三章 運命のいたずら
第33話
「最悪だわ……!」
ジュリエットは頭を抱え、自室内を右往左往していた。
あの悪夢の夜会から時が経つにつれ、じわじわと心に乗った重石がその質量を増していくかのよう。
そう。後悔という名の重石だ。
あの夜、結局ジュリエットは、伯爵家の馬車で祖母の屋敷まで送ってもらった。
歩いて帰ると啖呵を切ったはいいものの、丈の長いドレスと踵の高い靴ではどう足掻いてもたどり着けるはずがない。
ましてや灯りもない夜道である。若い娘ひとりで歩いていい時間帯ではなかった。
とはいえ引っぱたいて断った手前、今更馬車を出してほしいと頭を下げるのも癪で、どうやって帰ろうか途方に暮れていた時のことだ。
廊下をトボトボ歩くジュリエットを、背後から誰かが呼び止める声が聞こえた。
――ディエラ!
振り向けば、エミリアの命令でジュリエットの部屋の前に残ってくれていた、若い騎士の姿があった。
長身で、金髪。目の色こそ違うが、白皙の美貌は少しだけ、前世で従兄だったイーサンを思い出させる。
彼は、若い女性にこんな夜道を歩いて帰らせるわけにはいかないと、わざわざジュリエットを追いかけてきてくれたそうなのだ。
反射的に断りそうになったが、彼もそれは見越していたのだろう。
――ご安心下さい、伯爵閣下は無関係です。私が独断で馬車をご用意いたしました。
そんな風に言われれば、折角の親切を無下に扱うわけにもいかない。
正直に言って、自分の足ではたとえヒールを履いていなくとも、祖母の家に辿り着く前に力尽きてしまいそうだ。そう思ったジュリエットは、素直に彼の厚意に甘えることにした。
――このたびは、閣下が大変失礼致しました。
彼が深々と頭を下げオスカーの非礼を詫びるものだから、ジュリエットは逆に申し訳なく思った。
この騎士が、あの時オスカーを止めようとしてくれていたことを、ジュリエットは知っている。
――そんな……どうか謝らないでください。むしろこちらのほうこそ、無関係の方まで巻き込んでしまったことを申し訳なく思っております。
――いいえ、今回のことでジュリエットさまがお怒りになるのは当然だと思っております。閣下はその……少し、お相手への配慮にかけることがございまして、お嬢さまからも常日頃注意されているのですが、中々……。
言葉を濁しているが、つまり彼はオスカーを独善的だと言いたいらしい。
ジュリエットは思わず吹き出してしまい、慌てて笑いを引っ込める。
――あ、ごめんなさい。つい……。
――構いませんよ。閣下に言いつけたりなどいたしませんから、どうぞご安心を。
悪戯っぽく笑う騎士の姿に、ジュリエットは怒りと屈辱に昂ぶっていた心が徐々に凪いでいくのを感じていた。
そうして彼自ら御者となって馬車を操り、祖母の屋敷まで送り届けてくれた頃には、ジュリエットの気持ちは大分落ち着きを取り戻していた。
――ありがとうございます、ステア――……
――ああ、大変失礼致しました。私はライオネルと申します。どうぞお見知りおきを。
ジュリエットの手の甲へ礼儀正しく口付けを落とした彼は、そのまま馬車でアッシェン城へ引き返していった。
その後、窓から玄関先の様子を覗いていた祖母の質問攻撃に遭い、なんとか上手く躱して眠りにつき、翌朝には自宅へ戻ったのだったが――。
「さすがに引っぱたいたのはまずかったわよね……」
冷静になればなるほど、己のしでかしたことの深刻さを理解し、大変な後悔に苛まれる始末である。
いくら相手が無礼な発言を口にしたからといって、それは手を出していい理由にはなり得ない。世間一般では、先に暴力をふるったほうが悪者とされるのが常だ。
これがもし知人同士のやりとりであれば、多少の手心を加えてもらうこともできたかもしれない。だが、オスカーとジュリエットはまったく接点のない赤の他人同士。
彼から傷害の罪で訴えられれば、ジュリエットは確実に負けてしまうだろう。
とはいえ今回の件に関して言えば、相手が怪我をしたわけでもないし、裁判所まで話が行く可能性は限りなく低い。貴族同士の間で起こった出来事というのは、被害者側と加害者側両方の体面を考えた上でできる限り穏便に処理されることが多いからだ。
