第69話
あの日の声が、聞こえる。
かつてエンベルンの森で盗賊に襲われた際、彼女と交わした言葉が。
『逃げなさい、ミーナ! 行って、助けを呼ぶの! あなたならできる』
『奥さまを置いてなんていけません……! 一緒に……っ』
『これは命令よ! いきなさい!!』
馬に乗って遠ざかっていく侍女の後ろ姿を見送った時、リデルは恐怖よりもむしろ、安堵と誇らしさでいっぱいだった。
初めて主人らしいことができた。これまでずっと姉のようにそばにいてくれた大切な侍女を、守ることができたのだと――。
「初めまして、ジュリエット先生。わたくし、エミリアお嬢さまの侍女長を務めております、ミーナ・ディ・オルブライトと申します」
記憶の中の水を通したようなぼやけた声とは違う、近くで響いた現実の声に、ジュリエットは閉じていた目を開いた。
ほんの短い時間だったが、どうやらいつの間にか、意識が当時に遡っていたらしい。
――生きていたのね、ミーナ。よかった……。
目の前に佇む女性を、ジュリエットは改めて見つめた。
栗色の髪におなじみの侍女服。
十二年の月日を経て当時より少し落ち着いた印象になっているが、懐かしい姿に安堵する。
「初めまして、ジュリエット・ヘンドリッジと申します。ええと……オルブライト夫人?」
旧姓のままだからどちらなのか判別がつかず、躊躇いがちに語尾を上げてしまう。
ミーナの実家であるオルブライト家では早くに父親が亡くなり、家督を継ぐ息子がいなかった。だからどこかの家から婿養子を取ったという可能性を考えていたのだが、ミーナはそっと首を横に振った。
「いいえ、わたくしは未婚ですわ」
「あ……! 失礼いたしました」
「どうぞお気になさらず。侍女長を務めるのは既婚者が多いですものね」
丁寧な喋り方も、品のいい笑い方も昔のままだ。しかしどうしてだろう。どこかその雰囲気に、影が差しているように思えるのは。
向けられた視線に気付いたのか、ミーナが顔を上げて微笑む。
「先生の紅茶もご用意しておりますので、しばらくお待ちくださいね」
「……ありがとうございます」
だけどミーナはこんな風に、悲しげに笑う人だっただろうか。
いつも明るく、気立てがよく、その場を和ませる柔らかな笑顔以外の表情なんてほとんど見たことがないほどだったのに。
ジュリエットの困惑も知らず、ミーナは慣れた様子で手際よくテーブルに茶器を並べていく。その光景があまりに懐かしくて、つい不躾に横顔を見つめてしまった。
部屋で過ごすことが多かったリデルのために紅茶を用意するのは、いつもミーナの仕事だった。
だから今にも彼女がこちらを向いて、以前のように話しかけてくれるのではないかという錯覚に囚われる。
『姫さまのお好きな、お砂糖たっぷりのミルクティーをご用意いたしましたよ』
そういう時、リデルは必ずミーナを隣に座らせ、共に紅茶を飲むことを望んだ。
『ひとりで飲む紅茶より、ふたりで飲む紅茶のほうが美味しいから……』
ミーナの母はあまりいい顔をしなかったけれど、あのお茶の時間は、伏せってばかりのリデルにとって数少ない楽しみのひとつだった。
ミーナと並んでミルクティーを飲んで、時折、離宮を訪れるイーサンも交えることもあった。
もう決して戻らない、遠い昔の宝石のようにきらきらした大切な日々。
「ミーナはお母さまがお父さまと結婚する時、王宮から一緒についてきたのよ。だから、お母さまのことはなんでも知っているの」
不意に、横からエミリアが話しかけてくる。いつの間にか机の上の教本は閉じられ、文具も片付けられており、すっかり休憩に入った様子だ。
「それでは、もしかして先ほどの求婚の花束の話は――」
「ミーナから聞いたのよ。ミーナはちょっと厳しいけど、お母さまのお話をしてくれる時はいつもすごく優しい顔をするの。きっとお母さまのことが大好きだったのね」
そういえば先ほどエミリアは、自分の髪はリデルと同じく扱いにくいらしいと言っていた。
それを知り得る人物はミーナしかいないはずだったのに、聞いた時に咄嗟に思い浮かばなかったのは、彼女がまだアッシェン城にいるとは考えもしていなかったからだ。
どうして、残ったのだろう。
実家に戻って結婚することもできただろうし、王都に残してきた母親と共に暮らすこともできただろうに。
「お嬢さま……。授業と関係ないお話ばかりして、先生を困らせたのではありませんか?」
「そんなことないわ! 今日は建国史を勉強したのよ。お母さまのお話をしたのは、そのイッカンよ」
「それならよろしいのですが……。男爵夫人の時のように授業から逃げたり、反抗ばかりしてはいけませんよ」
「大丈夫よ。ジュリエットの授業はとても楽しいんだもの」
エミリアは自信満々に胸を張るが、あまり信用していないのか、ミーナは困った顔で銀盆を抱えている。
少し厳しげな表情は、リデルの知らないそれだ。
――
頭と胸の奥が、同時に小さな痛みを訴える。
責任感が強く、いつでもリデルのことを一番に考えていたミーナなら、あり得ない話ではない。
『すぐに……すぐに助けを呼んで参ります! どうかそれまで……っ』
今にも泣き出しそうな顔をして、未練を断ち切るように馬で走り出したミーナの悲痛な叫びを思い出す。
彼女はリデルをたったひとりあの場に置いていくことに、最後まで抵抗していた。
だからミーナはアッシェン城に留まり続け、リデルの忘れ形見であるエミリアに仕えているのだろうか。
わからない。
なぜならジュリエットは、リデルが死んでからの十二年間を知らないのだから。
ミーナだけではない。王家の両親や兄弟たち、イーサンやマデリーン。
そして、エミリアにオスカー……。
この十二年の間、自分に関わりのあった彼らがどのように過ごし、何を考え生きてきたのか。ジュリエットは何も知らない。
――ねえ、ミーナ。わたしがあなたをひとりで逃がしたから、責任を感じているの? 助けが間に合わなかったことを、悔やんでいるの?
そんな必要はどこにもないのに。
――わたしはあなたが無事に生き伸びていたと知れて、本当に嬉しかったのよ。
けれど口にできない慰めは本人の耳に届くこともなく、ただ胸の奥でくすぶっていくだけだった。
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