第71話
リデルの魂をジュリエットの肉体に移し替えたのが女神スピウスならば、彼女に祈れば、突如蘇った記憶を消すこともできるだろうか。
以前ジュリエットは、そう考えたことがある。
けれど、女神があえて記憶を取り戻させたのだとしたら。不完全な業だったのではなく、何か隠された意図があるとしたら。
女神はジュリエットに、伝えたいのかもしれない。
この十二年のできごとももちろん、夢の中でジュリアが言っていた『不完全な記憶』のことも。
――わたしは、知るべきなの……?
§
それから一週間が経った。
ジュリエットは早い時間に起き出し、身支度を整えて城館の外へ足を踏み出す。
まだ心に迷いはあるが、少しでもそれを断ちきるきっかけになれればと、頃合いを見計らってアッシェン城内にある礼拝堂を訪ねてみようと思ったのだ。
早朝の庭はひとけが少なく、逆に城館内からは賑やかな声が聞こえてくる。きっと厨房で、料理人や台所メイドが忙しなく動き回っているのだろう。
「ええと、確かこっちのほう……」
以前ライオネルと共に遠目から確認した方向へ目を向けると、ひときわ高く空へ伸びた尖塔と、スピウス聖教の象徴である『女神の環』が見えた。
――この場所からなら、お城の裏手を回ったほうが早そうね。
咄嗟にそう判断し、玄関とは反対方向へ足を向ける。しかし、少し歩いたところで誰かの話し声がすることに気付いた。
――旦那さま?
昨日の今日で顔を合わせづらく、来た道を引き返そうと踵を返しかけたジュリエットだったが、おかしなことに気付く。
オスカー以外の声が聞こえてこないのだ。他に人がいる気配もないのに、彼はまるで誰かと会話でもしているような口調で喋っていた。
呟くような声は小さく、言葉の内容はほとんど聞き取れなかった。
「……リデル」
それなのにどうして、拾ってしまったのだろう。生前はほとんど呼ばれることのなかった、その名を。
単純な驚愕とも、緊張とも少し違う。心が微かな強ばりを帯び、常になく鼓動が逸る。
――どんな顔で、どんな感情を乗せて、あなたは今、わたしの名を呼んだのですか?
知りたい。怖い。けれど、確かめてみたい。
胸に手を当て、ほとんど無意識に足を踏み出したジュリエットは、ひとり跪くオスカーの後ろ姿を見つけた。
そこは小さな庭だった。
蔓薔薇のつたう飾り柱で囲まれ、よく手入れの行き届いた、派手ではないが落ち着く雰囲気の。
オスカーの足下には小さな白い石碑があり、その特徴的な形から、離れていても墓石だとわかった。
この位置からでは、オスカーの顔を確認することはできない。
しかし、なんと寂しそうな背中なのだろう。
朝の柔らかな光の中なのに、彼だけがまるで世界中のあらゆるものから取り残され、孤独という影に呑み込まれてしまいそうに思える。
「……また、来る」
少し固い、けれど優しげな声は、昨晩彼が剣帯のことを話していた時の表情を思い起こさせた。
立ち上がる気配と足音に、こそこそする必要はなかったはずなのに、咄嗟に物陰に身を潜めてしまう。
オスカーの気配が遠のいたのを確かめ石碑に近づけば、白い大理石は大輪の白薔薇に囲まれ、表面に『リデル・ラ・シルフィリア・ディ・アーリング』の名が刻まれている。
――わたしの……。エンベルンの森から、戻ってきていたのね。
こんな美しい場所に埋葬されているというのは意外だった。そして、大好きだった白薔薇に囲まれていることも。
安らかな眠りを――と。
妻の死に際し、少しでもそう願う気持ちがオスカーにあったのだと一目でわかる、そんな場所だった。
それにしても、この下に前世の自分の身体が眠っているのだと考えると複雑な気分だ。
石碑の表面をそっとなぞれば、指先の温度を吸い取られるかのように冷たい。けれどある一点に触れた時、ジュリエットはその場所だけが温かくなっていることに気付いた。
体温が移るほどに長い時間、オスカーが手を置いていた証だ。
――こんなことをしたって意味はないのに。
けれどその残った温度から、少しでも彼の心が推し量れないか。リデルの亡骸と対面した時、彼がどんな思いを抱いたのかと、衝動的に掌を重ねてしまう。
そして――やはり、何もわからなかった。
――ばかね、そんなのわかるはずがないのに。
人の心は目に見えるものでも、簡単に感じ取れるものでもない。だから人間は、言葉を介して互いの気持ちを伝え合うのだ。
怒りも、苦しみも、悲しみも、喜びも、そして愛も。
墓石に移った温度からわかるのならば苦労はいらない。
苦笑したその時、ふと、どこか間近で小さな女の子の笑い声が聞こえた。
周囲を見渡したジュリエットだったが、人影はない。
(――ねえ、こっちよ)
再び声が響く。
視線を巡らせるジュリエットの視界に映ったのは、白いワンピースを身に着けた女の子だ。
「……ジュリア?」
(またすぐ会えるって言ったでしょう?)
淡い金の光に包まれたその姿は現実味がなく、薄い水の膜を通して見る幻のようだった。
思わず手の甲で両目を擦ったが、ジュリアは消えることなく、数歩離れた場所に佇みジュリエットを見つめている。
(女神さまとお話がしたいのよね。こっちに来て)
不思議な感覚だ。ジュリアの姿は目の前にあるのに、声は頭の中で響いているかのよう。
単なる白昼夢として無視することもできたはずなのに、雲の上を跳ねるようなジュリアの軽やかな足取りにつられるように、いつの間にかジュリエットも走り始めていた。
「待って、ジュリア……!」
幻なのか夢なのか、あるいはジュリエットの妄想なのか。もうそんなことは関係なく、彼女には聞きたいことがたくさんあった。けれど礼拝堂の入り口に辿りついた瞬間、ジュリアの姿は霧のようにすっと空気に溶けて消えてしまう。
「ジュリア……? ジュリア?」
何度も呼んでみたが、とうとう返事はなかった。
代わりに聞こえてきたのは、礼拝堂の中から響く重厚なオルガンの音。そして、物悲しくも美しい歌声だった。
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