しかし運の悪いことに、オスカーはジュリエットの父より上位の貴族で、客観的に見れば暴力をふるわれた被害者だ。
単なる平手打ち。されどそれは彼にとって、自分にとってあらゆる面で格下の小娘からの平手打ちである。
彼の誇りがどれほど傷つかられたかは、想像に難くない。
それらを鑑みれば、今回の件でジュリエットが何らかの賠償を求められることは、まず免れないだろう。
「どうしよう、お父さまとお母さまになんて言えば……」
夜会から三日が経つが、ジュリエットはいまだ誰にも、あの夜のできごとを打ち明けていない。
早く言わなければいけないことはわかっている。遅くなればなるほど、余計に言い出しにくくなることも。
だが、毎朝食堂で顔を合わせるたび両親から笑顔で話しかけられると、どうしても自身の失態を話す気にはなれなかった。
社交界デビュー前の娘の不始末は、間違いなく親の管理責任能力不足とされる。
怒られることより何より、両親の落胆した表情を見ることがジュリエットにとって最も恐ろしいことだった。
――大事に使ってね。
そう言って身体を託された分、ジュリエットには本来この身体の持ち主であった『ジュリエット』のぶんも、両親を大切にする責任がある。それなのに。
「……わたしって、本当にばかだわ」
目頭が熱くなり、ジュリエットはソファに腰を下ろしてハンカチで目元を拭った。
赤の他人に両親を侮辱されたからといって、何もあれほどムキになることはなかったではないか。
悠然と微笑み、「無礼な方ね」と捨て台詞でも吐いてその場を立ち去るだけでよかった。それが淑女として正しい対応だったはずだ。
けれどジュリエットのしたことは、それとはまったくの正反対。
頭に血が上るままに声を荒らげ、平手打ちし、あまつさえオスカーのことを「愚かしい自惚れ屋」扱いしたのである。
十六歳にもなって、まるで分別のつかない子供だ。
それでも相手が誰か別の人間であれば、あんなにも怒りを抑えきれなくなることはなかっただろう。
ジュリエットにはわかっている。
自分があんなにも怒りを覚えたのは、相手がオスカーだったから。
彼に軽んじられ、冷ややかな言葉を投げかけられたリデルの傷ついた心が、血を吹き出していたからだ。
――たとえ別人に生まれ変わったとしても、あなたにとってわたしは疎ましい存在なのでしょうか。
今の自分は一体どちらの人間なのかと問われれば、多少迷っても、ジュリエットはこう答えるだろう。
自分はフォーリンゲン子爵令嬢、ジュリエット・ディ・グレンウォルシャーだ、と。
しかしあの時、オスカーを殴った瞬間の自身の心を支配していたのは、間違いなくリデルだったとも感じている。
リデルの嘆きとジュリエットの怒りが混ざり合うことで、前世では考えられないほどの行動に出てしまったのだとすれば……。
――わたしはこの先、前世と今は別だと割り切って生きていくことができるのかしら。
今は記憶を取り戻したばかりで今世の人格が勝っていても、『ジュリエット』が『リデル』に引きずられないとは限らないのだ。
「いいえ……! 駄目よこんなことを考えては。ジュリエット、あなたははずれ姫ではない。フォーリンゲンの、お父さまとお母さまが大事に育てて下さった娘よ」
テーブルの上においていた手鏡をたぐり寄せ、ジュリエットはそこに映った自分を睨み付ける。
弱気になっていては駄目だ。
今ここに生きているのは、リデルではない。ジュリエットなのだ。
両親たちと築いてきた絆も、思い出も、この心に全部詰まっている。せっかく命をもらったのに、前世に引きずられるなんて絶対に駄目だ。
「しっかりしなさい、ジュリエット・ディ・グレンウォルシャー!」
ジュリエットは自身の頬を、両手で叩いた。微かな痛みと共に、弱気になっていた心がしゃきっとするのを感じる。
もうすぐメアリが、お茶の準備ができたと呼びに来る頃だ。
いつまでも悩んでいても仕方がない。覚悟を決めて、両親に自分のしたことを話そう。
少々乱暴に目元を拭い終えると、ジュリエットはソファからすっくと立ち上がった。
――まさかその後、くだんのアッシェン伯本人から夕食会への招待状が届くとも知らずに。
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