第48話
「こちらです、閣下」
執事のスミスに促され、オスカーは庭に駐められた荷馬車へ近寄る。
その側には、ミーナが助けを求めたという農村の長夫婦が立っており、オスカーの姿を認めるなり帽子を取り、沈痛な面持ちで頭を下げた。
「奥さまの侍女と仰る方が村にやって来られて、急いで森へ自警団をやりましたが……。間に合わず、申し訳ありません」
――なぜ、間に合わなかった。
彼らがミーナを助けてくれた恩人であるということすら、今のオスカーには理解できない。
やり場のない怒りがふつふつと込み上げ、縮こまる村長夫妻に、理不尽にもそれをぶつけそうになる。
それでも奥歯を強く噛み締めることで必死に冷静さを保ち、ふらつく足取りで荷台へ近づいた。
――人違いではないか。
ぼんやりと考えながら、オスカーは荷台の上で人の形に盛り上がった、
ここにある遺体は本当は別人のものだけれど、村人が勝手に勘違いしただけ。
リデルは本当は野盗に連れ去られ、今もどこかで生きているのではないか。
そうだとしたら、身代金などいくらでも払う。野盗が命を差し出せというのなら、迷いなくこの胸を突いてみせよう。
領地を譲れと言われても、国ひとつ滅ぼせと言われても、素直に応じる。
だから……、だから、リデルを返してほしい。
捨てきれない願いと望みを宿したオスカーの淡い期待は、しかし次の瞬間、粉々に砕け散った。
「――ご確認ください」
そう言って遠慮がちに持ち上げられた布の端から、きらめく銀色の髪が零れる。
青白い肌、紫に染まった唇。
長い銀の睫は伏せられ、血の気のない頬に影を落としている。
顔の肌は汚れ一つないというのに、昨日の朝オスカーが送り出した時とまったく同じ質素な旅装ドレスには、赤茶けた大きな染みが付着している。
それが何の染みで、首に巻かれた見覚えのないスカーフが一体何を隠しているのかなんて、考えたくもない。
「リデル」
固い声で、妻の名を呼ぶ。
彼女の肩に手をかけ、ひんやりとした温度に臆しながら、それでも手を離すことなく彼女の身体を揺さぶった。
「聞こえないのか、リデル」
声が、震える。
答えなど分かりきっていた。
それでも、何か奇跡が起きないかと。
おはようございます、旦那さま……と、いつもの挨拶が返ってきはしないかと、ありえない想像が頭をよぎった。
そんなオスカーを見守っていたメイドたちから、すすり泣きの声が漏れる。
普段は厳しい顔ばかりしているカーソンも、オスカーの背後に控えていたスミスも、声を詰まらせ肩を震わせていた。
ひとしきりリデルに話しかけ、そうして彼女から言葉が返ることはもう二度とないと、ようやく理解できた頃。
オスカーは唇を引き結び、布を元に戻した。
全身の血がすぅっと引いていく感触に、頭も冷える。
こんなことが、現実にありえるはずがない。きっと自分はまだ眠っていて、だからこんな悪夢を見ているのだ。
そうだ。そうに違いない。
リデルはまだ十七歳だ。
産褥で弱った身体だが、気候のよい土地で休めば十分に回復するとハリソン医師も言っていた。
そうして元気になったら、またアッシェンで親子三人、共に暮らせると。
それでも現実は容赦なく、オスカーに事実を突きつける。
「自警団が到着した時には、奥方さまは既に事切れておいででした。その、これで自ら喉を掻き切ったようで……」
村長がおずおずと差し出したのは、見覚えのある短剣だった。
銀色の柄にアッシェン伯爵家の紋章である大白鷹が彫られた、見事な意匠のそれは、以前オスカーがリデルに贈ったものだ。
「お顔や御髪の汚れはできる限り拭わせていただきました。……安心なさってください、お身体はお綺麗でしたよ」
村長の妻が、小さな声でそう教えてくれる。
彼女の発言が一体何を意味するのかわからないほどオスカーは鈍くはなかったが、この状況でその事実は、大した慰めにはならなかった。
ずしりと。受け取った短剣が、実際の重量以上の重みを伝えてくる。
