第60話
「うっかりしていた。気を付けよう」
カーソンの指摘を受け、オスカーが鷹揚に頷く。
目下の者の諫言でも素直に受け入れるところは、変わっていないようだ。だからこの城で働く者たちは皆、いきいきと仕事に取り組んでいる。
今も、
その点に関しては、見事だと認めざるを得ない。
――領主としては立派なのよね。夫としては立派とはほど遠かったけど。
失礼な表現かもしれないが、まごうことなき事実だ。
使用人に向ける優しさの、十分の一でも向けてくれればまだ違っただろうに。その程度の優しさを向けるにも値しないほど、〝リデル〟が不出来な妻だったとは思えない。
――まあ未だにマデリーンをここに住まわせてるくらいだし、王族というだけが取り柄の妻なんて邪魔でしかなかったんでしょうね。もしかしたらシャーロットさんもいらっしゃるのかしら。
皮肉めいたことを考えつつ思い出すのは、忘れもしない十二年前の、彼の誕生日。
懸命に縫った剣帯を携え、胸弾ませて部屋を訪ねてみれば「王女と結婚することで生まれる利益がどれほどのものと思っている?」という例の発言である。
ジュリエットならその場で部屋に乗り込み、平手打ちのひとつやふたつお見舞いしつつ、思いつく限りの
と言っても、貴族令嬢ゆえに大した
――『リデル』が大人しい性格で命拾いしたわね、旦那さま。
などと謎の優越感に浸りながら、ふと、ジュリエットは思い出した。
そういえばあの剣帯はどうしたのだったろうか。
当初は冬が来るのを待って暖炉の火に投げ込もうと考えていたが、妊娠出産で慌ただしくしている内に、すっかりその存在を忘れてしまっていた。
もしリデルの使っていた部屋が当時のままなら、剣帯は箱に収められたまま日の目を見る事もなく、衣裳部屋の奥深くで眠っているはずだ。
しかし、もし部屋が片付けられていれば最悪だ。
当時はあれで精一杯だったが、今思い返してみればリデルの刺繍の腕前は無様なものだった。二十回を超えたころから針で指を刺した回数を数えるのは止めたし、縫い目が多少ガタガタになっても、誕生日に間に合わせたいからと見ない振りをした。
カーソンは褒めてくれたが、箱に収められた剣帯はとても人に渡せる代物ではなかったはずだ。
オスカーが見れば、きっと鼻で笑うだろう。何せなかなかの出来映えだと感じていたサンドウィッチですら、彼は必要ないと一刀両断したのだから。
できるならミーナか誰か、箱を開けることなく燃やしてくれていないだろうか。
一瞬、オスカーに直接聞いてみようかとも思った。
しかし「亡くなった奥さまの衣裳部屋の奥に、綺麗に包装された箱がありませんでした?」などと口にすれば、ジュリエットはその瞬間から間違いなく不審者となる。
――ああ、天にましますスピウス女神さま、どうかあの剣帯が灰になっていますように……! もし処分されていないなら、どうか女神さまの御力でこの世から消滅させてください……!!
