第37話
「……ジュリエットさま?」
心配そうなライオネルの声が聞こえた。
気づけばジュリエットは足を止めており、いつの間にかライオネルとの間に距離ができている。
「申し訳ありません、歩くのが速かったでしょうか?」
「いいえ、違うのです。伯爵閣下にどんな挨拶をしようかと考えているうちに、いつの間にか立ち止まっていたようで……こちらこそ申し訳ございません」
ジュリエットはごまかすように微笑み、肩にかけたショールを強く握りしめながら早足でライオネルに追いついた。
――どうしてわたしは、前世のことなんて思い出してしまったのかしら。
再びライオネルについて歩きながら、きゅっと唇を噛みしめる。
スピウス女神の気まぐれか、あるいは他に何らかの理由があるのか、それはわからない。
この際、理由はなんでもいい。
けれどたった数週間前まで、前世のことなど何も知らず、普通の娘として穏やかに暮らしていたのに。
そう。あの頃は王族の話を耳にしても、いちいち自分に結びつけて心悩ませるようなこともなかった。
王が体調を崩したと聞いた時も、第一王子が他国の王女を妻に迎えた時も、第一王女に三人目の子が産まれた時も。そのすべてを、どこか遠い世界の出来事として受け止めていた。
けれど今は違う。
関係ないと言い切るには、ジュリエットの中に蘇った前世の記憶はあまりに鮮やか過ぎるのだ。
ましてや貴族の娘である以上、今後も王家の話題に触れることは避けられない。
それどころか、社交界にデビューすれば直接、王家の面々を目にすることもある。
国王も王妃も、そして王子や王女たちも……。
その時、自分は平静でいられるのだろうか。
既にエミリアの前で取り乱し、オスカーの前でも動揺した経験のあるジュリエットには、上手く取り繕える自信がない。
――お父さま――いいえ、国王陛下や王家の方々にご迷惑をおかけしたのは申し訳ないけれど……。
前世に関わる話を聞くたび、こんな風に動揺していてはきりがない。
前世と今とを切り離すことに、何とか慣れることはできないだろうか。あるいは、どうにかして前世の記憶を消すことは――。
そんなことを考えていたジュリエットの視界に、ふと、小さな建物が飛び込んできた。
蔦の絡まる白い壁に、同じく白い屋根。窓の部分に青いステンドグラスが埋め込まれており、周囲にきらきらと青い光をちりばめている。
前世の記憶にはない建物だが、ジュリエットには一目でそれがなんであるかわかった。
なぜなら屋根の上に、スピウス正教の象徴である女神の冠が掲げられていたからだ。
「あれは教会……いえ、礼拝堂ですか?」
「はい。普段は城で暮らす者たちの祈りの場として開放されておりまして、安息日には司祭さまを呼んでミサを行っております。ジュリエットさまもいらっしゃってみては? きっとお嬢さまも歓迎なさいますよ」
「ありがとうございます。考えておきますね」
微笑みながら、ジュリエットは別のことを考えていた。
――そうだわ、教会よ! どうして気付かなかったのかしら。
この地上に生きるすべての生物の創造主であり、命を司るスピウス女神。
ジュリエットを生まれ変わらせた張本人――ならぬ張本
教会というのは、いわば神に自分の声を聞き届けてもらうための窓口である。
やり方はよくわからないが、熱心に祈りを捧げれば聞き届けてもらえるかもしれない。
他人が聞けば非現実的だと笑い飛ばしそうだが、実際に女神の力を目の当たりにしたジュリエットには、何も非現実的な話ではない。
そもそも前世を思い出したのは女神の失敗なのだから、前世の記憶を消すことに関してもきっと協力してくれるはずだ。
――よし、家に戻ったらすぐにでも教会へお祈りに行かないと。
もう少しの辛抱だ。
沈み掛けていたジュリエットの胸に、ほんのりと希望の光が差した。
そうこうしている内に、ようやく城の主棟に到着する。
玄関扉の前には既に数名の給仕メイドたちが待っており、ジュリエットたちを目にするなりにこやかに頭を下げた。
「ようこそおいでくださいました、ジュリエット・ヘンドリッジさま。ステア・ライオネルもお帰りなさいませ」
「いらっしゃいませ、ジュリエットさま。お待ち申し上げておりました」
美しい所作は、しつけが行き渡っている証拠だ。
――そういえば夜会の日、エミリアがカーソンさんの話をしていたわね。
リデルにとっては親切で優しいメイド頭だったが、メイドたちからは常に恐れられていたことを覚えている。
あの当時で五十代半ばほどだっただろうか。彼女がまだ元気に働いていることが、何だか嬉しい。
他にもまだ、自分の知っている使用人が働いているかもしれない。
そう思って周囲をそれとなく見回してみたジュリエットだったが、少なくとも今この場には、十六~二十歳程度の若いメイドしかいないようだった。
少々残念に思っていると、給仕メイドのひとりが玄関扉を開き、中へ先導する。
「どうぞこちらへ。主人が二階の小食堂でお待ちしておりますわ」
「ありがとう」
建物内に一歩足を踏み入れると、優しい花の匂いがふんわりとジュリエットを出迎えてくれた。
アッシェン城にはふたつの玄関があり、ひとつは客を出迎えるための玄関、そしてもうひとつは主に城主一家が使うための玄関だ。区別するために前者は東玄関、そして後者は西玄関と呼ばれていたはず。
もちろん今ジュリエットたちが通ったのは、東玄関。
そして先日エミリアと共に上ったあの肖像画が並ぶ階段は、西玄関を入ってすぐのところに設置されているものだ。
――前回は緊張していて観察する余裕もなかったけれど、東にも肖像画が飾られているのね。
客を出迎える場所のためか、肖像画の数は少ない。
中央にすまし顔のエミリアとオスカー、そしてその両側を挟むように、先代アッシェン伯とそのまた先代の肖像画が飾られている。
絵の中のエミリアを現在の彼女の姿と照らし合わせて見ても、恐らく描かれてさほど時間が経ったものではないだろう。
――こっちは眼帯の旦那さまだわ……。
貴族の肖像画というのは、普通、年齢を重ねるごとに新たに描くものだ。しかし西玄関のほうは、オスカーが十八歳頃の肖像画をそのまま使っていた。
少し疑問に思ったが、彼の性格を考えれば、何度も描き直させるのを面倒に感じたとしても不思議ではない。
「ジュリエットさま、お手をどうぞ」
階段に差し掛かった際、自然と差し出されたライオネルの腕に手を掛けながら、ジュリエットは「あ」と声を上げた。
「どうされました?」
瞬きをするライオネルに、ジュリエットは先導する給仕メイドに聞こえないよう、小声で囁いた。
「ライオネルさま、わたしのことはどうか庶民として扱ってください。今日は子爵の娘としてではなく、ジュリエット・ヘンドリッジとして招かれたのですから」
「ああ、そうでした」
うっかりしていた、というようにライオネルが苦笑する。
先ほどからライオネルが使っている『ディエラ』という敬称は、未婚の貴族女性だけに用いられるものなのだ。平民の女性には、『フェナ』を用いるのが一般的である。
「失礼。それでは今からは、ジュリエットさんと呼ばせていただきますね」
「はい、よろしくお願いいたします。――あ、着いたみたいですね」
メイドが足を止めたのは、階段を上がってすぐのところにある扉の前だった。
「ご主人さま、失礼いたします。ジュリエット・ヘンドリッジさまがご到着なさいました」
「――入れ」
室内から聞こえてきたオスカーの返事に身構える間もなく、メイドが扉を開いた。
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