第38話

 扉が開くなりジュリエットを出迎えたのは、弾む声と軽やかな足音だ。


「ジュリエット、来てくれたのね!」


 青いワンピースの裾を翻しながら、エミリアが駆けてくる。

 挨拶をするより早く、彼女はジュリエットの胸下辺りにがばりと抱きついた。


「本当にジュリエットが来てくれたわ! 嬉しい! わたし、ジュリエットがちゃんと来てくれるか不安だったの。何度も夢に見て、目覚めるたび夢だったことにがっかりしたわ。でも、ようやく本物に会えたのね!」


 白いリボンで二つに結った髪が、まるで子犬の尻尾のようにパタパタ揺れている。

 冬色の瞳をキラキラ輝かせながら興奮気味に話す様子からは、彼女が今日という日をどれほど心待ちにしていたのかが容易に覗えた。

 箱入りで育てられたエミリアにとって、外部からもたらされる刺激は滅多にない楽しみなのかもしれない。


「お招きありがとうございます、エミリアさま。わたしもとっても楽しみにしていました」

「本当!? わたし、楽しみすぎて昨日はちっとも眠れなかったの。それに胸がいっぱいで、お昼もあまり入らなかったわ」

「それじゃ、夕食は目一杯食べないといけませんね」


 和気藹々と言葉を交わしながら、ジュリエットは背後に控えるメアリに目配せをした。

 彼女は心得たように頷き、鞄から綺麗に包装された小ぶりな箱を取り出す。

 それを受け取り、ジュリエットは腰を屈めながらエミリアへ差し出した。

 

「これ、よかったらどうぞ。お勧めのお店で買ってきたビスケットです」

「わあ、嬉しい。ありがとう! ――お父さま、ジュリエットがビスケットをくれたわ! 食べてもいい?」

「食べてもいいが、おやつは食事の後にしなさい」


 そんな父娘のやりとりで、ジュリエットはようやく、この場にオスカーもいたことに気付いた。

 エミリアとの再会で膨らんだ『喜び』という名の風船が、針で突かれたように萎んでいく。


「いらしたのですか……」

「――貴女が入室した時からずっとここにいたが」

「まあ、それは失礼いたしました。少しも、まったく、気付きませんでしたわ」


 失言を取り繕おうとするあまり、より失礼な発言をしてしまった気がするが今更取り消すことなどできない。

 ジュリエットは背筋を今まで以上にピンと伸ばし、家庭教師をして『非の打ち所がない』と言わしめた淑女の礼をする。


「ごきげんよう、アッシェン伯爵閣下。このたびのお招きに、心より感謝いたしますわ」

「……ようこそ、ディエラ・ジュリエット。こちらこそ、招待を受けていただき、感謝する」

「お気になさらないでくださいませ。エミリアさまからあのような可愛らしいお手紙を受け取ったら、誰にもお断りすることなどできませんわ」


 つまりエミリアがいなければ、招待など受けていないという嫌味だ。

 普段のジュリエットなら、こんな風に誰かを攻撃するような物言いは決してしない。少しでも弱みを見せたら負けだという気持ちが、普段温和なジュリエットを意固地にさせているのだ。

 鎧代わりに貼り付けたわざとらしい笑みと、棘の滲む声とに、相手が気付かないはずはない。

 オスカーは言葉に詰まったように唇を噛み、何かを言おうと開きかけ、そしてまたすぐに噤んだ。


 ――あ。


 困ったような表情に、ジュリエットはたった今、自分が取った酷い態度を後悔する。

 言い訳をするつもりはないが、そんな顔をされるとは思わなかったのだ。

 てっきり、小娘の無礼な言動を腹だたしく思い、皮肉のひとつでも言われると思っていたのに。


 ――ど、どうしよう……。


 思いも寄らぬ状況に、ジュリエットは完全に戸惑っていた。

 正直に言えば今、彼のこの表情を見るまで、ジュリエットは疑っていたのだ。

 オスカーが『謝罪』という言葉を餌に誘い出し、何らかの報復をするつもりに違いない……と。

 しかし彼の反応を見ている限り、どうやら今回の夕食会には、本当になんの裏もないらしい。

 これでは完全にジュリエットのほうが悪者である。 


 そんな微妙な雰囲気に気付いたらしく、ライオネルがメアリをそっと外へ誘導する。


「メアリ殿、我々は退室いたしましょう。別室に、貴女のぶんのお食事もご用意しておりますので」

「……わかりました」


 どこか不安げにジュリエットを見やるメアリだったが、給仕でもないのに使用人がこの場に残ることは許されない。後ろ髪を引かれるような顔をしつつ、ライオネルに促され去って行った。


 ――ひとりにしないで!!


