第42話

 散歩をしよう、とエミリアが言い出したのは、食卓の上がすっかり片付けられた頃のことだった。


「ふたりでカードゲームをしたってつまらないし、お父さまが戻るまでの間、ジュリエットにお城の中を案内するわ。見せたいものがあるの」

「見せたいもの?」

「ふふ、秘密よ」


 エミリアが悪戯っぽく笑いながら、ジュリエットの手を軽く引っ張る。

 ジュリエットは椅子から立ち上がり、導かれるままエミリアに付いて行くことにした。

 扉を開くと、外に控えていた給仕メイドたちがエミリアとジュリエットに目を向ける。


「お嬢さま、どちらへ?」

「お客さまにお城の中を案内するのよ。お腹もいっぱいだし、いい運動になるわ。えっと、腹、腹ご、し……?」

「腹ごしらえですね!」


 給仕メイドのひとりが、ぽん、と手を叩きながら明るく答えた。

 接客が主な仕事内容である給仕メイドは、基本的に容姿のよい者が選ばれる。そんな中でも、彼女は一際目立っていた。

 小作りの整った顔立ちに、宝石のように輝く緑の瞳。後頭部で括った髪は綿菓子のようにふわふわしており、黄金に薔薇の雫を混ぜたような、赤みがかった金色が特徴的だ。

 動いていなければ、名匠の手による骨董人形と見間違えてもおかしくない。

 同性であるジュリエットですら思わず見とれてしまう、花のように愛らしい少女だった。

 ただ、その語彙力は少々残念なようだが。


「ロージー、それを言うなら〝腹ごなし〟よ」

「たった今お食事を終えたばかりなのに、腹ごしらえしてどうするのよ」


 方々ほうぼうから間違いを指摘されるも、こういったことは今回が初めてではないらしい。

 ロージーと呼ばれたメイドは、悔しげに肩を落とす。 


「うう……自信があったのですが」

「まったく。お嬢さまが間違った言葉を覚えたら、男爵夫人に怒られるわよ」

「そうよ、あの方は厳しいんだから。お嬢さまの教育に支障が出るようなことをしたら、大目玉よ」


 メイドたちの様子から察するに、どうやらエヴァンズ男爵夫人は相当厳しい女性のようだ。

 家庭教師という立場であるにも拘わらず、教育対象エミリアだけでなくメイドたちの言動まで気にかけるとは。 

 だが、それほど教育熱心な家庭教師がついているはずなのに、どうしてエミリアには十二歳の貴族令嬢として相応しい教養が身についていないのだろう。

 

 ――まさか、男爵夫人が手を抜いているとか?


 エミリアは男爵夫人のことを『優しい』と評していた。

 本人にその気がなくとも、男爵夫人がオスカーに気に入られたいがため、不必要にエミリアを甘やかしている可能性はある。

 きっとそうだ。


「あんまりだわ」


 ジュリエットは口の中で、小さく呟いた。

 親の欲目と笑われるかもしれないが、エミリアはとても聡く賢い子だ。そんな彼女がまともな教育を受けた上で、食事の席であんな無作法な振る舞いをするはずがない。

 

 ふつふつと、胸の奥で怒りが湧き上がる。

 きちんと授業をしていない男爵夫人に対してもだが、一番はオスカーに対してだ。

 どうして彼は、もっとエミリアに相応しい家庭教師をつけないのだろうか。

 どういう事情があるのかわからないが、私情を交えたせいでエミリアが犠牲になっているのは間違いない。 

 

 ジュリエットは自身の今の立場も忘れ、すっかり母親目線になっていた。

 彼に一言苦言を呈さなければ気が済まない。

 義憤に駆られるあまり気もそぞろになり、ついつい、エミリアの言葉を聞き逃していたのだ。


「――名案だと思わない? ジュリエット」

「えっ!? ええ、そうですね、とてもいい考えだと思います」


 もし時間を巻き戻せるのなら、ジュリエットはこの時の自分に忠告すべきだろう。

 聞こえなかったなら安易に頷くな。きちんと聞き返せ――と。

 しかし残念ながら、過ぎ去った時が戻ってくることは決してない。

 ジュリエットの適当な相づちに、エミリアの顔がぱっと輝いた。彼女はジュリエットの両手を固く握りしめながら、その場でぴょんぴょん跳びはねる。


「本当に!? やったぁ、お願いしてみてよかった! 絶対、絶対に名案だと思ったの!」

「よかったですね、お嬢さま」

「ええ! ジュリエットがわたしの家庭教師をしてくれるなんて、夢みたい!」

「えっ!?」


 思いも寄らぬ言葉に驚愕し、思考が停止する。

 まさかエミリアが『名案』と表現したのは、ジュリエットを自身の家庭教師にすることだったのか。

 そうとも知らず軽い気持ちで頷いた自分は、なんと浅はかだったのだろう。

 慌てて撤回しようと口を開いたジュリエットだったが、それより早く、給仕メイドたちが口々に苦言を呈した。


「お、お嬢さま! 勝手にそんなことを決められては、ご主人さまが困ってしまいますわ!」

「それに、お嬢さまにはもう家庭教師がいらっしゃるではありませんか!」

「ロージー、あなたも〝よかったですね〟じゃないわよ! 脳天気なんだから!」


 怒濤の勢いで反論するついでに責められ、ロージーが気まずそうに縮こまる。先ほどから同輩たちに責められっぱなしで可哀想だが、確かに『よかったですね』と言っている場合ではない。

