の中央に佇むよう女神像が設置されている。

 噴水の縁にはまだ三歳ほどの小さな少女が腰掛け、像へ向かって何かを熱心に語りかけているようだ。

 

 チョコレート色の目。焦げ茶の髪。

 水色のワンピースを着た――。


 ――わたし? いいえ、あれは……。


 彼女は一体、女神に何を祈っているのだろう。

 聞こえない声を感じ取ろうと、ジュリエットは必死で耳を澄ませた。そしてそれが叶わないと知り、今度は彼女の唇の動きに目を向けた。


『おねがいします、めがみさま。わたしのかわりに――』


 そう言っているように感じた。

 しかし続く言葉を読み取ろうとした瞬間、布を鋏で裁ち切るかのような無機質な音が耳の奥で響く。

 目の前で眩い光が閃いたかと思えば、途端に視界は暗転し、景色が回転しているような感覚に襲われた。

 

 色あせた世界と現実世界が、まるで水の中に垂らした絵の具のようにめまぐるしく渦巻いている。

 それなのに頭の中は妙に冷静だった。


 不思議な夢を見るのはこれで二度目。

 ――否。これはきっと夢ではなく、ジュリエットの知らない過去。

 ジュリアの歩んだ、短い人生の一幕だ。

 なぜだか、訳もなくそう理解する。


 けれどジュリアは一体、なんのためにジュリエットにこの光景を見せたのだろう。


 何かを伝えようとしている?

 だからジュリエットを礼拝堂へ導こうとしていたのだろうか。


 ――でも、あの場所は一体……。

 

「……先生? ジュリエット先生?」

「あ……」


 気付けば目の前にシャーロットがいて、心配そうにジュリエットを見守っていた。



 目の前には未だ、先ほどの強い光がちらついている。頭を振って何度かまたたきを繰り返すと、先ほどより少しだけ明るさを増した陽光が、礼拝堂のステンドグラスを色鮮やかに照らし始めていた。


 もうそこに、先ほど見た幻覚の残滓は一滴も残ってはいない。


 スカートの裾を手で払いながら立ち上がろうとすると、シャーロットが手を貸してくれる。先ほどは気付かなかったが、その手は水仕事か何かで荒れており、皮がささくれていた。


 ――領主の恋人なのに?


 それとも神のしもべとなり世を捨てる際、オスカーとの関係は断ったのだろうか。

 けれど、だとしたらなぜわざわざ、アッシェン城内にある礼拝堂で神に仕えているのか。


「大丈夫ですか? しばらくぼうっとされていらっしゃいましたが、お加減が悪いのでは……」

「い、いえ、大丈夫です。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」

 

 ジュリエットを気遣うシャーロットの態度は、どこからどう見ても清廉な修道女のそれだ。


 そうでなくとも彼女の事情に首を突っ込む権利はないはずなのに、一体自分は、どんな答えを望んでいたのだろうか。

 ほとんど無意識に俗っぽいことを考えていた自分が恥ずかしくなり、ジュリエットは気まずさをごまかすように慌ただしく礼拝堂を後にしようとする。


「あ、あの、ジュリエット先生……!」


 扉を出る寸前、シャーロットに呼び止められた。

 首だけで振り返ると、彼女は何か言いたげに何度か口を開いたり、閉じたりした後、一旦唇を真横に引き結ぶ。

 そして再び口を開くと、首から提げた『女神の環』に触れながら微笑んだ。


「――どうぞまた、お祈りにいらしてください。女神さまはいつもあなたとともにあります」


 それは神に仕える僧や修道女が頻繁に用いる祝福の言葉であったが、彼女の浮かべた笑みはまるで、ジュリエットと初めて握手をした時と同じ、何かを覆い隠すような――。

 


§



 そんな出来事があったせいで、朝食の時のジュリエットはこれ以上ないほど上の空であった。

 千切ったパンを口に運ぶことも忘れてただぼうっと虚空を見つめたり、サラダをスプーンで食べようとしたり、あるいは空のグラスを何度も口へ運んだり。


「ジュリエット。ジュリエットったら!」


 焦ったようなエミリアの呼びかけにはたと我に返った時は、あろうことかバターを紅茶に投入する寸前であった。


「考え事でもしていたの? なんだかずっとぼうっとしていたみたいだけど……」


 自分で思っていた以上に長いこと惚けていたらしい。気付けば半分も食べていないジュリエットと違い、エミリアはとうに食事を終えていた。

 食事作法の特訓もかねてせっかく同席しているのに、家庭教師が心ここにあらずとは情けない話だ。


「す、すみません! このパンがあまりに美味しくて、感激していました」

「そう? それならいいんだけど……」

 

 下手な言い訳だったが、純粋なエミリアはどうやら納得してくれたようだ。

 ジュリエットを急かすこともなく、ただ食事する姿を見守っている。


「ジュリエットの食べ方は綺麗ね。お父さまも前、夕食会の時のジュリエットを見て、食事姿に品があるって褒めていたのよ」

「ありがとうございます。でも、エミリアさまもこの短期間でとてもお上手になられましたよ」


 たった一週間教えただけだが、ナイフとフォークの使い方や基本的な作法を習得するだけで、エミリアの食事風景は見違えるようになった。

 それはもう、これまでなぜあれほど『自由』に振る舞っていたのかわからないほどに。

 今のエミリアは皿を極力汚さず食べられるし、大きな音を立てることなく上手に料理を食べられる。


「何より、苦手なセロリも食べられるようになりましたし」


 悪戯っぽく付け加えれば、かつての自分を思い出したのかエミリアの白い頬が微かに赤く染まった。

 しっかりしているところもあるかと思えば、こういうところはやはり、まだ十二歳の子供だ。


「も、もう、昔の話はいいじゃない。それより未来の話よ!」

「未来?」

「お父さまのお誕生日が二ヶ月後なの。毎年、お父さまは自分のお誕生日を祝わないんだけど、今年こそは〝いつもありがとう〟って気持ちを込めて、お祝いをしたくって……。カーソンさんやロージーにも手伝ってもらって、こっそり準備を進めようと思っているの。ジュリエットも手伝ってくれる?」


 照れたような顔で告げるエミリアの愛くるしさに、かつての苦い経験も忘れ、ジュリエットは迷いなく頷く。


「それは素敵ですね。わたしでよろしければ、ぜひ」

「よかった! お父さまはあまり派手な場所がお好きじゃないから、少ない人数で小さなお茶会を開くつもりよ。喜んでくれるといいんだけど」

「エミリアさまの素敵なお心遣いですもの。嬉しくないはずありませんわ」

「そう? そうだと嬉しいわ」


 この時のジュリエットは、考えもしていなかったのだ。

 まさか二ヶ月後に開かれるその誕生日会で、一波乱が巻き起こるだなんて。


 

 

 

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