第32話

 立てこもりを始めてから三日目の夜がやってきた。

 部屋に訪ねてきたのは、今のところ父が八回、エヴァンズ男爵夫人が二回、執事のスミスが一回。そのすべてを、エミリアは侍女たちに頼んで追い返させている。

 父は一生懸命部屋の外から呼びかけていた。美味しいお菓子やお洒落なドレスで釣ろうとしていたようだが、ジュリエットに謝ると約束してくれない限り、部屋に入れる気はなかった。

 スミスは父の言うことを聞くようにと説得してくるだろうし、男爵夫人は長々と小言を言ってくるに違いない。というか、言われた。


「〝お嬢さまは、名門アッシェン伯爵家のご令嬢だという自覚がおありなのですか? 家庭教師を閉め出すなど、淑女として恥ずべき行為です! 三日も授業を休むなんて、わたくしは許しませんよ!〟」


 本を読むのを中断し、一昨日の男爵夫人の台詞を一言一句そのまま、同じ口調で言ってみる。ついでに表情も、あの取り澄ました高圧的な雰囲気に寄せ、指先を魔法使いのように大きく振る癖まで真似してみた。

 どうせ明日からは嫌でも授業を受けないといけないのに、男爵夫人はすぐにでもエミリアの立てこもりをやめさせたかったようだ。


「〝偉大なる家名とお父さまのお顔に泥を塗らないよう、立ち居振る舞いにお気を付け下さいと日頃から申し上げているでしょう! お嬢さま、聞いていらっしゃるのですか!〟」


 我ながら似ているではないか。

 そう思うとついつい笑いが込みあげ、エミリアは「ふふっ」と小さな声を零した。

 その途端、ちょうど背後のテーブルに就寝前のお茶の準備をしていたミーナが、叱責の声を飛ばしてくる。


「お嬢さま! 人の真似をして笑うような、下品な遊びをしてはいけませんよ」

「ごめんなさい。でもわたし、あの人好きじゃないんだもの」


 エミリアは渋々謝りつつ、けれど唇を尖らせて不満を露わにした。

 父は立派な貴婦人だと褒めるし、淑女としての立ち居振る舞いは確かに見事だ。それはエミリアのような子供の目から見てもわかる。

 けれど、エミリアにはどうしても気に入らないことがひとつだけある。

 男爵夫人の、父を見る時の目つきだ。

 巧妙に隠したつもりなのだろうが、勘の鋭いエミリアは気付いていた。彼女は父のことが好きなのだ。説教するのもエミリアのためを思っているわけではなく、父の側にいたいから、有能な家庭教師であろうとしているだけ。


「そんなことをおっしゃるものではありません。男爵夫人だって、お嬢さまのために一生懸命ご指導して下さっているのです」

「あの人が頑張るのはお父さまのためよ」


 カチャン、と茶器が大きな音を立てた。

 いつもそつなく仕事をこなすミーナにしては、珍しい失敗だ。動揺している証拠である。


「……申し訳ございません」


 ミーナは一言謝ると、何ごともなかったかのようにお茶の準備を続ける。

 それをちらりと見て、エミリアは嘆息した。

 そして本を閉じる音に紛れるように、小さく呟く。


「ミーナや他の侍女たちだって、男爵夫人のこと好きじゃないのに」


 男爵夫人は独身の頃、この城で行儀見習いのようなこともしていたらしい。父の親友が彼女の兄で、アッシェン騎士団に配属された際、王都からわざわざ付いてきたのだそうだ。

 侍女たちが前に噂話をしているところを偶然耳にしたのだが、男爵夫人はその時から既に、父に好意を抱いていたようだ。

 しかし父は結婚していたし、その恋が叶うはずもない。だから母に仕えていた侍女たちは、主の夫に横恋慕していた男爵夫人を、今でもあまりよく思っていないのではないだろうか。


