第68話

「それは……とても素敵な目標ですね」


 自然とそんな言葉がこぼれた。

 亡き母を目標にしたいという娘の姿を見られたことも嬉しかったし、誰かがエミリアに対して、リデルのことを『素敵な淑女』と話してくれたことも嬉しい。

 けれどジュリエットの反応は、エミリアにとっては意外なもののようだった。


「よかった。もしかしたら笑われるかもと思って、ドキドキしていたの」

「どうしてですか?」

「だって、お母さまは本当に素敵なお姫さまだったんだもの。みんなそう言ってたわ」


 小さな指が、またしてもドレスの上を泳ぐ。黄色い布地に皺を作りながら、エミリアは声をひそめて話を続けた。


「……こんなこと教えるのはジュリエットが初めてよ。あのね、わたし本当は、ずっと前からお母さまみたいになりたいと思っていたの。でも、わたしは勉強もダンスも何をやってもだめで……。だから、少し諦めていたの」

「そんなことはありません」


 さまよう手を握るために上げかけた手を密かに下ろし、ジュリエットは不安そうなエミリアの目を覗き込む。先ほど、目標を口にする時に少し躊躇う様子があったのは、そういうことだったのか。

 どうやら彼女の中では美化されているらしいが、リデルだってダンスは全く踊れなかったし、アッシェン領へ嫁ぐ前はまともに刺繍すらできない平凡な王女だった。

 もちろん、それをそのまま伝えることはできないけれど。

  

「きっとエミリアさまのお母さま――リデルさまも、苦労した時期がおありのはずですよ。最初から何もかもできる人間なんていないのですから」

「でも、男爵夫人からはいつも呆れられているわ。口には出さないけれど、こんなこともできないのかって思っているはずよ」

「エミリアさま……。男爵夫人も、エミリアさまを立派な淑女にしたいという考えは同じのはずです。その証拠に、あの方が授業のためにご用意くださった資料は、どれも熱心に作られたものばかりでしたから」


 個人的な感情は置いておくとして、マデリーンがエミリアのためを思って教育していることは間違いないはずだ。

 ただ、エミリアにはそのやり方が少し合わなかったのかもしれない。それを判断できるほどジュリエットは経験豊富な家庭教師ではないが、せめて自分なりの方法で、なんとかエミリアに自信を取り戻させてあげられないかと思う。


「そうだ! せっかくなので、先に近代の歴史を学んでみませんか? 例えば、エミリアさまのひいおじいさまに当たる先々代の王さまの時代からとか。自分の身近な人のお話だと思うと親しみが湧いて、少し興味が持てるかもしれません」

「最初から覚えなくていいの?」

「もちろん最終的には覚えていただかなければいけませんが、まずは興味を持つところから始めたほうが、勉強にも身が入ると思いますよ」


 これはジュリエットがかつて自身の家庭教師から教わった受け売りだが、今思い返してもなかなか的を射た教育方針だと思う。

 特にエミリアは王家の血を引いているし、歴史を学ぶという意識でいるより、自分に近しい先祖の話を聞くくらいの気軽さでいたほうが、抵抗感も少ないだろう。

 上手くいくかどうかはわからないが、やってみるしかない。


「少しずつ、焦らずに覚えていきましょうね」

「……はい!」

 

 頷いたエミリアの顔は、先ほどまでと比べて少しだけ明るくなったように思えた。



§

 


 結果的にエミリアは歴史に多少興味を抱いてくれたようで、目的は果たせたものの、本来の授業内容からは少々脱線した。

 先々代の国王の話から先代の国王、そして当代と辿っていく内にエミリアの目が輝き始め、自然と彼女の母――つまりリデルの話題に移り変わっていってしまったのだ。


 最新の建国史には恐らくリデルの項目もあるだろうし、歴史の人物であることに変わりはないから別にいい。

 しかし。


「それでね! お父さまはお母さまに結婚を申し込む時、たった十二本の白薔薇しか贈らなかったんですって。普通は抱えきれないほど大きな花束を贈るものなんでしょう?」

「そ、そういうものかもしれませんね……」

「お父さまってそういうところが気が利かないと思うの。でも、お母さまはとても喜んでいたそうだからそれでよかったのかしら」


 はぁ、とエミリアが大人びたため息を落とす。

 ジュリエットの授業は今日が初日だし、いきいきと母の話をするエミリアを止める気にもなれず、ついつい耳を傾けてしまったが――――気まずい。

 まさか娘の口から、自分の前世の求婚話を聞かされるとは思ってもみなかった。


「あの、エミリアさまはそういうお話を、お父さまからお聞きになったのですか?」 


 前世にまつわる話を知るべきではない、あまり踏み込んではいけない。

 そう頭ではわかっていても、つい好奇心が勝って問いかけてしまう。


 ――旦那さまが十二本の白薔薇を持って求婚にいらっしゃった時、わたしは俯いてばかりだったもの。


『結婚していただけますか?』

 

 その言葉に胸が詰まって、頷くことしかできなかった。内心では大喜びしていたが、それが彼に伝わっていたとは到底考えにくい。


「ううん。この話をしてくれたのは……あ、そろそろお茶を運んでくる時間ね。ちょうどよかったわ」


 エミリアが壁際の柱時計を確かめるなり、見計らったように外から扉が叩かれる。


「お嬢さま、失礼いたします。紅茶をお持ちいたしました」


 聞き覚えのあるその声に、ジュリエットはしばし扉を凝視し、声の主が現れるのを待ち続けた。

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