第70話

 オスカーに呼び出されたのは、その日の晩のことだった。


「エミリアが、貴女の授業はとても楽しかったと言っていた。あの子がそんなことを言うのは初めてだ。心から感謝する」


 人払いのされた室内で、彼は珍しく微笑んでいた。

 やはりエミリアのこととなると雰囲気が柔らかくなる。『氷の騎士』も、愛娘の前だと普通の優しい父親になってしまうのだ。その事実に、改めて軽い驚きを覚えてしまった。


「いいえ、わたしは大したことは何も……。エミリアさまは元が素直ですし、その気になればすぐに、色々なことを覚えて吸収されると思います」

「そう言ってもらえるとありがたい。あの子のことを、これからもどうかよろしく頼む」


 エミリアのために浮かべた笑みそのままを向けられ、居心地の悪さについ目を伏せてしまう。彼のこんな表情なんて、リデルだった時ですら見たことがなかったのに。

 胸のざわつきに耐えきれず、ジュリエットはそのまま所在なく視線を彷徨わせた。


 彼の執務室をじっくりと見るのはこれが初めてだ。

 よく整理整頓された、紙とインクの匂いに満ちた飾り気のない部屋。書棚には沢山の本が並び、机の上には気が遠くなるほど大量の書類と文具が置かれている。


 それから空の暖炉と――。


「……剣帯?」


 吸い寄せられるように、視線がその一点に釘付けになった。

 かつてリデルがオスカーの誕生日を祝うため、苦手な刺繍を施して作った剣帯が、綺麗に折りたたまれた状態で暖炉の上に置かれている。


 ――どうして、これがここに……?


 我が目を疑った。

 恐らくリデルの死後、衣装部屋を片付けた誰かが箱を見つけ、気を利かせて彼に渡したのだろうが、記憶より数倍ひどい出来映えに目を覆いたくなる。こんなものを贈り物として渡そうとしていたなんて信じられない。

 羞恥を顔に出すのはなんとか堪えたものの、先ほどの小さな呟きは、オスカーの耳にしっかり届いていたらしい。


「これは……亡き妻からの贈り物だ」

「そ、そうでしたか。珍しい模様ですね」


 素知らぬふりをするのに苦労して少し声が震えてしまったが、剣帯を手に取って見つめるオスカーには気付かれなかったようだ。


「アーリングの祖先であるアール族の時代から伝わる、特別な紋様だ。持ち主に神々の加護を与えると言われている」

「……旦那さまは、その……」

「ん?」

「それを、大切になさっているのですか……?」


 考えなしにそんな質問が口を突いて出たのは、十二年も経っているのに剣帯があまりに綺麗な状態を保っていたからだ。

 リデルのことを疎んでいた彼なら、死後にそれを受け取ったところで、捨てるか適当な場所に放置していてもおかしくはないはずなのに。

 けれどやはりこんなこと、聞くべきではなかったのかもしれない。


「もちろんだ。彼女が……刺繍の苦手な妻が、私のために一生懸命作ってくれたものなのだから」


 剣帯を見つめるオスカーの表情を目にした瞬間、ジュリエットは自身の軽率な行動を後悔した。

 彼は、笑っていたのだ。柔らかに目を細め、口元を緩ませて。

 そこに、かつてリデルに向けられていた冷たさは片鱗すら感じられない。まるで本当に大切な思い出の品を見つめるかのような優しげな表情から、目が離せなくなった。


 ――どうして……。あなたはわたしを厭っていたはずでしょう。


 王の結んだ婚姻だから――王女との結婚で得られる富と名声を目当てに結婚した。そう言っていたではないか。

 それなのに、なぜ。

 なぜ、今更。

 リデルが生きてきた時には一度も見せたことのない顔に心を大きく揺さぶられ、胸の奥が怒りとも悲しみともつかない感情で締め付けられるように痛む。


 このまま留まれば何か余計なことを口走ってしまいそうな気がして、ジュリエットは強引にオスカーから視線を引き剥がした。


「立ち入った質問をして申し訳ございませんでした。そろそろ下がらせていただきますね」

「ジュリエット? 何か顔色が――」

「大丈夫です。初日で少し疲れただけですから。明日からの授業に差し障りはございません。……それでは、失礼いたしますね」


 愛想笑いで話を打ち切り、頭を下げたが、上手く笑えていた自信は少しもない。

 逃げるようにその場を後にしたジュリエットは、オスカーの部屋から数歩離れたところで立ち止まり、そっと振り返った。

 彼が追ってくる様子はない。


 軽く安堵のため息をつき、ひとけのない廊下の窓から空を見上げた。

 暗い夜空には、三日月より細く尖った月が浮かんでいる。

 よく研がれた刃のようにも見えることから、昔のアール族はあの月を『軍神の剣』と呼んだそうだ。それを教えてくれたのは、カーソンだった。


『奥さまが今、刺繍なさっているその紋様も、軍神の加護を表わしたものです。スピウス聖教とはまた違う土着の信仰ではございますが、アーリング家では未だに先祖を敬い、いにしえの神々も大切にしているのですよ』


 ――カーソンさん。わたしの刺繍では、旦那さまは加護を授かれなかったみたいだわ。


 思いを込めて縫ったリデルの剣帯では、彼の左目を守ることができなかったのだから。

 それなのに、そんな役立たずの剣帯を、オスカーは宝物のように手元に置いて大事にしている。


 ――わたしリデルの知っている旦那さまとは、本当に別人のよう。


 『軍神の剣』。その話を初めて聞いた時、鋭く冴え渡る月と彼の姿がぴたりと重なったように思えた。

 リデルにとってオスカーはいつだって、どれだけ手を伸ばしても決して届くことのない、遠い存在だったから。 


 けれど、本当にそうだったのだろうか。

 窓から月へ向かって手を伸ばす。

 淡く温かな光が、ジュリエットの指先から手首までを照らしている。そうすると遙か遠くにある月に、微かに触れられたような気がした。


 もし、生まれ変わったことに――かつての夫や娘と再会したことに、何か意味があるのだとしたら……。


 ――わたしは本当にこのまま、過去を忘れて新しい人生を歩んでもいいのかしら。


 前世のことに目を塞ぎ、全てをなかったことにして――。それで本当に、いいのだろうか。

 オスカーの心を、知ろうともせずに。


 それはジュリエットが前世の記憶を取り戻してから初めて心に生まれた、迷いだった。

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