第40話

 ほどなくして、給仕メイドたちが料理を運んできた。

 まずは前菜。燻製にした鮭とフリルレタス、野菜の酢漬けと鳥肝のテリーヌにほうれん草のキッシュが、白い皿に美しく盛り付けられている。


「わあ、美味しそう! いただきます!」


 皿が自分の前に来るなり、エミリアがほうれん草のキッシュを手で掴み、大きな口を開けて頬張った。

 驚きに目を瞠るジュリエットの横で、オスカーが軽い叱責の声を上げる。


「こら、エミリア。食前の祈りを忘れているぞ」

「あっ! ごめんなさい、お父さま」

「それにお客さまがいる時に、先に料理に手を付けては駄目だと前にも言っただろう」


 もぐもぐとキッシュを咀嚼する娘を、オスカーは呆れたように見ている。

 口の中のものを呑み込んだエミリアが改めて「ごめんなさい」と謝ったが、気まずそうな笑みからはあまり反省の意思は伝わってこなかった。 


「まったく……。申し訳ない、ジュリエット」

「い、いえ……」

「さあエミリア、きちんとお祈りをするんだ」


 はぁい、と元気よく答えたエミリアが、両手を胸に当て、女神の恵みに感謝する祈りの言葉を唱え始める。

 気にしていない風を装いつつそれに倣ったジュリエットだが、実際は、なかなかの衝撃を覚えていた。

 十二歳ともなれば相応の教育を受けているはずなのだが、たった今のエミリアの行動は、伯爵令嬢としてあまり適切とは思えない。


 ――それに、エミリアから貰ったあのお手紙……。あの字も、少し気になるわ。


 ジュリエットは招待状に記されていた、エミリアの文字を思い出していた。

 丸っこく端々が元気よく跳ねた筆跡は、幼く可愛らしいとは思うものの、お世辞にも教養が感じられるとは言い難い。

 そう、まるで読み書きの出来ない平民の子供が、半年間だけ文字の練習をしたような。


 ――ううん、きっと考えすぎよ。人には得手不得手があるんだもの。


 ジュリエットだって小さい頃、乗馬やダンスの授業に苦戦した記憶がある。

 エミリアもそれと同じで、文字を書くことや食事のマナーを覚えるのが多少苦手なだけだろう。オスカーのことだからきちんとした家庭教師を付けているのだろうし、部外者のジュリエットが心配することではない。

 この時はそう思っていたが、時間が経過するにつれて、ジュリエットは自身の認識を改めざるを得なくなった。

 

 前菜の後やってきたカボチャのスープを、エミリアは実に豪快な音を立てながら、ほぼスプーンを使わず飲み干した。

 焼きたてのパンは頬が膨らむほど口の中一杯に詰め込み、フォークを二回も床に落としていた。

 そして今は、ガチャンガチャンと激しい音を立てながら、白身魚を切り分けている。

 いや、破壊している、と言ったほうが正しいかもしれない。

 カリカリに焼いた白身魚に鮮やかな赤いトマトとアスパラガスが重なり合い、クリームソースのかかったさまは実に芸術的であった。

 それなのに今やエミリアの皿の上ではトマトがぐしゃぐしゃに潰れ、白身魚は原型を残していない。さながら事件現場のようだ。


「ねえ、それで、ふたりは仲直りしたの? ジュリエット、お父さまはちゃんと謝った?」

「もちろんだ、お父さまが約束を破ったことがあるか?」

「わたしはジュリエットに聞いているのよ。ね、ジュリエット。お父さまの言ってることは本当なの?」


 破壊行為を続けながら、エミリアが心配そうに問いかける。

 ジュリエットはできるだけ凄惨な光景から意識を逸らしつつ、食事の手を休めて答える。


「ええ、きちんと謝ってくださいました」

「ならよかったわ。これで仲直り。ジュリエットとお父さまもお友達になれるわね!」


 エミリアははしゃいでいるが、ジュリエットは到底、オスカーと友人同士になれるとは思えない。前世のことを抜きにしたところで、そもそも年が十五歳も離れているし、話が合う気もしなかった。

 きっと彼も、同意見だろう。


「もちろん。お友達です」

「そうだ、我々は友人同士だ」


 エミリアを安心させるためにそう言って頷き合いながら、ふたりともまるで表情筋がさび付いたかのように、笑顔がぎこちない。

 だが幸いにして、上機嫌なエミリアが、その微妙な空気に気付くことはなかった。

 

