第43話
――お可哀想な旦那さま。
マデリーンの声が聞こえる。
同情を滲ませながらもどこか勝ち誇ったような声音。
自分のことについて話しているのだとすぐにわかり、
気配を消しつつ、声が聞こえる方角にそっと足を踏み出す。
廊下を曲がったすぐ先に、マデリーンと彼女の世話をしている侍女たちの姿を見つけ、リデルは慌てて物陰に身を潜めた。
……ああ、とジュリエットは嘆息する。
嫌というほど見覚えのある光景だった。
これはリデルがオスカーの許に嫁いで、ふた月ほど経ったある日の出来事だ。
リデルの瞳を通して見る過去の光景は、まるで幻灯機によって映し出される映像のようだ。
ぼんやりとセピア色に染まり、手を伸ばせばその全てが、霧のように指の間をすり抜けていく。
目の前で起こる出来事を、ただ観客として見つめることしかできない。そんなジュリエットの耳に、再びマデリーンの声が飛び込んでくる。
――せっかくご結婚なさったと思えば、奥さまがあんな風に病弱で……。
――ええ、本当にマデリーンお嬢さまの仰る通り。領主夫人として、あれほど不適切な方もいませんよ。
――お生まれが大変高貴な方だもの、仕方ないんじゃない?
おどけたような侍女の言葉に、その場にいた者たちが一斉に笑い声を上げる。
マデリーンが実家から伴ってきたという彼女たちは、初めからリデルを目の敵にしていた。
自分たちの主人がアッシェン伯爵夫人になると、信じて疑っていなかったのだろう。
オスカーの手前、表だって批判するような真似はさすがにしなかったが、それでも感情を完全に隠しきることはできない。
侮蔑、怒り、嘲笑……。
それら負の感情が彼女らの眼差しに宿っていることを、リデルは正しく察していた。
――皆さん、いけませんわ。
マデリーンが「仮にも」という言葉に力を込めながら、侍女たちを窘める。
しかしそれが上っ面だけのものであることは、彼女の楽しげに歪んだ唇を見ていれば火を見るより明らかだった。
――まあ、でも。確かに、あの方は領主夫人としてのお役目をほとんど果たしておられませんものね。
――ほとんどではありません、一切ですよ!
――そうです、社交も、お客さまへの接待も全てマデリーンお嬢さまに押しつけて……。なんて無責任なのかしら。
そんなこと、リデルは知らなかった。
なぜなら、オスカーが何も言ってくれなかったから。
リデルのほうから、領主夫人としての仕事はないかと聞いても、「貴女は何もしなくていい。そういうことは使用人に任せている」の一点張りだった。
だからリデルはこの時、初めて知ったのだ。
本当は、領主夫人としてするべきことが沢山あったのだと。
無知で無頓着な自分を恥じると同時に、こうも思った。
オスカーは、冴えない妻を人前に出すのが恥ずかしかったのかもしれない、と。
そうして棒立ちになるリデルの存在に気付くこともなく、マデリーンたちは会話を続ける。
――旦那さまも、マデリーンお嬢さまをとても頼りにしていらっしゃるし……。お嬢さまが奥方となられていれば、旦那さまにとってもどんなによかったことか。
――ねえ! いっそのこと、お嬢さまが跡継ぎを産んで差し上げたらいいんじゃないかしら。
――そうよ、それこそが奥方として一番大事なお役目じゃない! 名案だわ。
はしゃぎながら発された言葉に、リデルの心臓が凍り付く。
それを、使用人の戯れ言だと笑い飛ばせればどんなによかっただろう。
しかし普段のオスカーとマデリーンの親密さを鑑みれば、リデルには到底、無視できない提案だった。
マデリーンがオスカーの子を産む。
それは、リデルが彼の子を産むことより遙かに現実的なことだと思えた。
なぜならリデルはこの時点で、オスカーと一度も枕を交わしていなかったのだから。
いくら世間知らずの
