第41話

「エミリア、お前、聞いていたのか? 盗み聞きはいけないと、あれほど――」

「そんなこと、今はどうでもいいじゃない。それで、男爵夫人はどうしたの? 怪我はひどいの?」


 父親の言葉を遮り、エミリアが問いかける。

 そんな娘の強引さに根気負けしたのだろう。ジュリエットの位置からは見えないが、オスカーの小さなため息だけが聞こえた。


「……部屋を出たところで足を滑らせたそうだ。ちょうど掃除中で、水拭きして濡れていたのを気づかなかったらしい。今、ハリソン先生に診てもらっているそうだ」


 ハリソンというのは、リデルが生きていた頃からこの城で働いているお抱え医師の名前だ。ジュリエットも、前世では大変世話になった。

 しかし、男爵夫人というのは一体誰だろう。記憶を探っても、そのような人物に心当たりはない。


 ――もちろん来客の全てを把握していたわけではないけれど……。


 『部屋を出たところ』という発言からして、この城に滞在していることは間違いなさそうだ。

 夫がオスカーの友人とかで、夫婦そろって遊びに来ているのかもしれない。

 しかし、もしそうだとすれば、今夜はオスカーにずいぶん無理をさせてしまったのではないだろうか。

 ジュリエットとの夕食会に顔を出せば、当然、友人夫妻を放っておくことになる。友人たちのオスカーに対する心証が悪くならなければいいのだが。 


 自分には関係ないことだと思いつつ気になってしまい、ますます意識がエミリアたちの会話に傾いてしまった。

 そうしてしばらく聞き耳を立てていると、オスカーが扉から顔を出した。


「食事の途中で申し訳ない、ジュリエット。想定外の問題が起こり、そちらの対応に回らねばならなくなった。中座する無礼を赦してほしい」

「どうぞお気になさらず。丁度紅茶も飲み終わりましたし、そろそろお暇いたしますね」

「えっ、いやよ!」


 途端に、エミリアが大きな声を上げジュリエットの許へ戻ってきた。


「せっかく来てもらえたのに、ご飯だけ食べて帰るなんて。それにお父さまとわたしとジュリエットで、食後にカードゲームとかお散歩をしようと思っていたのよ!」

「ありがとうございます。でも、お邪魔になってはいけませんので……」


 例えオスカーがこの場からいなくなったとしても、客人であるジュリエットがここに残る限り、使用人たちの手を割かせてしまう。

 城内が慌ただしい時にいつまでも居座られれば迷惑だろうと思ったのだが、エミリアは断固として、ジュリエットの帰宅を阻止したいようだ。

 

「男爵夫人のお加減を見に行くだけで、そんな時間はかからないでしょう? すぐ戻ってくるわよね、お父さま」


 ジュリエットの腕にしがみつきながら、必死な眼差しでオスカーに訴えかける。

 絶対にジュリエットを帰したくない、という圧力の滲む娘の態度に、彼は少々たじろぎつつ頷いた。 


「あ、ああ、もちろん。ジュリエット、私からもお願いしたい。どうか今少し、この場に止まっていただけないか。食事を終えたばかりの客人を、こちらの都合で帰らせるのは申し訳ない」


 オスカーが味方したことにより、エミリアが、より期待に満ちた眼差しを向けてくる。

 こんなキラキラした目で見つめられ、断ることのできる人間がいるとすれば、きっとその人物は鋼の心臓の持ち主に違いない。

 それに祖母の屋敷の使用人たちには、帰る時間は余裕を持って伝えている。断る理由はどこにもなかった。


「それでは、もう少しだけ……」

「やったぁ! ジュリエット、お茶でも飲みながらお父さまが戻るのを一緒に待ちましょう」


 エミリアが弾けるような明るい声ではしゃぎながら、ジュリエットの手を取り、ぶんぶんと上下に振る。

 そんなに喜んでもらえると、残ると言った甲斐があるものだ。

 

