第31話

 甲高いヒールの音が近づいてくる。

 朝の食堂でひとり侘しい食事を取っていたオスカーは、給仕メイドに目配せをし、部屋の外へ出ているよう指示した。

 それと入れ替わるように、黒い喪服を身に纏った女性が肩を怒らせ、食堂へ足を踏み入れる。

 嵐の襲来だな、とオスカーは口中でぼそりと呟き、一旦席を立った。


「閣下!」

「――これはファナム・エヴァンズエヴァンズ男爵夫人、朝からお元気そうで何よりだ。珈琲か、紅茶でも飲んで行かれるのならメイドに用意させるが、まずはおかけになられてはいかがだろう」

「いかがだろう、ではございませんわ! 呑気に座ってなどいられますか!」


 ダン、と大きな音を立て、男爵夫人が食卓に手を突く。衝撃で皿やカトラリーが微かに浮いた。

 彼女は整った眉をはっきりと吊り上げ、榛色ヘーゼルの瞳を爛々と怒りに染めている。 

 急いでここまでやって来たのだろう。きっちりと纏め、結い上げられた髪の上に乗った小さなヴェール付き帽子が、ずれて歪んでいた。


「何を呑気にお食事していらっしゃいますの!? エミリアさまが! お部屋に! 立てこもっていらっしゃるというこの一大時に!」 

「そう大声を出されずとも、エミリアの件は私も承知している。……昨日からだ」


 キンキンと鼓膜に響く声に、オスカーは耳を塞ぎたいのを必死に堪え、椅子に腰を下ろして珈琲に口を付けた。

 貴族たちの間では、如何によい紅茶を嗜んでいるのかが一種のステイタスのようだ。しかしオスカーはどちらかというと、熱々の珈琲に少量の砂糖を入れ、ぐっと飲むのが好きである。

 珈琲の苦みと熱が喉を通り抜け、胃の腑に溜まる。そうして心を落ち着け、男爵夫人の猛攻に備えた。


「昨日から! でしたら、どうしてもっと早くエミリアさまを説得なさらないんですの! エミリアさまは授業も受けたくない、礼儀作法もダンスのお稽古もしたくないと仰って、わたくしを侍女たちに門前払いさせたんですのよ!? 家庭教師のわたくしを!」

