第64話

「それにしてもご自宅に小間使いがいらっしゃるなんて、まるで上流階級のようで素敵ですわね。ジュリエットさんのお父さまが、きっと身を粉にして働いていらっしゃったおかげね」

「いいえ、そんな……。男爵夫人も元々は平民のご出身だと伺っております。そのよしみで、色々とご助言いただけたら嬉しいですわ」


 ふたりが言葉を交わす度、ほほほ、うふふ、と和やかな笑い声が響く。

 しかし室内の空気は極寒だ。メアリは虫食いだらけの芋を処理する時のような顔をしているし、ロージーは立ったまま半ば気を失っている。

 ペネロペは「奥さまに向かって生意気な」と言わんばかりの表情でジュリエットを睨んでいるが、知ったことではない。

 先に喧嘩をふっかけてきたのはマデリーンのほうだ。

 刺々しい雰囲気から察するに、彼女は新しい家庭教師を迎えることに反対だったのだろう。


 恋敵が増えると思ったのか、単に自分の居場所に別の誰かが入ってくるのを嫌ったのかはわからないが、ジュリエットはエミリアに請われてここまで来たのだ。

 それを追い出す権利はマデリーンになく、そのため、こうしてちくちくと嫌味攻撃で鬱憤を晴らしているに違いない。


「元平民同士お力になれるなら是非……と言いたいところですけれど、わたくしの父は準男爵の位を叙爵されておりましたの。ですから、わたしの意見はあまりご参考にはならないかもしれませんわ」

「あら、それは失礼いたしました。準男爵のお嬢さまでいらしたなら、ほとんど貴族同然ですものね。たとえ称号ディエラはつかなくても」


 その時メアリが、二回続けて小さく咳をした。

 人知れずジュリエットを窘める際、彼女がいつも使う合図だ。


 ――いけないいけない。つい好戦的になってしまったわ。


 相変わらずのマデリーンを前に、思わず喧嘩腰すれすれの態度を取ってしまったが、ジュリエットの目的は彼女と嫌味の応酬をすることではない。エミリアの教育に関して話し合いをすることなのだ。


「さて、男爵夫人。楽しい会話を終わらせるのは名残惜しいですが、そろそろ本題に移りましょう」

「ええ、どうぞ。エミリアさまの授業の件ですわね。書類を纏めておきましたわ」


 マデリーンが目配せすると、ペネロペが心得たように机の上から数冊の教本と、一冊の帳面を持ってきた。

 座学、音楽、ダンス、マナーなど淑女教育に必要な教本の数々はいずれも分厚く、上等なものだ。


「こちらの教本は、実際にエミリアお嬢さまがご使用になっているのと同じ物です。進捗と、お嬢さまの得手不得手、ダンスやピアノでよくなさるミスに関しても、こちらの帳面に纏めております」

「拝見してもよろしいですか?」

「もちろんですわ」


 許可を得て教材を手に取り、ざっと目を通す。

 なるほど、貴族令嬢の教育に使う物としてはごく一般的な教本だ。ジュリエットがエミリアくらいの年の頃に使っていたものも、いくつか見受けられる。

 帳面のほうはどうだろうかと確かめてみれば、そちらには目が痛くなるほどびっしりと、エミリアの教育を受け持つ上での注意点や、授業の方針、一ヶ月に受ける授業の予定表などが書き連ねられていた。

 ぱっと見た感じ、多すぎず少なすぎず、簡単すぎず難しすぎず、丁度よい授業計画である。


「座学やお裁縫など座ったままでできる授業はこれまで通りわたくしが受け持つつもりですが、ダンスや楽器、声楽のお稽古などはジュリエットさんにお任せしたいと思っております」

「わかりました。乗馬や薬草学の授業はどのようになさる予定ですか?」

「乗馬のお稽古はいつも騎士の方々が受け持っていらっしゃいますし、薬草学は専任の薬師が在駐しておりますので、その点に関してはどうぞご心配なさらず」

「わかりました……」


 非の打ち所のない帳面を前に、拍子抜けした気分だった。

 失礼かもしれないが、マデリーンがここまで一生懸命、家庭教師としての仕事に取り組んでいるとは予想もしていなかったのだ。

 ジュリエットはてっきり、オスカーの側に居座る口実として、マデリーンが渋々家庭教師を請け負っているのではないかと思っていた。

 以前感じた通り、エミリアの礼儀作法はとても、まともな家庭教師が付いているそれには見えなかったからだ。しかしこれらの書類を見た上だけで判断するならば、マデリーンは間違いなく優秀な家庭教師であった。


