第63話
マデリーンの侍女を名乗った初老の女性に、ジュリエットは見覚えがあった。
確かマデリーンが実家から伴ってきた一番お気に入りの侍女だ。当時はまだ三十代で、マデリーンに仕えていた侍女の中では一番の年嵩だったはず。
マデリーンの侍女は今目の前にいる彼女を入れて全部で三人だったが、いずれもリデルに対する態度は冷ややかなものだった。主人がオスカーに思いを寄せていることを、知っていたためだろう。
リデルと廊下ですれ違っても頭こそ下げれども、決して言葉を交わすことはない。そんな風に関わりが薄かったため、ジュリエットは彼女の名前がペネロペということも、今初めて知ったくらいだ。
「よろしいですか、フェナ・ジュリエット」
ジュリエットをマデリーンの部屋へ案内しながら、ペネロペは以前と変わらぬ張りのある声を上げ、丸眼鏡の縁を押し上げる。
「同じ家庭教師とはいえ、あなたは平民。奥さまは『
「え……。は、はい」
ジュリエットとマデリーンとでは立場が違うのだ、釘を刺すあからさまな牽制に、ジュリエットはただただ気圧されるしかない。
別に『正式な家庭教師』の座とやらを巡り、マデリーンと争うつもりは毛頭ないのだが、どうも相手側はそうは考えていないらしい。ペネロペの発言は、ぽっと出の平民に、マデリーンの居場所を奪われることを心配しているようにも聞こえる。
これは問題だ。ジュリエットはエミリアのためなら、マデリーンと手を取り合い協力するつもりでさえいるのに。
「あの、わたしはエミリアさまのお役に立てるよう、男爵夫人と色々お話し合いができればと――」
「あなたはただ、奥さまの指示した通りに授業を進めればいいのですよ」
「ですが、わたしのほうでも色々と計画書を――」
「何を言っているのです! エミリアお嬢さまのお勉強は、これまでずっと奥さまが見てらしたのですよ。あなたはあくまで、奥さまの補佐。余計なことは考えないでよろしいのです」
つまるところペネロペはジュリエットに対し、全てマデリーンの考え通りに動く操り人形のような家庭教師になることを求めているらしい。
こういう相手には何を話しても意味がないとわかっているため、ジュリエットはひとまず口を噤むことにした。
せっかく懐かしい顔ぶれに会えるかもと期待していたのに、真っ先に顔を合わせたのが彼女だなんて。
小さくはない落胆を覚えつつ、ジュリエットは、マデリーンが侍女よりもう少し柔軟な考え方の持ち主であることを祈った。
その間にも、ペネロペは聞いてもいない話をぺらぺらと続けている。
「わたくしは奥さまがまだお小さい頃からずっとお仕えしておりました。奥さまは自分に厳しく、大変向上心の強い努力家でいらっしゃいます。本当に素晴らしいお方なのですよ」
「はあ」
相づちのぞんざいさに気づいていないのか、ペネロペは上機嫌だ。まるで話をしなければ死んでしまう病にでもかかっているかのように、ますます熱っぽくマデリーンを褒め称える。
「淑女の中の淑女とは正に奥さまのことです。気品漂う立ち居振る舞いはもちろん、あのお美しい声。うっとりしてしまいますわ。それにとても思いやり深く、誰に対しても親切でお優しく――」
「はあ……」
一体それは、どこのマデリーンの話なのか教えてほしい。
リデルの記憶の中のマデリーンは、常に居丈高で上から目線だった。妻の目の前で、夫の愛人であることをほのめかすような女性に、思いやりなどあるはずもない。
それなのにペネロペの物言いだけを聞くと、まるでマデリーンは聖女か女神でもあるかのようだ。
――
一瞬そう思ったが、さりげなく横を向いた時ロージーが完全な愛想笑いを浮かべているのを見つけて、色々と悟ってしまった。
そういえば夕食会の日、他のメイドたちもマデリーンの厳しさについて色々と零していたような気がする。
「さ、着きました。こちらが奥さま――エヴァンズ男爵夫人、マデリーン・ディ・クラークさまの私室です」
ペネロペが足を止めたのは、黒鳥が描かれたプレートのかかっている部屋だ。
エフィランテにおいて、白鳥は鳥の王。そして黒鳥はその
さしずめマデリーンは、このアッシェン城の
黒い羽を扇のように広げ優雅に湖を泳ぐ黒鳥の姿は、記憶の中にあるマデリーンそのものの印象である。
――マデリーンらしい部屋ね。
自分こそが女主人だと主張するかのようなプレートに、呆れを通り越し、もはや感心すら覚えてしまった。
「奥さま、ペネロペです。今、よろしいでしょうか」
ペネロペが扉を軽く叩くと、すぐに中から返事があった。
「ええ、どうぞ」
全身に緊張が走り、ジュリエットはほとんど無意識に背筋を伸ばしていた。
手のひらにじっとりと汗が滲むのを感じながら、ペネロペが扉を開けるのを、固唾を呑んで見守る。
「失礼いたします。
あくまで『臨時』であることを強調するようなペネロペの言葉に、隣でメアリが不服そうな顔をしている。それを諫める余裕もないまま室内に足を踏み入れれば、品良く長椅子に腰掛けるマデリーンと目が合った。
「ようこそ、お待ちしておりましたわ。座ったままでごめんなさいね。ご存じとは思いますが、足をくじいて療養中ですの」
前回は彼女の姿を見るなり気を失ってしまったせいで、あまりじっくりと確かめることはできなかったが、やはり相変わらず美しい。
若い頃も他者を圧倒するような雰囲気の女性だったが、十二年の時を経て、その美貌にはますます磨きがかかったようだ。
双子の女児がいると聞いているが、とてもそうは見えなかった。
「初めまして、エヴァンズ男爵夫人。このたびエミリアお嬢さまの新しい家庭教師として参りました、ジュリエット・ヘンドリッジと申します」
非の打ち所のない笑みを浮かべ、優雅な動きで頭を下げた自身を褒めてやりたい。
今すぐここから逃げたいと訴える『リデル』の感情を無視したジュリエットの挨拶は、ケチのつけようもないほど見事だったはずだ。
「あら、なんて美しいお辞儀かしら。一生懸命努力なさいましたのね」
嫌味とも褒め言葉ともつかない言葉を口にしつつ、マデリーンが手招きでジュリエットに椅子を勧める。
向かい側に腰掛け、メアリには隣で待機するよう視線だけで指示しておいた。
「あら、そちらの方は?」
「実家から連れてきた小間使いのメアリです。父が過保護なもので、わたしひとりでは不安だから連れて行くようにと……」
「そうですの」
『平民に侍女』はさすがに不自然だからと、予め用意しておいた答えを口にすれば、マデリーンは微笑みを浮かべながら小さく頷いている。
愛想のいい笑みだ。口調も態度も穏やかで、一見すると友好的に見えた。
しかし、それが見せかけだけのものだというのは、今のやりとりを見れば一目瞭然だ。
ジュリエットは予め、メアリを小間使いとして連れて行くことをオスカーに連絡していた。だからこそ、メアリの分の部屋が用意されていたのだ。
マデリーンがそれを知らないはずはない。つまり先ほどからの態度を総合して考えるに、彼女はジュリエットを歓迎するつもりなど毛頭ないらしい。
やはりマデリーンは昔のまま、何も変わらない。嫌味で高慢な性悪女だ。
――いいわ、元々期待なんてしてなかったし。むしろ、変に丸くなっていなくてよかったわ。優しいマデリーンなんて気味が悪いもの。
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