第44話

「オ、オスカーさま……」

「具合はどうだ? どこか痛いところがあったり、気分が悪かったりはしないか」


 オスカーがごく自然な足取りで、ジュリエットの横たわる寝台へ近づいてくる。

 それを止めたのはエミリアだ。


「もう、お父さま。淑女の部屋に許可なく入るなんてマナー違反よ!」


 エミリアは腰に手を当て立ちはだかりながら、唐突に登場した父親を批判し始めた。


「これだからお父さまは。ジュリエットがびっくりしちゃうじゃない」


 その厳しさを多少は自分に向ければいいのに、とは思ったジュリエットだが、今回に限って言えば彼女に同意せざるを得ない。

 起きたばかりの見苦しい姿を他人に、しかも異性に見られるなど、羞恥の極み。口元に涎の痕でもあろうものなら最悪だ。


「ああ、すまない。お前が扉を開けっ放しにしていたものだから、入っていいものかと思った」


 ――エミリアー!!

 

 ジュリエットは心の中で叫んだ。

 開けっぱなしの扉は、「いつでも誰でも入室どうぞ」という目印のようなものだ。

 つまり今回の件は、エミリアが全面的に悪かった。

 しかし幼い彼女は、どうしても自分の非を認めたがらない。


「そ、それはそうかもしれないけど、声くらいかけてもいいじゃない!」

「これでお前も少しは、今度からきちんと扉を閉めようと言う気になったのではないか」


 言い合いをする父子の様子に、これ幸いとジュリエットは慌てて身繕いを始めた。

 といっても周囲に姿見は見当たらず、己の顔や頭に手をやり、違和感がないか確認する程度だったが。

 そして着衣の乱れがないか確かめようと視線を下げた際、ジュリエットは小さく悲鳴を上げた。


 いつの間にか自身の着ていたものが、白いシフォラ夜の衣に変化していた ことに気づいたからだ。

 質のよい絹でできたシフォラは肌触りがよく軽いが、その分かなり薄い。

 さすがに肌が透ける程ではないが、シフォラはその名の通り、夜着るためのもの――つまり寝間着だ。とても異性の前に出られるような類いの装いではない。

 たとえ前世では人妻で、目の前にいるこの男性とするべきことをした記憶があっても、今のジュリエットは未婚の純情な乙女。

 こんな格好を見られるくらいなら、鳥の巣のようになった頭や涎の痕が残る顔を見られたほうが、百倍ましであった。


 泣きそうになりながら掛布を引っ被り、はしたない格好を少しでも隠そうと、身体の前で必死でかき合わせる。

 そんなジュリエットに気づき、エミリアが「あっ」と声を上げる。


「心配しないで、ジュリエット! 着替えさせたのはあなたの侍女よ、お父さまじゃないわ」

「そ、そんな心配はしておりません! 少しも! これっぽっちもっ!」

 

 ジュリエットは叫ぶように否定した。

 まだ子供のエミリアには、シフォラ姿を異性に見られるのがどんなに恥ずかしいことかわからないのかもしれない。が、だからと言って変な曲解をするのはやめてほしい。

 しかしエミリアは、腑に落ちないような顔で首をかしげている。

 

「違うの? じゃあ、どうしてそんなに慌てているの?」

「シ、シフォラ姿を殿方に見られるというのは、とても恥ずかしいことだからですっ」


 どうしてこんなことをオスカーの前で説明しなければならないのかと、情けなくなった。

 マデリーンの部屋の前で気を失い一晩中眠っていたのだから、自分で着替えられたはずがないことはわかっている。

 だとすれば当然、意識のないジュリエットの髪をほどき、シフォラに着替えさせた人物がいるはずだ。

 だがきっとメアリかこの城に仕える下女か誰かがやってくれたことで、それがオスカーかもしれないなんて、露ほども心配していなかったのに。


 ――それもこれも、マデリーンがしっかり淑女のたしなみを教えないからだわ!