「私はしばらく席を外すが、気にせずくつろいでいてくれ」

「ええ、お気遣いありがとうございます」

「エミリア、お前は私がいない間、ジュリエットをきちんとおもてなしするように。あまり無理を言って困らせるんじゃないぞ」

「はいっ、お父さま」


 エミリアは力強くうなずくが、オスカーはどことなく心配そうだ。

 それでも、城内で怪我人が出た以上、あまりのんびりしているわけにもいかないのだろう。最後まで申し訳なさそうにしながら、小食堂を後にした。

 その後、彼と入れ替わるようにしてカーソンがやってくる。


「ジュリエット・ヘンドリッジさまですね。私はこちらでメイド頭を務めております、カーソンと申します。このたびはせっかくお越しいただいたにもかかわらず、慌ただしいことで申し訳ございません」


 頭に白いものが目立つとはいえ、相変わらず、きびきびとした口調だ。

 ぴしっと背筋を伸ばし深々と頭を下げる姿は、七十歳が近いとは思えないほど矍鑠としている。


「いいえ、怪我人がいらっしゃるのですもの。どうぞお気になさらず」


 懐かしさのあまり態度が不自然にならないよう気をつけつつ微笑みかけると、昔より皺の増えた顔に安堵の色が浮かんだ。


「ありがとうございます。そうおっしゃっていただければ、こちらも気が軽くなります」

 

 そう言うと、カーソンは次にエミリアに目を向けた。


「お嬢さま。私もこれから男爵夫人の許へ向かいます。お茶やお菓子のお代わりなどございましたら、外に控えております給仕メイドたちに、なんなりとお申し付けくださいね」


 そうしてカーソンがいなくなり、小食堂は再びジュリエットとエミリアのふたりきりになった。

 これを機にと、ジュリエットは先ほどから抱いていた疑問をぶつけることにする。


「エミリアさま、男爵夫人というのはどなたですか?」


 城主の交友関係に探りを入れるなんて、はしたないだろうか。

 そう思いつつ、ついつい好奇心が勝った。

 それに、リデルの記憶の中にあるオスカーの友人たちは、貴族や騎士階級であってもあまり柄がいいとは言えなかった。

 そういった事情がある上で、娘を取り巻く環境を知りたいと考えるのは、きっと罪ではないはずだ。


「ああ、男爵夫人はわたしの家庭教師よ。先代エヴァンズ男爵のミボ、ミボン……ジン?」

「未亡人ですか?」

「そうそう、ミボージン! 三年前にご主人を亡くされて、住む家がないから双子の娘たちと一緒にうちで暮らしているの」

「まあ、家庭教師の先生がいらしたのですね」


 うっかり口にしてすぐ、失言だったと気づく。

 この年の伯爵令嬢ともなれば、家庭教師を付けて淑女教育を行うのが貴族社会での一般常識だ。

 それなのに今の発言はまるで、とても家庭教師がついているようには見えないという嫌味のようではないか。

 