 結局彼女はエヴァンズ男爵と結婚したのだが、そのエヴァンズ男爵が亡くなったのは三年ほど前のこと。

 普通ならそういった場合、未亡人は婚家から持参金を返還され実家に戻ったり、あるいは終の住処としてどこかの別荘を与えられるものだ。

 しかし彼女は、父男爵の後を継いで新たに爵位を継いだ嫡男から、強引に追い出されてしまったらしい。


 彼は、父の後妻として転がり込んだ若い継母が気に入らなかったのだろう。大した金も与えられず、男爵夫人は生活に困窮した。

 だから、まだ乳児だった双子の娘を抱え、職を探してアッシェンへ戻って来たのだ。

 彼女の実家の両親はとうに亡くなっており、親戚筋も頼れない。そんな状況で彼女が最終的に辿り着いたのが、兄の親友であった父の許だったらしい。


 当時エミリアは九歳で、丁度、子守ナーシーの手を離れ家庭教師を必要とする時期だった。

 父は昔のよしみで男爵夫人を家庭教師として雇用し、以来、この城の一室に彼女とその娘たちを住まわせているというわけである。


 ――可哀想だとは思うけど……。でもわたし、お父さまが男爵夫人と結婚するのは絶対にイヤだわ。


 もし父が男爵夫人と結婚すれば、エミリアは彼女を「お母さま」と呼ばなければならなくなる。


 ――そんなの駄目。わたしのお母さまは、リデルお母さまだけよ。


 母の記憶なんてひとつも残っていないけれど、でも、父が何度かロケットの中身を見せてくれたことはある。

 子守が描いたという、生まれたばかりのエミリアを抱く、母の姿。母の優しげな眼差しは、エミリアに対する温かい思いに満ちあふれていた。

 父を愛し、ふたりの間に生まれた我が子エミリアを愛していた証拠だ。


 だが、男爵夫人は違う。彼女の目はエミリアを見ていない。エミリアを通し、母の姿を見ているのだ。

 ミーナがいつも言っている。お嬢さまはお母さまにそっくりです、と。皆は父に似ていると言うけれど、ふとした表情が母と瓜二つなのだと。

 だから男爵夫人は時折、エミリアを見て辛そうに顔を歪めるのだ。エミリアのことを邪魔に思っている証拠だ。

 そんな彼女が父の後妻に収まり、自分の継母になるなんて許せない。きっとエミリアはすぐ厄介者になり、この城から追い出されてしまうだろう。


 エミリアはかつてそういった危機感から、家庭教師を代えて欲しいと父に頼んでみたことがあった。

 しかし結果はいつも不可で、行く当てのない女性を放り出すのはいけないことだと、淡々と諭される始末。

 だったら生活の世話をしてあげればいい、と反論したのだが、それによって滅多に怒らない父を余計怒らせてしまった。


 ――男爵夫人は物乞いではないし、一方的に施しを与えるのは失礼だ。


 その時のエミリアにはよく意味がわからなかったが、今はなんとなくわかるような気がしていた。

 世の中にはたくさんの人々がいて、誰もが己にできる役割を果たすことで、社会を動かしている。

 王族も、貴族も、経営者も、労働者も。皆それぞれに与えられた役目がある中で、生きているのだ。

 そんな中で見返りも求めず金銭を与えるというのは、その人が何も出来ない人間だと決めつけるのも同然で、誇りを傷つける行為。

 エミリアがかつて口にした言葉は、意図していなかったものにしても、男爵夫人に対しての侮辱であった。

 今は、さすがにその時の発言を反省している。だが、男爵夫人を好きになれるかというのはまた別問題だ。


 ぐるぐると考えていたその時、扉を叩く音が響いた。

 すかさずミーナに視線をやると、彼女が心得たように頷き、扉の鍵を開けに行く。そしてごくごく慎重に、ようやく掌が入るくらいの隙間ができるよう、小さく扉を開いた。


「ミーナ。……エミリーに会いたいのだが」


 父の声だ。

 エミリアはクッションを抱えたまま、用心深く耳を凝らす。


「何度もおいでくださっているのに大変申し訳ございませんが、お嬢さまはご主人さまが要求を呑まない限り、お会いにならないとのことです」

「ああ、わかっている。――エミリー、聞いてくれ!」


 慇懃に追い払おうとするミーナを飛び越すように、父の声が部屋の中まで響いた。


「悪かった。お前の言う通り、ジュリエットを帰したのは私の間違いだ」


 エミリアの耳が、ぴくんと動く。


 ――お父さまが、ご自分の間違いを認めてる?