――騎士の妻は、ならず者からその身を汚されそうになった時のため、必ず短剣を持つものだ。
「そんな……」
そんなつもりでは、なかった。
確かに、建前ではそう口にした。かつて騎士が妻に短剣を贈った歴史に、そう言った理由が付随していたのは確かだからだ。だがそれは本意を隠すための照れ隠しの一種であって、決して、本気でそう思っていたわけではない。
オスカーはただ、彼女が他の誰のものでもなく自分の妻なのだという、その証を持っていてほしかっただけだ。
そうすることで少しでも、彼女の意識の中で自分の存在が確かなものになればいいと思っただけ。
生きてさえいれば、それだけでいい。
リデルがたとえ誰からどのような辱めを受けていようと、オスカーが彼女に抱く気持ちは変わらない。そんなことでリデルの清らかな魂まで穢されることは、絶対にあり得ないのだから。
そう。生きてさえ、いれば。
――俺が、こんなものを贈ったから。
だから、リデルは。
己の愚かな自己顕示欲と独占欲の証が、彼女の命を奪うための道具となった。
それを理解した瞬間、カシャンと、心のどこかで何かが割れるような音が響いた。
それからの時間、オスカーは自分がどのように過ごしていたのか、はっきりと思い出せない。
奥方の帰城に続くように、重い空気に包まれたアッシェンへ、次々と遺品が運び込まれていく。
騎士や準騎士は、名の彫られた騎士章や剣、装飾品。
そして御者は、いつも被っていた帽子。
リデルには、五十人を超える騎士や準騎士が護衛に付いていた。平和なこのアッシェンでそれほどの人員が必要か、とアーサーから苦笑されるほどの、多すぎる数だ。
春先のまだ肌寒い時期とはいえ、損傷の激しい遺体を長く放置するわけにはいかない。
そしてその人数の遺体に最新の防腐処理を施し、遠く離れた森からアッシェンへ運ぶのは、不可能だった。
家族や恋人たちの遺品を手にし、人々が泣き叫ぶ。
城内に満ちる慟哭を、オスカーはまるで他人事のように受け止めていた。
やるべきことはたくさんあった。
事件が起こった際の状況確認をするため、現地へ派遣する部隊を編成する必要があったし、野盗たちの追跡、捕縛のため別働隊も組織しなければならなかった。
そしてリデルの葬儀の準備や、犠牲となった騎士たち家族への補償も。
一体この慌ただしい城内で、誰がそれらの指示を出し、動き回っていたのか、オスカーは把握していなかった。
後になって考えれば、己の役割を放り出し何をしているのだと誹られなかったのは、ひとえにスミスやカーソンたちの尽力のおかげだっただろう。
あの時の彼らは寝る間を惜しみ、休むことなく動き回ることで、使いものにならない主人を庇ってくれていたのだ。
だが、腑抜けたオスカーはそんなことも知らず、ただ呆然と無為な時を過ごしていた。
だから「王族一行アッシェン到着」という報を耳にした時、オスカーはそこで初めて、誰かが自分の代わりに王都へ伝令を走らせていたことを知ったのだ。
その頃にはリデルは死化粧を施され、まっさらな白い布に身を包んだ状態で、棺に納められていた。
「リデル……、リデルッ、どうして……。どうしてなの、わたくしのリデル……!」
「リデル、お姉さまよ。お父さまやお母さま、お兄さまも全員いるわ。だから、だから……目を、開けてちょうだい。いつもみたいに、お姉さまって呼んで……その可愛いお顔で、笑ってちょうだい」
「いやよ、リデル……。こんなの嘘。お願いだから、目を覚まして……!」
ほとんど錯乱状態で娘の棺に取り縋る王妃。
その横で泣きながら妹に話しかける王女たち。
気丈さを取り繕いながらも、目を真っ赤に充血させた王子たち――。
国王は憔悴しきった様子で、呆然と、リデルを見つめている。
そんな中ただひとり、目に爛々と憤怒を滾らせオスカーを睨み付ける者があった。
クレッセン公爵、イーサン・ラングフォード。リデルの従兄だ。
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