四章 悔悟を抱えた伯爵

第47話

 夜のとばりが降り、アッシェン城は暗闇に包まれていた。

 城内の部屋はすべて明かりが消え、遠く騎士団の詰め所でちらちらと松明の炎が瞬いている。

 不寝ねずの番をする夜衛たちを除いては、皆、とうに夢の世界に足を踏み入れていることだろう。

 

 虫の声すら聞こえぬ静寂の中、小さな角灯を手に、オスカーは小庭に立っていた。

 名前の通り、塀に囲まれたごくごく小さな庭だ。

 壁や柱には青々としたつるが伝い、その上に転々と、白く可憐な薔薇が咲いている。

 繊細なレースを思わせる形の花びらに、砂糖菓子のような甘い香り。

 隅々まで手入れの行き届いた美しい庭は、絵本に出てくる妖精王国のごとく神秘的で、しかしどこかもの寂しい。


 さくり、と芝生を踏みしめる音が響く。

 庭の中央に歩みを進めたオスカーは、そこに鎮座する小さな石版を見下ろし、軽く眉根を寄せた。

 壁を彩る蔓薔薇とはまた違う、大輪の白薔薇に囲まれた石版。

 その前に跪き、オスカーはおずおずと手を伸ばす。

 そっと掌を置くと、固くひんやりとした大理石が肌の温度を吸い取っていくかのよう。けれどオスカーはそれを厭うことなく、掌で触れ続けた。

 まるでそこにいない誰かと、手を重ね合わせるかのごとく。

 

「エミリアに……、友人ができた」


 ぽつりと、オスカーは零すように呟く。

 相変わらず、庭には他に誰もいない。だがその口調は明らかに、誰かに話しかける時のものだ。

 


「ジュリエットという女性――いや、まだ社交界デビュー前の若い少女だ。エミリアより、四歳年上で……。あの子が、とても……気に入っている。あのエミリアが、だ。……珍しいだろう?」


 時に口ごもり、時に微笑みながら、不器用に言葉を紡ぐ。

 返事がないことはわかっている。今更、無意味なことだとも。

 それでもオスカーは最低でも週に一度、こうして石版の前で話すのをやめられない。


 もしかしたらどこかで、彼女、、が聞いているのではないか。

 そんな期待を、捨てきれないでいた。


「その娘……ジュリエットに、エミリアの家庭教師を頼んだんだ。かなり無理を言ったが、最終的には受けてもらえて……。エミリアは、とても喜んでいた。これで、あの子も少しは勉強を頑張ってくれればいいのだが……。あの子は貴女と違って、あまり真面目ではないからな」


 真面目で、なにごとにもひたむきだったリデル。

 頑張り屋で、努力家で、病弱であることを決して言い訳にせず、オスカーの妻として相応しくあろうとしていた。

 歩み寄ろうとしてくれていたのだ。

 そんなリデルの真心を、オスカーは踏みにじった。

 彼女が何も言わないことに甘えて、何度も、何度も。


 リデルの心が繊細で、傷つきやすいことは知っていたはずだ。

 だからこそ誰よりも彼女を大切にし、永遠に守ろうと誓いを立てた。

 なのに、オスカーはそれに背いた。

 よりにもよってこの世の何より守りたかった相手の心を傷つけ、引き裂き、粉々にした。

 どうして、もっと早く気づかなかったのだろう。

 

 十二年前。

 リデルを喪ったあの日、オスカーは初めて、己の罪を自覚した。



§



「今、なんと言った……?」


 やっとの思いでそんな言葉を絞り出したオスカーの声は、無様に掠れていた。

 たった今、部下からもたらされた報告は、それほどまでに衝撃的だったのだ。いつ何時でも冷静であった『氷の騎士』が動揺するほどに、

 ――否。衝撃的などという生やさしいものではない。

 報せを受け、オスカーは頭が真っ白に塗りつぶされ、心臓が止まったかのような錯覚に陥った。


「ご、ご報告を繰り返します。早朝アッシェンを発ち、別荘へ向かっていた奥さまの馬車が、エンベルンの森で野盗の襲撃に遭いました。護衛隊は壊滅状態、御者も殺害され、奥さまは――」


 自害なされました。

 その言葉が、やけに遠く響いている。

 ガンガンと、耳の奥で重い鐘のような音が鳴り続け、酷い頭痛と吐き気に目眩がしてくる。


 ――自害。自害とはなんだ。意味がわからない。リデルが……、何だと?