 

 的外れな慰めを口にする我が子と、掛布から亀のように顔だけ出すジュリエット。

 そんなふたりを黙って眺めていたオスカーが、苦笑を零しながらくるりと背を向ける。


「ジュリエット、勝手に入室して申し訳なかった。私は出て行くから、安心するといい」

「い、いえ、その。こちらこそ朝から騒ぎ立てて申し訳ございません……」

「気にしなくていい。すぐに貴女の侍女を寄越そう。身支度を終えたら、小食堂へ来るように。下女に案内するよう伝えておく」


 顔色ひとつ変えずそれだけを言い残すと、オスカーはエミリアを伴い去って行った。

 この状況を気にもしていない。そんなあっさりした態度が、ジュリエットにますます追い打ちをかける。

 

 ――旦那さまは、女性のシフォラ姿なんて見慣れてるでしょうけども!


 それも、マデリーンのような豊満な美女の、である。

 そんな彼からすれば、ジュリエットのシフォラ姿など木の板に絹布を巻いたも同然であろう。


 ――これじゃ、ひとり大慌てなわたしが馬鹿みたいだわ。


 別に、意識してほしいと言うわけではない。というか、むしろ意識してほしくない。

 彼は女性の寝間着姿に動揺するような男性ではないのだ。

 それでも、ああも冷静でいられると、大騒ぎしている自分との対比が妙に際立ち腹立たしく思う。

 わがままな言い分だとわかっているだけに、ジュリエットはその怒りを、自分の身のうちで処理するしかなかった。


 ジュリエットはぷんぷんと怒りつつも、決して表に出さなかった。

 それをしてしまうと、ますます惨めな気持ちになることがわかっていたからだ。 

 扉が閉まったのを確認すると同時にジュリエットはすっくと立ち上がり、てきぱきと、朝の身支度にとりかかった。

 洗面所で水を使っていると、ほどなくして、メアリがやってくる。


「お嬢さま、おはようございます。お加減はいかがですか?」

「心配いらないわ。あなたにも迷惑をかけて、ごめんなさい。寝ているわたしを着替えさせるのは一苦労だったでしょう」

「普段のお嬢さまのお世話に比べれば、あのようなことは苦にもなりませんわ」

「もう、ひどいわメアリ」


 くすくすと笑いながら、ジュリエットは抗議の声を上げる。

 こんな軽口の欧州も、ジュリエットとメアリが幼なじみのように育った仲であるからこそだ。


「身体を拭いてから着替えるわね」

「心得ております。お湯をご用意しますので、少々お待ちくださいませ」

「え? あ、いいのよ。時間がかかるでしょうし、水で――」

「いいえ、ご心配には及びません。アッシェン伯閣下のお心遣いで、下女の方たちがお嬢さまのためにお湯とお着替えをご用意してくださっていますので」


 そう言って部屋を出て行ったメアリは、すぐに大きなバケツを抱えて戻ってきた。

 バケツの中にはたっぷりの湯が入っており、ほかほかと白い湯気を立てている。メアリはそれを浴室の洗面器に移し替え、水で割ってちょうどよい温度に整えてくれた。


 一度は遠慮したものの、この心遣いには正直、助かったと感じざるを得なかった。

 春先の今、夏の気配はまだ遠く、朝晩は肌寒く感じる日も多い。そんな中、水に浸したタオルで身体を拭くというのは結構な苦行である。


「それに、着替えまで用意してもらえるなんて」


 湯に浸したタオルで丁寧に身体を拭い、ジュリエットは脱衣所で丁寧にたたまれた着替えを広げる。

 古着だと言っていたが、用意してもらえるだけでありがたい。それに見た感じ、かなり上等な品だ。

 感謝の思いもつかの間、身につけた瞬間、ジュリエットは思わずげんなりしてしまった。

 明るい色をした派手なデザインのドレスは胸元がゆるゆるで、とてもサイズが合わなかったからだ。

 それだけで、誰の古着かわかってしまった。


「……申し訳ないけど、別の服に替えてもらえるか聞いてみないと」


 最悪、昨日着ていた深緑のドレスをもう一度身につける覚悟で、ジュリエットはそう呟いた。

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