 三日前は、あんなに頑なな態度でジュリエットのことを非難していたのに。

 立てこもり作戦が功を奏したのなら喜ばしいことだが、頑固な父のことだから、説得するのにはもう少し時間がかかると思っていた。

 あるいはエミリアが強硬な態度に出たから、仕方なく心にもないことを口にしているのだろうか。


 ――でも、すごく真剣な声だわ。


 ソファから立ち上がったエミリアは、おずおずと扉へ近づく。

 直に話して、父の真意が知りたかった。


「エミリー!」


 エミリアを見るなり、父が安堵したように笑みを浮かべる。

 ミーナから大丈夫かと問いかけるような視線を送られたので、頷くことで、部屋の外で待っているよう指示した。

 入れ替わりに父が部屋の中へ入ってきて、騎士のようにその場に跪く。


「お前に言われて、確かめてみたんだ。ジュリエットがどこの誰なのか」

「……それで?」

「お前が正しかった。ジュリエットは財産狙いでも、お前を害そうと思っていたわけでもない。受けた親切の恩返しをするため夜会に参加しただけの、善良な女性だ」


 意気消沈した様子の父に、エミリアは少し驚いた。

 あの冷静沈着な性格の父が、娘が立てこもったくらいでここまで悄気しょげるとは、考えてもみなかったのだ。


 ――前々からわたしには甘いと思っていたけど、こんなに効果的なんて。


 意外な事実に嬉しくなり、ついつい頬が緩んでしまいそうになる。どうやら父は本気で、エミリアを怒らせたことと、己の軽率な言動を反省しているらしい。

 だがエミリアは慌てて表情を引き締め、こほんと咳払いを落とした。そしてあえて、ツンと顔を背けてみせる。


「いきなりそんなことを言われても、本当に反省しているかなんてわからないわ。わたしのご機嫌とりのために、仕方なく言っているんじゃないの?」

「そ、そんなことはない。お前にそっぽを向かれ、毎日ひとりきりの味気ない食事を取ることが、どれほど侘しかったか……! 本当に悪かったと思っている」

「謝る相手を間違っているわ、お父さま。わたしじゃなくて、ジュリエットに謝らないと意味がないのよ」


 エミリアはわざと目尻を吊り上げ、怒ったような表情を作る。本当はもう怒っていなかったが、父の反省する様子なんて滅多に見られないのだ。もう少しだけ、その情けない表情を見ていたかった。

 すると父は、慌てたように頷く。


「あ、ああ、わかっている。ジュリエットを我が家の夕食会へ招待しよう。その時に、非礼を謝罪するつもりだ」

「本当に!? ジュリエットをうちに呼んでくれるの!?」

「もちろん。お前の友人だ、客人として丁重に扱おう」


 怒ったふりも忘れて、エミリアは歓喜の声を上げた。

 前回は邪魔されたが、今回は誰にも咎められることなく、ジュリエットと話をすることができる。堂々と、ジュリエットを友達として、ロージーやミーナたちに紹介できるのだ。


「わたし、ジュリエットといっぱい喋って、いっぱい仲良くなるの! 招待状を出して、ジュリエットの好きなお料理を用意しなくちゃ! ありがとうお父さま、とっても嬉しいわ!」


 途端に上機嫌になったエミリアに、それでもまだ遠慮がちに、父が問いかける。


「……もう怒っていないか?」 

「ええ、もちろん。実はね、お父さまが最初に謝った時にはもう、赦していたの。今までのは怒ったふりよ」


 頬に仲直りのキスをしながらそう打ち明けると、父は一瞬目を大きく見開き、すぐに苦笑を浮かべた。


「お父さまを騙すとは、悪いお姫さまプリンシアだ」

「きゃーっ!」


 父にいきなり抱きかかえられ、エミリアは笑い混じりの悲鳴を上げる。

 十二歳の娘の重みなど、騎士として鍛えていた父にとってはさしたる負担にもないらしい。軽々と抱き上げられれば、たちまち子供の頃に戻った気分になる。

 幼い時から変わらない、エミリアにとって世界で一番安全で、心安らぐ場所。温かい腕の中で、エミリアは童女のように甘えてしまいたくなり、父の首根っこにぎゅっとしがみついた。


「お父さま」

「ん?」


 穏やかな声に、泣きたくなってしまうのはどうしてだろう。


「わたしも……お父さまに酷いことを言ってごめんなさい。本当はわかってるの。お父さまが誰よりもわたしのことを心配してくれてるって」

「ああ」

「お父さまがパーティーが苦手なのも、それなのに毎年、無理をしてわたしのために夜会を開いてくれているのも……。全部、わかってるの」

「ああ、そうだな」


 エミリアはぎゅっと父の胸に額を押しつけ、泣くのを我慢した。それでも、声が震えてしまうのは止められない。


「あんなこと言うつもりなかったのに……。お父さまを傷つけたわ」

「エミリー、いいんだそれは――」

「ごめんなさい。お父さまのこと大好きなのに、素直になれなくてごめんなさい……」


 ずず、とエミリアは鼻を啜る。

 シャツが濡れていることに気付いただろうが、父は何も言わなかった。ただエミリアの頭を優しく撫でながら、赤ん坊を寝かしつけるように静かに揺らすだけ。

 その内にエミリアはうとうとと眠くなり、瞼の重みに耐えられなくなってしまう。

 温かい泥に沈んでいくような心地のよい睡魔に、エミリアは抗う術を知らない。

 そうやって朦朧とする意識の中で、父の、小さな声を耳にした気がする。


「わかっている、エミリー。……私も、お前と同じだから。……だが、俺は謝れなかった。最後まで……」

「……?」

「お前は……、決して俺のようになってはいけない。大切な人を大事にできる……、優しい人間になりなさい。……私に、こんなことを言う資格は……ない……が……それでも、お前だけは……」


 ――お父さまは何を言っているの? どうしてそんな、悲しい声でお話するの? 謝れなかったって、誰に?


 途切れ途切れに聞こえる、父の言葉に対する疑問。それを口にするより早く、エミリアの意識は急速に眠りの世界へ引きずり込まれる。

 そうして夜が明けるまでぐっすり眠り続け――。エミリアは父が何かを言っていたことなど綺麗さっぱり忘れ、いつもより少しだけ嬉しい気持ちで朝の目覚めを迎えたのだった。

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