 実際、きちんと礼儀作法を教わっているようには見えないのだが、それはまた別の話だ。

 嫌味のつもりではなく単純に驚いたゆえの発言であっても、失礼なことに変わりはない。

 もしエミリアを不快にさせてしまったらどうしよう。

 不安になって様子を窺ったが、彼女は特に気にした様子もなく、あっさりと頷いている。


「お父さまとは昔の知り合いだったらしいわ。お父さまは立派な淑女だって言うけど、でも――」

「エミリアさま?」

「……わたしは、あんまり好きじゃないの」


 顔を曇らせたエミリアが、ジュリエットの耳に届くか、届かないかというごく小さな声で告げた。

 男爵夫人に対する好ましくない感想を口にすることを躊躇いつつ、打ち明けずにはいられないといった様子だ。

 先代男爵の未亡人でありながら、住む家がない――。

 その言葉から察するに、男爵夫人はかなり複雑な事情を抱えているようだ。

 貴族社会にお家騒動というのは付きものだが、彼女もきっとそうした騒動に巻き込まれ、やむなく家を出て行かなければならなくなったのだろう。

 そして昔の伝手を辿り、家庭教師として働く事でふたりの娘を育てている、と。


 この国で、女性が家を追い出され、ひとりで子供を育てるのは大変なことだ。

 きっと男爵夫人は芯の強い、娘思いの優しい女性なのだろう。

 だがエミリアが、そんな境遇に置かれた男爵夫人を厭うとは、どういうことだろう。

 ジュリエットの目から見て、エミリアはとても優しい子だ。だから、余程の事情があるとしか思えない。


「……もしかして、男爵夫人はエミリアさまに何か酷いことをなさるのですか? 例えば鞭で叩くとか」

「う、ううん! 全然そんなことないわ!」


 慌てて否定する姿に、嘘をついている様子はない。むしろ、そんな誤解をされるなど思ってもみなかったと、驚いているようだ。

 その反応に、ジュリエットはひとまず安心した。

 世の中には、覚えが悪いからと教鞭で生徒の手の甲を打つような教師もいる。

 もしエミリアが鞭で叩かれる恐怖に怯えつつも、父親に相談できないのだとすればと心配だったが、どうやら杞憂だったようだ。


「では、何か他の理由がおありなのですか? 大声で怒鳴られたり、何か意地悪を言われたり……」

「それもないわ。叱られることはあっても、男爵夫人は優しい……んだと、思う」


 優しいと口にしながらも、どこか歯切れの悪い回答だ。もしかしたら、あまり聞かれたくなかったのだろうか。

 余所の家庭の事情に対して、少しお節介が過ぎたかもしれない。


「答えづらいことでしたら、無理にとは――」

「ううん、そうじゃない。そうじゃないの」

「エミリアさま?」

「……別に、ジュリエットにだったら言ってもいいわよね。あのね……あの人、お父さまのことが好きなのよ。絶対、絶対にゴサイの座を狙ってるんだわ」

 

 エミリアはぷっくりと頬を膨らませ、眉間に皺を寄せながら、普段より少し低い声で告げる。

 不満もあらわな彼女の様子を、ジュリエットはしばし、瞬きを繰り返しながら見つめた。


 ――ゴサイ……ゴサイ? 


 しばらく脳内でその言葉を反芻し、ようやく『後妻』という言葉と結びつく。 


「えっと――。それは娘の立場からすると、複雑です、ね」


 祖母の恋愛遍歴を目の当たりにしてきただけに、エミリアへの返事は少々実感がこもったものとなった。

 リデルが亡くなって十二年。

 ジュリエットにとっては、オスカーがいまだ独り身でいることのほうが驚きなのだが、それとエミリアの感情とは別問題だ。

 むしろ十二歳という多感な時期だからこそ、新しい母親ができる可能性に拒絶反応を示すこともあるだろう。

 これまでずっと父親ひとりに育てられ、亡き実母を慕っていれば尚更だ。


「そうでしょう? これまでは、お父さまを好きになった女の人たちは全員、メイドも貴族令嬢も関係なく問答無用で追い出されていたの! そんなお父さまが、あんなにわかりやすい男爵夫人の気持ちに気付いてないわけないわ。なのに……」

「なのに?」

「わたしがどんなにお願いしても、男爵夫人はいい先生だと言って、家庭教師を変えてくれないの」


 しょんぼりと肩を落とし、エミリアが溜息をつく。

 彼女の発言を鵜呑みにするわけではないが、単に男爵夫人を追い出すためだけに、理不尽な言いがかりを付けているとも思えない。

 オスカーは若い頃から、女性たちに大層人気があった。

 夫を亡くし大変な苦労を強いられた男爵夫人が、この城で生活する中で彼に好意を抱いていったとしても無理のない話だ。


「それは、お父さまも男爵夫人のことをお好きということでしょうか」

「そうは見えないけど……。だから、どうして今までのように追い出さないのかわからないの。男爵夫人の住む場所がないのなら、新しい家庭教師先を紹介すればいいだけなのに」


 エミリアがどうして、男爵夫人にそこまで抵抗を覚えているのかはよくわからない。あるいは単に、現在最も継母になる確率の高い人物ということが、気にくわないだけかもしれない。

 気持ちはわからなくもないが、しかしそういったことは、オスカー本人が男爵夫人を好きになったらどうしようもないことだ。

 そんな風に思ったものの、それをエミリアに伝えるのは憚られ、ジュリエットは代わりに慰めの言葉を口にした。


「でしたら、エミリアさまの考えすぎかもしれませんよ。お父さまが女性から人気があるだけに、警戒しすぎて過敏になっているというか……」

「……そうかしら?」

「ええ。その可能性もある、というお話ではありますけれど」


 不安げなエミリアを安心させるように頷けば、素直な微笑みが返ってくる。

 少しは前向きな気分になってもらえたのかもしれない。

 胸を撫で下ろしたジュリエットは、この時エミリアがある思惑を胸に秘めていたことに、まったく気づけなかった。

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