「どうかあまり興奮しないように。私も一応の説得は試みた。その上での現状だ」

「まったく説得できていないではありませんかっ!」


 男爵夫人が、黒いレースの手袋に覆われた両手で顔を覆い、上を向いて嘆く。

 彼女は臨時の家庭教師にエミリアの授業を任せ、ここ二週間ほど王都の実家へ帰省していたのだ。戻ってくるなりエミリアの立てこもりを聞かされ、正に寝耳に水だっただろう。


「戻られたばかりでこのような事態になって、誠に申し訳ない。しかし、あの子の頑固さは筋金入りだ。少々時間を置かねば、逆効果になる」


 そう言えば、男爵夫人は指の隙間から目だけ覗かせてオスカーをひと睨みし、やがてがくりと肩を落とした。


「一体どうしてこのようなことになっているんですの……? いつもはどんなに不機嫌でも、授業は必ず受けて下さっていたのに」

「それは――。私が、あの子を怒らせたからだ」


 少々言い淀み、オスカーは簡潔に事実のみを伝える。

 男爵夫人に余計なことを話せば、ますますエミリアを怒らせる結果にしかならないことが分かっていたからだ。


「怒らせたって、一体どうして……。もしかして、先日の夜会で何かございましたの?」

「……少々手違いで、その……」

「手違い?」

「……………………あの子の友人に対し、無礼な態度を取ってしまったんだ」


 言葉を濁しつつも、嘘偽りのない真実を述べるオスカーの心は重い。

 エミリアと口論をしたその日の内に、オスカーは早速、ジュリエット・ヘンドリッジと名乗ったあの少女について調べることにした。

 彼女の正体さえわかれば、エミリアを説得するための材料にできると踏んだからだ。


 あの夜会の日、ジュリエットのパートナーであった準騎士アダム・ターナーに話を聞き、そこから彼女がどこの誰であるのか探ろうとしたのである。

 アダムはジュリエットを牧場主の娘と信じ切っていたが、それでも彼の持つ僅かな情報を許に、彼女の正体に辿り着くのはそう難しいことではなかった。


 しかし結果は――。

 オスカーの一連の言動が完全なる誤りで、エミリアの直感こそが正しかったと告げるものでしかなかった。


 ジュリエット・ディ・グレンウォルシャー。

 フォーリンゲン子爵のひとり娘で、一年後に社交界デビューを控えた十六歳の貴族令嬢。

 それが彼女の正体だった。

 フォーリンゲン領は、アッシェンの五分の一程度の規模しかない。しかし肥沃な土壌を生かした広大な葡萄農園を有し、質のいいワインを生産することで豊かな富を築いてきた。

 貴族の中でも、かなり裕福な部類に位置する資産家一族である。


 特にここ数年、異国への輸出を積極的に行うことで業績を更に伸ばしており、アッシェンの紅茶産業に負けずとも劣らない勢いだったはずだ。

 そんな裕福な家柄の子爵令嬢が、財産目当てでわざわざ身分詐称などするわけがない。

 調査結果を前に、オスカーは己が間違っていたことを認めざるを得なかった。


 護衛のため側で見守っていた騎士曰く、ジュリエットはエミリアに積極的に取り入ろうとするどころか、むしろ遠慮して家に帰ろうとしていたらしい。

 けれどエミリアが無理を言って、城へ泊まっていくよう強引に頷かせたようだ。

 あの日、部屋へ押し入ろうとするオスカーを騎士が必死で止めていたのは、そういった経緯を間近で見ていたからだろう。

 だが結果的に、オスカーは騎士の制止を振り払い、ジュリエットに散々な暴言を吐いて追い出したという顛末である。


 これはあくまでアダムから話を聞いた上での推測だが、ジュリエットは祖母を助けてくれた彼へ恩返しするため、仕方なく夜会への同伴を了承したのではないだろうか。

 社交界デビュー前の若い女性に妙な評判が立てば、今後の結婚や交友関係に大きく響く。だから不要な瑕疵を負うことを避けるため、わざわざ名前と身分を変えたのではないか。


 それ以上の理由など存在しないのに、初対面の相手から謂われなき疑いを掛けられた上、両親まで侮辱されたのだ。

 ジュリエットが怒り、手を上げるのも当然だ。


「エミリアさまにご友人? それは一体、どこのどなたですの?」

「夜会に来てくれた女性だ。準騎士が、パートナーとして伴っていた」

「まあ……でしたら年上の方ですわね。初対面なのに、大丈夫なのかしら」


 顎に手をやり、男爵夫人がぶつぶつと呟く。

 教え子であるエミリアにはあまり好かれていないが、男爵夫人自身は常にエミリアのことを心配し、安定した将来を歩むための手助けになりたいと思っているようだ。

 それだけに、突然現れた『年上の友人』という存在に警戒を隠せないらしい。

 その気持ちは十分理解できるだけに、オスカーは彼女が安心できるよう、付け加えた。


「それなりに大きな牧場主のお嬢さんだ。感じもいいし、身元もしっかりしている。心配するようなことは何ひとつない」

「……珍しい。旦那さま、、、、が、若い女性のことをそんな風におっしゃるなんて」


 男爵夫人が胡乱げな表情で、オスカーをじっと見つめている。

 探るような視線には様々な意図が込められているように思えたが、オスカーはそれが何なのか考えることを放棄した。そして改めて、エミリアの件に触れる。


「ともかく、エミリアの怒りの原因は私だ。娘については私が何とかするから、あと数日ほど休暇が伸びたとでも思っていてくれれば助かる」

「……わかりましたわ。閣下がそうおっしゃるのなら」


 男爵夫人は黒いドレスの裾を摘まみ、優雅に頭を下げた。そうして食堂を出て行く直前、オスカーは思い出したように彼女を呼び止める。


「男爵夫人」

「はい?」


 男爵夫人が小さく振り向いた。戸惑うような表情からは、まだ何かあるのだろうか、という疑問が感じ取れる。

 それもそうだ。人が聞けば、そんな細かいことかと呆れるような理由で、オスカーは彼女を呼び止めたのだから。

 けれどオスカーにとって、これは決して譲れない、自分の中での決まり事だった。


「――以前にも頼んでいたと思うが、私のことは決して〝旦那さま〟とは呼ばないでほしい」


 できる限り平坦な声で告げれば、男爵夫人の息を呑む音が聞こえた。先ほど自身が会話の中でたった一度だけ、無意識にそう口にしてしまったことを思い出したのだろう。


「申し訳ございません、ついうっかり……。今後は気を付けますわ」

「そうしてくれ」


 短く言うと、オスカーは今度こそ、男爵夫人が退室するのを見届けた。

 やがて扉が閉まると同時に、自分にしか聞こえないほど小さな声で、呟く。


「……すまない、マデリーン」


 普段と変わらないように見えた彼女が、一瞬だけ唇を噛みしめたことには気付いていた。

 だがオスカーにとってその呼称は、もはやただひとりの口からのみ発されるべき、特別な呼び名だと決まっているのだ。

 旦那さま、と控えめに呼びかけるあの柔らかい響きを忘れたくなかった。他の誰かの声で上書きされたくなかった。

 たとえこの先、永遠に耳にすることが叶わぬと知っていても。

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