六章 始まりの日
第67話
――さあ、今日から新しい一日が始まるわ。
一晩ぐっすり眠って前日の疲れを取ったジュリエットは、授業のための教材を揃えると、早速エミリアの部屋へ向かった。
伯爵一族の私的な空間を通り抜けるのは未だに緊張するが、この先に可愛い教え子が待っていると思うとそれだけで勇気が出る。
当初の予定では座学は引き続きマデリーンが教える予定だったが、移動で足を悪くしては元も子もないということで、しばらくの間、ジュリエットが全ての授業を任されることとなったのだ。
エミリアの部屋に行くのは初めてだが、場所はすぐにわかった。
部屋の前に侍女服を着た女性が二人、佇んでいたからだ。
「ジュリエット先生ですわね。お越しを心より、心よりお待ち申し上げておりました」
「どうぞお嬢さまのこと、よろしくお願いいたしますわ……!」
出迎えのために待ってくれていたらしい侍女たちからやたらと真剣な表情で熱っぽく訴えられ、彼女たちの日頃の苦労がしのばれる。
あまり長話をしている余裕もなさそうなので、ジュリエットはひとまず「お任せください」とだけ答え、中に通してもらった。
「失礼いたします、エミリアさま」
「ジュリエット! ようこそ」
扉から顔を覗かせると、既に待機していたエミリアが弾かれたようにジュリエットの許へ走ってくる。
今日の出で立ちは黄色いドレスに水色のリボン。夏らしい、爽やかな組み合わせだ。
長い髪は二つに結んだ上で編み込まれ、ぐるりと羊の角のような輪っか形にまとめられていた。
「素敵な髪型ですね」
「そうでしょう? わたしの髪はお母さまに似て扱いにくいらしいんだけど、髪を結うのがとっても上手な人がいて、毎朝その人が結ってくれるの。ジュリエットにも後で紹介するわね」
髪を結うのは侍女の仕事だ。リデルにとってのミーナ、ジュリエットにとってのメアリのような存在が、エミリアにもいるのだろう。
その相手のことを慕っているのが、エミリアの表情からよく伝わってくる。
「楽しみにしていますね」
「うん! あっ、そうだ。先生、今日からよろしくお願いします」
楽しげに喋っていたエミリアが一転、澄ましたような顔をしてその場で礼をした。
ドレスの裾をつまみ、左足をすっと斜め後ろに引いて滑らかな動作で腰を落とす。体幹がしっかりしているのか僅かのブレもなく、見事としか言いようのないお辞儀だ。
「エミリアさまは、ダンスがお得意なのですか?」
「えっ、ダンス? ダンスは苦手よ。いつも男爵夫人からは優雅さが足りないって怒られちゃうの。そうだ、ジュリエットがお手本を見せてくれたら嬉しいわ」
「もちろんです。――ですが今日はまず、歴史のお勉強からいたしましょうね」
可愛らしい顔が一瞬、抵抗感に歪んだが、返ってきた返事はとても素直なものだった。
「……はい、先生」
ただしその声色は、今にも消えそうなほど意気消沈していたが。
§
「――というわけで、スピウス歴四百四十二年、戦争を終結させたシルフィリア王国が他の七王国全てを支配し、新たにエフィランテという王国を興したのですが……。ここまでのところはご理解いただけましたか?」
「うーん……」
ご理解いただけなかったようだ。
建国史。この国に生まれた貴族令嬢なら、必ず幼い頃から頭に叩き込まれる歴史だ。
今ジュリエットが説明したのは建国前における触りの部分で、エミリアも一度や二度とは言わず何度も習っているはずなのだが、反応は芳しくなかった。
教科書とにらめっこしたまま、渋い顔でうんうん唸っている。
「建国史って退屈ですよね。わたしも小さな頃は苦手でした」
ジュリエットは苦笑し、教科書をパタンと閉じた。弾かれたように、エミリアが顔を上げる。
「建国史だけじゃなくて、他の色々な勉強やお稽古の時間も。だって、葡萄園で農夫の子供たちと追いかけっこをするほうが、よほど楽しかったですから」
家庭教師がそんなことを言ってもいいのか。
まん丸に見開かれた水色の目は、そんな疑問を隠そうともしていない。
「でも、それならジュリエットはどうやって色んなことを覚えたの? 勉強が苦手だったんでしょう? 男爵夫人は、自分のために勉強を頑張れって言うんだけど、なんだかよくわからなくて……」
「それも正しいですが、まずは身近な目標を立てることもおすすめですよ」
今のエミリアに、将来社交界デビューした時のためにだとか、嫁ぐ時に役立つなんて言っても、恐らくピンとこないだろう。ジュリエットも同じ年頃の時はそうだった。
「わたしの場合は、〝父の役に立ちたい〟でした」
「お父さま?」
「ええ。父は昔からわたしをよく、フォーリンゲンの葡萄園やワイン工場に連れて行ってくれました。皆、父をとても慕っていて、毎回歓迎してくれて……」
思い返してみれば、かなり領民との距離が近い領主だったと思う。
父は手ずから葡萄を摘み、ワインの出来を確かめ、常に農夫や工場夫たちに労いの言葉を忘れなかった。
「父は〝領民が笑顔でいることが、私たちにとっての幸せなんだよ〟と教えてくれました。それを聞いたわたしは、幼心に、フォーリンゲンのひとり娘としてしっかりしなければと思ったものです」
「お父さまもよく言っているわ。領民たちや使用人が支えてくれなければ、わたしたちの生活は成り立たないんだって……。そっか、ジュリエットもわたしと同じなのよね」
男の子の生まれなかった家庭のひとり娘。爵位を継げない代わりにいずれ婿を取り、家を守っていく存在――。改めて考えると、確かに、ジュリエットとエミリアは同じ境遇に置かれた似たもの同士だ。
「わたしの場合は父の影響が大きかったですが、もちろん、きっかけはなんでもいいんです」
理想を言えば、マデリーンの言ったように『自分のために頑張る』というのが正しいだろう。『他人のために頑張る』という目標は、ともすれば自分という存在を見失う道にも繋がりかねないのだから。
しかしジュリエットの目から見て、今のエミリアにはもっとわかりやすく、明確な道しるべが必要なように思えた。
将来を見据えた長い期間の目標ではなく、短期間ごとに目標を定めていけば、少しずつでも成長していけるのではないだろうか。
「そうですね……。たとえば、誰かに褒めてもらいたいとか、憧れの人みたいになってみたいとか。エミリアさまにはそういう存在はいませんか?」
「憧れ……」
エミリアは視線を落とし、少しためらう素振りを見せる。もじもじと、黄色いドレスの上で指が泳ぎ、やがて意を決したように顔を上げた。
やや緊張した、けれどどこか熱っぽい面持ちだった。
「だったらわたしは、お母さまみたいになりたい。お母さまみたいに優しくて、素敵な淑女になるの」
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