 言葉を理解することを、脳が拒む。

 部下の報告を認めたくないと、意識が現実逃避を始める。 


「何の……冗談だ」


 ――護衛隊長として、彼女にはアーサーを付けておいたのだ。他にも、護衛には手練れの騎士ばかりを選出した。とうに別荘あちらに到着し、今頃は寝台で休んでいるはずだ。


 だから、深更しんこうであるにも関わらず先ほどから階下がにわかに騒がしさを増したなんて、きっとただの気のせいだ。

 それなのに、現実から逃れようとするオスカーの意識を、部下が強引に引き戻す。

 

「お辛いのはわかりますが、閣下、これは事実です。現に、ひとりなんとか生き残り、その場から逃げ出したディエラ・ミーナが――」

「っ、黙れ!!」


 青ざめた表情で、オスカーは淡々と報告を続ける部下の言葉を遮る。

 冷静に考えれば、それは部下なりの気遣いだっただろう。このような残酷な報せをもたらす場合、感情をできる限り排除したほうが相手を動揺させずに済むのだから。

 しかし今のオスカーは、そんなことも察せないほど前後不覚に陥っていた。

 部下の言葉、態度。部屋の温度ですら、何もかもが煩わしい。

 

「退け!」


 部下を突き飛ばすようにしながら、オスカーは廊下に飛び出していた。

 そのまま転げるように階段を駆け下り、玄関ホールから厩へ向かう。

 おかしなことを言う部下に、証拠を見せてやろう。

 今から別荘へ馬を飛ばし、リデルの姿を確認してくるのだ。

 

 ――俺が自分の目で彼女の無事を確かめたと言えば、あのようなふざけた世迷い言を口にすることもなくなるだろう。


 深夜に、明かりもない森を馬で突っ切るなど、まともな人間の考えることではない。

 しかしこの時のオスカーは衝撃のあまり正常な思考力を失っており、自身の行動に疑問を覚えることがなかった。


 そうして勇み足で厩へ向かったオスカーの頭がすっと冷えたのは、粗末な外套を頭から被ったミーナと出くわした時。

 彼女は数名の使用人たちに囲まれ心配そうに話しかけられながらも、虚ろな目をして立ち尽くしていた。

 その、泣きはらし落ちくぼんだ目を見た瞬間、オスカーの耳の奥で、潮騒のような耳障りな音が聞こえた。

 全身の血が凍り付いたかのような錯覚に、指一本さえ動かすこともできない。


 ――ひとりなんとか生き残り、その場から逃げ出したディエラ・ミーナが……


 先ほど耳にした部下の言葉が、いやに鮮明によみがえった。

 呼吸すら忘れ棒立ちになったオスカーの姿を、その時ふと、ミーナの視線が捉えた。

 というよりは、使用人たちに背を押され歩き出した彼女の進行方向にオスカーがいた、というほうが適切かもしれない。

 虚ろな目は相変わらず、ガラス玉のようにただ眼窩に嵌まっている……が。


「ミー、ナ」


 オスカーが吐息のような声で彼女の名を呼んだ瞬間、その目に力が宿った。

 怒りと憎悪の炎が、充血した茶色の目の奥で爛々と燃えている。

 

「――せいです」

「ミーナさん?」


 突然言葉を発したミーナの様子を、周囲の使用人たちが心配そうに窺う。

 しかし彼女はオスカー以外目に入らないと言った様子で、顔を大きく歪めながら叫んだ。


「全部……、全部旦那さまのせいです! 旦那さまが奥さまを殺したんだわ! この人殺し!!」

「ッ」


 使用人たちが止める間もなく、ミーナがオスカーに掴みかかる。

 疲れ切っているのか、ミーナの動作はふらついていて緩慢だった。

 普段のオスカーなら、難なく避けることができただろう。しかし今のオスカーには、たとえ相手が子供であっても、避けることはできなかったかもしれない。


「あなたが、姫さまを別荘になんてやらなければ姫さまは! 返して、わたしの姫さまを返してよ!!」


 オスカーの胸ぐらを掴み、前後に大きく揺さぶりながらミーナが喚く。 


「ミーナさんっ、何を言うんです!?」 

「大丈夫ですか、旦那さま!」


 驚いた使用人たちが止めに入っても、しばらくミーナは抵抗していた。普段大人しい彼女のどこに、そんな力が隠されていたのかというほどの激しさで。

 それでも数人がかりで引き剥がされれば、彼女に為す術はない。

 

「返して! 姫さまを返してぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」

「ミーナさん、やめなさい!」

「おい、みんなでミーナさんを押さえるんだ!」


 羽交い締めにされてなお悪鬼のごとき形相で叫び続けるミーナの、血を吐くような声が、ガラス片のように胸に深く突き刺さる。

 オスカーは声を失い、愕然と立ち尽くした。

 彼女の態度それこそが、リデルが自害したという何よりの証拠に思えた。


 もの言わぬリデルがアッシェンに戻ってきたのは、その翌朝のことだった。

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