 内心でそう叫んでも、メアリやライオネルに聞こえるはずもない。

 扉は無慈悲な音を立てて締まり、室内にはジュリエットとエミリア、そしてオスカーの三人だけが残された。

 戦々恐々としていたジュリエットだが、それを表に出すほど愚かではない。

 けれどいくら心を武装しても、エミリアの前ではたちまち無防備になってしまう。


「ねえジュリエット、早く座りましょう。ジュリエットはわたしの真ん前の席よ」

「え、ええ。……え!?」


 いち早く席に着いたエミリアの言葉に、椅子とカトラリーの配置を確かめたジュリエットは、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。

 なぜなら四つの椅子に対しカトラリーは三組しか用意されておらず、『エミリアの真ん前』とはすなわち『オスカーの隣』を指していたのである。


「あ、あの、席を替え――」

「ほら、早く早く! ジュリエットがお手紙でお魚が好きだって言ってたから、美味しいお魚料理を用意させているのよ」


 ジュリエットのささやかな願いは、エミリアのはしゃいだ声によって完全にかき消された。

 泣きそうになりながらとぼとぼテーブルのほうへ歩いて行くと、オスカーがさっと手を伸ばし、慣れた様子で椅子を引く。


「……ありがとうございます」


 腰掛ける際、ふんわりと、爽やかな緑の香りが鼻孔をくすぐる。

 

 ――まだ、この香りを身に着けているのね。


 上質なフォビア茶葉と複数のハーブを調合した香水『フォビアティー・パフィーヌ』が、彼のお気に入りだった。

 リデルも同じ香水を密かに手に入れ、こっそりとハンカチやドレスに振って楽しんでいたものだ。

 もちろん、香水というものは使用者自身の匂いと混じって完成するものだから、まったく同じ香りにはならなかったけれど――。

 秘密の遊びはどこか背徳めいていて、甘い罪悪感に胸が高鳴ったのを覚えている。


 ――哀れなリデル。


 前世の自分を否定するつもりはない。あの時、リデルは毎日を精一杯生き、愛する人のために必死で努力していた。

 けれどもし彼女がジュリエットのような性格であれば、あんな風にひとり寂しく孤独を慰めるような、虚しい真似はしなかっただろうに。


「ディエラ・ジュリエット――」


 オスカーに名を呼ばれ、ジュリエットは慌てて意識を過去から引き戻した。

 考えごとをしている場合ではない。ここはアッシェン城なのだ。


「どうぞお呼び捨てに、伯爵閣下」

「では、私のことはオスカーと」

「そういうわけには……」

「貴女は娘の友人だ。畏まった呼び方はしなくていい」


 エミリアからもたたみかけるように言われ、ジュリエットは答えに窮した。

 年齢を考えても、また身分を考えても、出会ったばかり、、、、、、、の相手を名前で呼ぶのは一般的に非常識なことだ。それに、前世ですら名前で呼んだことなどないのに。

 しかし当の本人が許可を出している上、一連の無礼な態度に対する負い目があるため、非常に断りづらい。


「……では、ディエレオスカ・オスカーーさま、と」

「それでいい」


 ぎこちなく呼びかければ、オスカーの表情が少しだけ和らいだ。彼はその表情のまま、エミリアへ視線を移す。

 

「……エミリア、髪が乱れているぞ。結い直してもらってきなさい」

「え? 結んでもらったばっかりなのに……」

「さっき、ジュリエットに飛びついたからだろう。ほら、いきなさい」


 オスカーにぽんぽんと頭を撫でられ、エミリアは釈然としない表情をしつつも素直に部屋を出て行く。

 しかしジュリエットは、はっきりと目にした。エミリアの頭を撫でた際、オスカーがわざとリボンの位置をずらしていたのを。

 どうしてそんな真似をしてまでエミリアを追い出したのか。

 訳もわからずぽかんとしていると、彼が目の前で唐突に跪いた。そしてジュリエットを見上げながら、真剣な表情で口を開く。 


「今夜は――わざわざ足を運んでいただき申し訳ない。手紙でも申し上げた通り、貴女に謝罪を……と」


 その言葉で、ジュリエットは彼がエミリアを追いやった理由を悟った。

 ふたりの間で起こったいざこざの話を、まだ幼い娘に聞かせるわけにはいかない。

 オスカーはそう思ったのだろう。


「夜会の際は、その……何も知らず……いや。知らなかったで済む問題でもないが、勝手な誤解で貴女に大変無礼な態度を取ってしまったことを、……後悔している。それに、酷い侮辱の言葉も……」

「……」


 途切れ途切れの謝罪からは、彼が他人に頭を下げ慣れていないこと、それでも必死で言葉を選びながら謝ろうとしていることが覗える。

 とはいえ『いいえ』とも『お気になさらず』とも言えず、ジュリエットは黙り込むことしかできなかった。

 狭量と言われようが、あの時のジュリエットは大好きな両親を貶され、これ以上ないほど怒っていたし傷ついていた。

 今もまだ、その怒りが消えたわけではない。

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