司祭が耳にすれば、なんと罰当たりなと小言を言いそうな祈りだ。
でも、なんとか、それとなく確認する方法はないだろうか。
そんなことを考えるくらいには、ジュリエットは少々往生際の悪い性格であった。
「さて、顔合わせも済んだことだ。ふたりは仕事に戻っていい。私は彼女と話がある」
「かしこまりました」
「それでは、失礼いたします」
オスカーの指示を受け、カーソンとスミスが順に退室する。ふたりきりになった室内で、ジュリエットはひとまず剣帯のことを意識の外へ追い出した。
今はそんなことより、もっと大事な話がある。
扉が閉まったのを確認し、ジュリエットはいざオスカーへ詰め寄ろうとした。しかしそれより早く、彼のほうが先に口を開く。
「それで、ジュリエット。何か問題でも?」
「……まだ何も申し上げておりませんけれど」
口にしてすぐ、失言だと気づいた。
「まだ、ということはこれから何か言うつもりだったのだろう。この部屋に入ってきた時、貴女は明らかに不機嫌そうな顔をしていた。スミスたちの手前、不満を呑み込んだようだが」
思いがけず言い当てられ、眉間に皺が寄る。
貴族というのは本音と建前を上手く使い分ける生き物だ。ジュリエットも子爵令嬢として、他人の前であまり心の
「そんなにわかりやすかったでしょうか」
否定する気はないが、見抜かれた悔しさからつい声が低くなってしまう。
オスカーは気分を害した様子もなく、片眉を上げて軽く笑った。
「一年の半分は不機嫌な顔をしている、我が城の
「そ……っ、うですか。わたしもまだまだですわね」
プリンシア。
懐かしい呼び方に不意を突かれ声が裏返りそうになるのを、気取った態度で取り繕った。
エミリアのことを指しているのだとすぐに気づいたが、初めて出会った時と同じ優しい声音は、はっきり言ってかなり心臓に悪い。
そのたった一言で、意識が容易に過去へ引き戻されそうになるのだ。
「……わたしがお話ししたかったのは、お部屋のことです」
「もしかして、不備でもあったか?」
心を落ち着けながら平坦な声で告げるジュリエットに、オスカーが首を傾げる。
「必要な物は全て準備させたつもりでいたが……、何か足りなかったか? 内装が気に入らなかったとか。それとも、さすがに狭すぎただろうか」
まるで心当たりがないと言うような態度だ。
的外れなことばかり口にする姿に、落ち着いたはずの心が少々波立つ。
「足りないのではありません。内装はとても素敵でした。狭くもありません」
「それならば、なんの問題もない――」
「いいえ、大ありです!」
とぼけた答えを返すオスカーにしびれを切らし、ジュリエットは思わず声を大きくした。
「一家庭教師に対してあんな豪華な部屋を用意するなんて、少しはおかしいと思わなかったんですか? 特別扱いはなさらないようにと、きちんと申し上げておきましたよね?」
「だが貴女は、フォーリンゲン子爵からお預かりした大事なご息女だ」
「違います。いいですか、伯爵閣下。わたしは子爵令嬢でなく、
「それはそうだが……男爵夫人はもっと広い部屋に……」
「男爵夫人と比べないでください」
布を裁ち切るような強い調子で、ジュリエットはオスカーの言葉を遮った。
こういうことは最初が肝要だ。主張すべきことは主張しておかないと、後々面倒な問題に繋がりかねない。
「ただでさえ
「客間の中ではあの部屋が一番狭いのだが――」
「物置部屋で構いませんし、メアリと同室になっても構いません。小さな頃は同じ寝台で寝転がった仲ですから」
メアリは元々、身体の弱かったジュリエットの話し相手として孤児院から引き取られてきた子供だ。
子爵家で働く使用人夫婦の養子となった彼女は、ジュリエットが寝台から起き上がれない時、共に寝台に寝転がって色々な話をしてくれた。
令嬢と侍女が寝台を共に使うなど普通はあり得ない話だが、身体の弱い娘が同じ年頃の子供と話す姿を喜んだ両親は、それを咎めはしなかった。
ゆえにジュリエットは、多少狭い部屋でメアリと寝食を共にすることなど、苦とも思わないのである。
きっと自分の育った環境は、貴族令嬢としては型破りなのだろう。
『少々』大らかな家庭だと思っていたが、改めて前世の記憶と照らし合わせてみると、どうやら『かなり』大らかな部類に入りそうだ。
リデルはミーナを姉のように、あるいは親友のように慕っていたが、それでも共に寝台に寝転がることなど考えもしなかった。
男の子と木登りや追いかけっこなど、もっての他だ。
今更の気付きに少しばかり衝撃を受けたが、オスカーの驚きはそれ以上だっただろう。
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