 エミリアの反応はと様子を窺ってみると、案の定、面白くなさそうに唇を尖らせていた。


「わたしだって考えなしにこんなこと言ってるわけじゃないわ。男爵夫人がお怪我をしたから、その間は家庭教師のお仕事をするのが大変でしょう? だからジュリエットにお願いしてみたのよ」

「思いやりの気持ちを持つことは大事ですが、そういったことはご主人さまが――」

「んもう、だからこれから、お父さまにお許しをいただきに行くんじゃない」


 メイドたちの言葉を煩わしげに突っぱねると、エミリアはむんずとジュリエットの手首を掴み、歩き出した。

 ずんずんと大股で歩くせいで、瞬く間に給仕メイドたちの姿が遠ざかっていく。

 

「あ、あの、エミリアさま」


 歩きながら、ジュリエットはエミリアの背中に呼びかけた。

 先ほどの同意は間違いだったと告げ、謝罪するためだ。

 エミリアはそんなジュリエットの考えも知らず、軽やかに歩きながら顔だけで振り向く。


「なぁに。ジュリエット」

「先ほどの家庭教師の件ですが、わたし――」

「ああ! 急にお願いしてごめんなさい。先にお散歩をして後でお父さまに相談する予定だったのに、順番が逆になっちゃったわね」

「い、いえ……」

「でも、ジュリエットが引き受けてくれてよかった。わたし、ジュリエットの授業なら楽しくお勉強できると思うの」


 断るつもりでいたにも拘わらず、にこにこと上機嫌に笑う様子を見ていると、それ以上何も言えなくなってしまう。


 ――仕方ないわよね、わたしがきちんと確認もせず頷いたのが原因なんだし……。


 せっかく喜んでいるのに水を差すのも申し訳ないし、ここは黙っておくことにしよう。

 どちらにせよエミリアの提案は、オスカーが却下してくれるはずだ。

 彼は男爵夫人に厚い信頼を寄せているようだし、もし彼女が休養している期間の代理が必要なら、自身で相応しい人材を見つけることだろう。


 確かにジュリエットのような下級貴族の娘は、上級貴族の家で家庭教師をすることも多い。だがフォーリンゲン子爵家は資産家であるし、あえてジュリエットが働く必要はなかった。

 それにああいった職業に就く貴族令嬢は、家が貧しいのでなければ、大抵が訳ありだ。

 社交界で誰に見初められることもなく花の盛りを過ぎた女性か、あるいは、病気で子供を望めない身体か。

 理由はさまざまだが、今のところジュリエットには、家庭教師の職に就いて自立しなければならない理由はない。

 エミリアには可哀想だが、一度は頷いたジュリエットに断られるよりは、父親に駄目だと言われたほうが諦めも付くだろう。


 ジュリエットの手を引き、足取り軽やかにエミリアが向かった先は、主棟の渡り廊下から繋がる居棟だ。

 居棟には、主に住み込みで働く使用人や騎士団に所属する者たちの私室が置かれている。

 部屋の扉には絵付けのされた木製のプレートがかけられており、小さく名前が記されていた。

 エミリアが足を止めたのは、その内のひとつ『エヴァンズ男爵夫人ブレナ・エヴァンズ』の札がかかった扉の前だ。 

 エミリアは扉にぴったり耳を押しつけると、中から聞こえる物音を探るように目を閉じる。

 そして扉から離れ、よしと言わんばかりに頷いた。


「まだお父さまは中にいるみたい。わたし、中に入って男爵夫人のお加減を確かめてくるわね。お怪我が大したことなさそうだったら、男爵夫人にもジュリエットを紹介するわ」

「あ、エミリアさま――」


 止める間もなく、エミリアは中へ入っていった。

 もちろん、声をかけることも扉を叩くこともせずに、である。

 開いたまま一向に閉まる気配のない扉を前に、ジュリエットは困り果てた。このままでは、室内の会話が外へだだ漏れだ。

 余計なお世話かもしれないが、閉めておいたほうがよさそうだ。

 把手に手を伸ばしたジュリエットだったが、その直後、聞こえてきた声に凍り付く。


「まあ……お嬢さま、お見舞いに来て下さったのですか?」


 男爵夫人のものと思しき、嬉しげな声。

 それは、前世で嫌というほど耳にした、あの艶やかな女性のものによく似ていた。

 心臓が嫌な鼓動を立て、全身の血の気が引く。見ては駄目だ、と頭の中で警鐘が鳴り響く。

 にも拘らず、ジュリエットはまるで何かに導かれるように、フラフラと室内へ足を踏み出していた。

 そして。


「男爵夫人、お加減はいかが?」

「ええ、大したことはございませんのよ。メイドが大げさに騒ぎ立てただけですわ」


 寝台に腰掛けた女性が、エミリアと会話している様子が見えた。

 燃えるような赤毛。

 赤く塗られた唇。

 自身に満ちあふれた琥珀色の瞳。

 簡素な喪服に身を包んでいても、一切失われない華やかな美貌。


「――マデ、リーン……」


 青ざめたジュリエットの唇が、女性の名を紡ぐ。

 アッシェン騎士団副長の妹であり、常にオスカーの隣に在り続け、リデルを嫉妬の炎で苦しめてきた女性の名。

 彼女がそこに、いた。


 

 

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