とはいえ具体的なことは教わらず、子を為すためには閨を共にすることが必要だ、という程度の知識ではあったが。
もし、マデリーンがオスカーの子供を産んだら、きっと自分はお払い箱だ。
エフィランテでは、国王以外の重婚は認められていない。
ならば病弱で役立たずの妻より、子を産んでくれた女性を選ぶのは当然のこと。世間とて、マデリーンに味方するだろう。
大衆というものは、劇的な脚本を好むものだ。
王命によって一度は引き裂かれた恋人同士が、互いへの思いを捨てられず、禁忌の愛を貫き子に恵まれる。
そんな恋愛譚の中で、リデルの役割は何か。主役ふたりの仲を邪魔する悪役、よくて物語を盛り上げるための当て馬扱いだ。
もしその当て馬が、離婚したくないと夫に縋り付けばどうなるだろう。
観客の顰蹙を買うはずだ。愛し合う男女の障害となった挙げ句、子供とその母親を日陰者にするつもりか、と。
ありえるかもしれない未来への不安が、嫌な想像が、頭の中でどんどん膨らんでいく。
石のように固まった身体の中で、心臓だけが早鐘のように
たまらず、リデルはその場から走り去った。
けれどどこまで行ってもマデリーンと侍女たちの笑い声は消えることなく、影のようにリデルに付きまとうのだった。
§
「――ッいやぁぁ!! 来ないで!」
「ジュリエット!」
悲鳴と共に伸ばした手を、何か柔らかな感触が包み込んだ。
無機質な悪夢の世界とは違う、確かなぬくもり。
ジュリエットは咄嗟に力を込め、それを握りしめる。まるで、救いを求めるかのように。
「ジュリエット、大丈夫? 悪い夢でも見たの?」
「エミリア……?」
間近で聞こえた声に恐る恐る視線を彷徨わせれば、すぐそこに、エミリアがいた。
ジュリエットの右手を両掌で包み込み、心配そうな表情を浮かべている。
覗き込むような体勢を不思議に思ってもう一度視線を動かしてみれば、見覚えのない天蓋の模様が見えた。
どうやら自分が寝台に横たわっているらしいことに気付き、ジュリエットは瞬きを繰り返す。
――横たわっているというより……横たえられていた、というほうが正しいかしら。
なぜならジュリエットには、自身で横になった記憶がないからだ。
一体ここはどこで、自分はどうしてしまったのか。
困惑しながら上半身を起こすジュリエットを、エミリアが慌てたように制止した。
「ダ、ダメよ! ジュリエットは昨日、突然倒れたのよ! まだ寝てなきゃダメ」
「倒れた……?」
「ええ、男爵夫人のお部屋の前で。だから、客間で休ませようってお父さまが」
男爵夫人。
その言葉を切っ掛けに、ぼんやりとしていた記憶が瞬く間に蘇る。
「そうだわ、マデリーン……」
「え? どうして男爵夫人のお名前を知っているの?」
「そ、それはその……。先代エヴァンズ男爵のお噂を、何度か耳にしたことがありまして」
「ああ、そうだったのね!」
危なかった、とジュリエットは密かに溜息をついた。
エミリアが納得してくれたからよかったようなものの、寝起きで頭がはっきりしないからと言って、気が緩みすぎだ。
「ジュリエット、ひと晩中眠っていたのよ! でも心配しないで。ハリソン先生はどこも悪くないって。ただ、少しヒローの色が濃いから、ゆっくり休ませて、栄養のあるものを食べさせたほうがいいって!」
「ひと晩中!?」
エミリアの言葉に驚いて窓のほうへ目を向ければ、確かに、差し込む日差しは明るく眩しいほどだ。
他人の家で倒れ、一晩もの間眠りこけていたという事実に、ジュリエットは瞬間的に
「た、大変なご迷惑をおかけして――! 伯爵さまにもお詫びを申し上げないと」
「――オスカーでいいと、言ったはずだが」
音もなく忍び寄った気配に、ジュリエットの身体が寝台からほんの少し、小指の先ほどだけ浮いた。
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