 ――うーん、やっぱりこれは……。


 ジュリエットの中で、以前立てた仮説が現実味を帯びてくる。

 眉間に皺を寄せていると、目の前にすっと帳面が差し出された。 


「どうぞお持ちになって」

「よろしいのですか?」

「もちろん。エミリアさまのためにお役立てくださいな」


 正直言って、この帳面の存在は今後授業を進める上で非常にありがたい。

 マデリーンのことを少し見直しつつ、ジュリエットは帳面をメアリへ預ける。


「今後も何か困ったことなどございましたら、いつでもいらっしゃって。授業に関することでしたら、いくらでもご協力いたしますわ」


 要するに授業以外のことで関わり合いになるつもりはない、という宣言だろうが、そのはっきりした性格にはいっそ清々しさすら感じられる。


 ――ああ。こんなにも自由なのね。

 

 オスカーに恋し、妻として暮らしていた頃とは心のあり方がまったく違う。

 美しい愛人マデリーンに引け目を感じることも、おどおどと遠慮がちに縮こまる必要もない。

 ふたりの恋愛模様にまったく関係ない立ち位置で堂々としていられる今世は、なんて楽なのだろう。

 この分だと、今世ではマデリーンとそこそこ良好な関係が築けるのではないか、という気さえしてくる。今のところ彼女は先輩家庭教師として非常に頼りがいがある印象だし、事務的な会話のみに止めておけば波風が立つ心配もない。


 胸の奥が微かに痛むことに気づいてはいたものの、ジュリエットはそれを無視した。

 こんなのは、前世から引きずっている記憶の残滓のようなものだ。ジュリエット自身の感情ではない。


「ありがとうございます、男爵夫人。それではそろそろ失礼を――」


 椅子から立ち上がり部屋を出ようとしたジュリエットは、その時初めて、室内の飾り棚に小さな肖像画が飾られていたことに気づいた。

 正騎士の制服に身を包んだ、マデリーンの兄、アーサーの肖像画だ。その傍らには、正騎士が王から与えられる、銀の紋章が飾られている。

 制服を着ている間は、絶対に外してはならない大事な騎士の証だ。それがここにあるということは、アーサーは騎士を辞めたのだろうか。

 ジュリエットはマデリーンを振り向き、さりげなく問いかける。


「素敵な騎士さまですね。ご家族の方ですか? 髪の色がそっくりで――」

「それに触らないでっ!!」


 しかしその瞬間、激昂したようなマデリーンの声が、矢のごとき速さでジュリエットの耳をつんざいた。

 指先一つ、額縁にかすってもいない。

 それなのにマデリーンは憎悪にも似た激しい感情を全身から迸らせ、ジュリエットの側までやってくる。足を引きずってはいるものの、捻挫の痛みなどすっかり忘れ去ったかのようだった。 


 彼女は額縁と紋章を飾り棚の上から引ったくると、さも大事そうに胸に抱え込む。はずみで腕でも当たったのか、側に飾ってあった花瓶が床に落ち、割れて派手に飛び散った。

 

「奥さまっ!」

「お嬢さま!」


 ペネロペとメアリ、声を発したのはほぼ同時だった。慌てて飛んできたふたりはそれぞれの主人の元へ駆け寄り、急いでその場から引き離す。

 

「お怪我はありませんか、お嬢さま」

「わたしは大丈夫よ……」


 突然のことに衝撃を受けたせいで心臓は未だに強く鳴り響いているが、特にどこか痛むというようなことはない。

 そんなことより、マデリーンの様子が気にかかった。

 侍女に肩を支えられ長椅子に戻った彼女は、目を閉じたままぐったりと背もたれに身体を預けている。その顔色は生気が失せたかのように真っ青だ。

 普通、兄の肖像画に興味を向けられただけでこんな風に取り乱したりするだろうか。

 明らかに常軌を逸したマデリーンの様子に、さすがに心配になってしまう。


「あの、大丈夫ですか? 男爵夫人。お顔の色が……」

「大丈夫ですわ。驚かせてしまいましたわね」


 マデリーンは先ほどまでの迫力が嘘のように、しおらしく目を伏せている。取り乱したことを、恥じているように見えた。

 喋るのすら辛そうなマデリーンに、ペネロペがティーカップを差し出す。中には冷たいハーブティーでも入っているのだろうか。


「その肖像画は、わたくしの兄ですの」


 カップの中身を一口飲み終え、マデリーンが落ち着いた口調で語り始めた。


「アッシェン騎士団で副長を務めていたのですが、十二年前、とある事件で命を落としてしまい……。ですのでこうして肖像画や遺品を飾って、時折兄との思い出を偲んでおりましたの。まだ悲しみが癒えておらず、つい取り乱してしまってごめんなさいね」

「そ――、え……?」


 脳が、意味のある言葉を紡ぎ出すことを拒絶しているかのようだった。

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