「お父さま、これあげるわ」


 彼女はアスパラガスをフォークで刺すと、オスカーの皿へ当然のように移動させた。そして目を丸くするジュリエットに、天使のような可愛らしい笑顔を向ける。


「わたし、アスパラガスが大の苦手なの。なんだか青臭くて筋っぽいし……食感も味も嫌いだわ」

「そ、そうなのですね」


 そう言うのが精一杯だった。

 リデルも子供の頃、アスパラガスがあまり得意ではなかった。成長してからは食べられるようになったのだが、エミリアくらいの年の頃は苦手で、よく残していたものだ。

 やはり親子で味覚は似るものなのだろうか。

 しかしこの光景を見て、そのことに感動する気にはなれなかった。

 これは、マナーを覚えるのが多少、、苦手どころの段階ではない。


 それなのに、オスカーはエミリアの行動に一瞬眉を寄せ「きちんと食べなさい」と軽く注意しただけだ。その上、押しつけられたアスパラガスを返しもせず、黙々と口に運んでいる。

 家庭教師に教育を任せているにしても、娘のこういった行動を注意するのは父親である彼の役目であるはずだ。


 他人をじっと見つめるのが無礼な行為であることはわかっていても、なぜ何も言わないのかという疑問が、ジュリエットに非常識な行動を取らせてしまう。

 不躾な眼差しに、オスカーが気付かないはずはない。

 ひとつきりの氷色の目がジュリエットの姿を確かめるなり、気まずそうに逸らされる。

 どうやら彼も、自分が注意しなければならないことはわかっていながら、あえてエミリアの好きにやらせているようだ。

 

「ジュリエット、どうしたの? お魚、美味しくない?」

「え? あ、いいえ。とても美味しいです」

「よかった! お城の裏手に大きな河があって、そこで川魚が沢山釣れるの。夏になるとね、魚の鱗が太陽に反射して、キラキラ光ってとっても綺麗なのよ。ジュリエットにも見せてあげたいわ」


 屈託のないエミリアの言葉に笑顔を返しながら、ジュリエットは溜息を堪えるのに必死だった。

 夜会の時のやたら大人びたエミリアと、無作法に食事をするエミリアの姿の乖離が激しく、あまりにちぐはぐな印象だ。

 これは一体どうしたことだろう。

 氷の騎士と呼ばれ、長年アッシェン騎士団の長として配下を纏め上げてきた彼が、単に娘だと言うだけでここまで甘やかし、必要な教育を放棄するとは到底思えない。

 

 どうにかして、その理由を探れないだろうか。

 彼らと深く関わり合いになることは避けるべきだ、と思っていたことも忘れ、ジュリエットは思案を巡らせる。

 しかしなんの具体策も得られないまま、とうとうデザートを食べ終え、小菓子と共に食後の紅茶を飲んでいた時のことだった。扉を叩く音が響き、外から遠慮がちにオスカーを呼ぶ声が響いたのは。


「――ご主人さま、お食事中申し訳ございません。少々お話が……」


 懐かしい声だ。

 記憶にあるものより少々嗄れてはいるものの、世話になっていた相手のそれを聞き間違えるわけがない。


「カーソンさんだわ、珍しい」


 メイド頭の名前を頭に思い浮かべたのとほぼ同時に、エミリアが声を上げた。

 珍しい、という彼女の言葉には、ジュリエットも同意見だ。

 カーソンは規律に厳しく、滅多なことで主人一家の食事を邪魔するようなことは絶対にしなかった。十二年経った今でも、彼女の仕事に対する姿勢が変わっていないことは、メイドたちの行き届いた躾を見れば明らかだ。


「すまない、少し席を外すがいいだろうか」

「もちろんです」


 ジュリエットに断り席を立ったオスカーが、扉を開け、一旦小食堂の外に出て行く。


 ――よほど大事な話なのかしら。


 非常に気になるが、分厚い扉の向こうでどんな会話が繰り広げられているか聞こえるはずもない。


「何を話しているのか気になるわね。ちょっと聞いてこようかしら?」

「だ、駄目ですエミリアさま! 盗み聞きなんて」


 今にも扉のほうへ走り出さんばかりのエミリアを、ジュリエットは慌てて引き留める。

 いくら前世が母親だとしても、今は赤の他人。身内でもないのに注意するなんて差し出がましいとは思ったが、さすがに盗み聞きしようとしているのを見逃すわけにはいかない。  

 だが、エミリアはジュリエットの制止を聞かなかった。


「いいじゃない、ちょっとだけよ!」


 そう言うと椅子からぴょんと飛び降り、扉にぴったりと耳を付けて外の物音に耳を澄ませ始めたのだ。

 食卓へ引き戻すべきか、それともこのまま彼女の好きにさせておくべきか。

 自分の立場上どういった行動を取るのが正解かわからず、ジュリエットは椅子から中途半端に腰を浮かせたまま、おろおろとしてしまう。

 すると突然、エミリアが大きく扉を開いて叫んだ。

 

「どういうことなの!? 男爵夫人が怪我って!」

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