第30話

 自分が勉強をしなければ、父にとっては大打撃のはず。きっと反省し、どうすれば娘の怒りが解けるだろうかと悩むに違いない。

 深い後悔に苛まれ、救いを求める父に、そこでエミリアがこう言ってやるのである。


 ――ジュリエットをお城へ呼んで、謝ってちょうだい。そうしたら赦してあげる。


 我ながらいい考えだ、とエミリアは思った。

 そうしたらジュリエットとも改めて友人関係を結べるし、父も少しは他者、特に女性への態度を改めるかもしれない。

 エミリアとて、何も父の気持ちが理解できないわけではないのだ。

 これまでの経緯を考えれば、女性を警戒するのは無理からぬ話であるとは思う。しかし、最初から財産狙いと決めてかかるのはいかがなものか、という疑問も常々抱いていた。

 これは父の考えを変える、よい機会なのかもしれない。


「どう、ロージー? あなたもいい作戦だと思うでしょ?」


 ――まあ、お嬢さま。素晴らしい作戦です!


 ……賞賛の拍手と共にそんな返事を期待していたエミリアだったが、ロージーの反応は期待していたものとはまったく違った。

 彼女は口をぽかんと開けたままミルクティー色の目を瞠り、まじまじとエミリアを見つめるばかりだったのである。


「ちょっと、どうしたの? 子猫が棚から落ちたみたいな顔して」


 自信満々だっただけに、エミリアにはロージーの表情の意味がわからない。

 ちなみに『子猫が棚から落ちたような顔』は、思いがけない出来事にきょとんとしている様子を表す際に使われる、有名な慣用句だ。

 顔の前で手をパタパタ振ってみると、ようやく我に返ったようだ。何度か瞬きを繰り返し、ロージーが困ったように眉を下げる。


「お嬢さま、少々言いづらいのですが――」

「なぁに?」

「恐らく、その方法ではご主人さまへ打撃は与えられないかと……」

「ど、どうして!? もしわたしが社交界デビューした時に、教養も礼儀作法も身についていないって陰口を叩かれたら、お父さまだって恥を掻くはずよ!」


 心の底から自身の考えを名案だと信じ切っていたエミリアは、ムキになってロージーへ反論した。

 しかし年齢が六つも上なだけあって、ロージーのほうが少しだけ冷静に、物事を正確に捉える事ができていたようだ。


「陰口を叩かれれば確かにご主人さまは恥を掻かれますが、それ以上にお嬢さまのほうが大変恥ずかしい思いをなさるかと」

「あ」


 エミリアは小さく声を上げ、口元を押さえた。

 確かにロージーの言う通り、教養のない令嬢と呼ばれて一番恥を掻くのはエミリア本人である。父に打撃を与えようとばかり考えて、自分のはすっかり失念していた。 

 そんなエミリアに、ロージーは更に言葉を続ける。


「それにお嬢さまが社交界にデビューなさるのは、今から五年後です。ご主人さまを説得するために五年もかけるのは、現実的ではありません」

「そ、それもそうね……。でも、それならロージーは? もしあなたがわたしの立場だったら、どういう風に抗議するの?」


 自他共に認める口達者なエミリアだが、父が本気で説得しようとすれば、間違いなく言い負ける。壁を殴ったり、声を荒らげたりするわけではない。

 ただ淡々と、無表情で諭す。その静かな怒りが、エミリアにとってはこの世で一番恐ろしいのだ。

 口論で勝てないのなら、態度で怒りを表明するしかない。

 勉強を放棄する以外に、何かいい方法がないものだろうか。

 するとロージーが、思いも寄らぬ案を口にした。


「わたしなら、立てこもり作戦を実施します」

「立てこもり?」

「はい! お部屋に閉じこもったまま扉の鍵を閉めて、そのまま一歩も外へ出ないんです。お嬢さまがお勉強なさらないよりも、顔を見られないことのほうが、ご主人さまにとってはずっとずっとお辛いと思いますよ!」


 ロージーにしてみれば、それは単に『聞かれたから答えた』というだけの、ほんの軽い気持ちだったのだろう。

 しかし彼女がもし、もうほんの少しだけでも思慮深ければ。エミリアのような少女の前で、決してそのような迂闊な真似はしなかったに違いない。

 すなわち、行動力のあるタイプに無闇に助言を与えるような真似である。


「ありがとう、ロージー! 最高の作戦だわ」

「はい、どういたしまして! ――って、え? あの、お嬢さま!?」

「あなたのおかげで上手くいきそう!」

「わ、わたし、何もそんなつもりで……。お嬢さま!」


 エミリアの言葉をよく咀嚼もせず反射的に返事をしたロージーが、遅れて自身の失言に気付いたらしい。焦ったように打ち消そうとするが、もう遅い。


「そうと決まれば、早速、今から立てこもることにするわね。もちろん協力してくれるわよね?」

「で、ですがお嬢さま」

「協力してくれるわよね?」


 もう一度同じ言葉を繰り返せば、ロージーが追い詰められたように頷く。

 よし、とエミリアは小さく拳を握りしめた。

 ひとまずは立てこもっている期間、どのように食料を調達するか、どうやって暇つぶしするかなどを考えなければ。

 それはいかにも世間知らずの貴族令嬢らしい、無邪気で脳天気な思考回路であった。

 しかし幼いエミリアが自分でその事実に気付けるはずもない。この時のエミリアは、ただ父を「ぎゃふん」と言わせる計画に胸ときめかせ、立てこもりという非日常的な出来事にワクワクするばかりだった。


 ――エミリアが己の考えの甘さに気付いたのはその日の晩。

 怒りの表情の侍女長が、項垂れたロージーを連れて部屋へやってきた時のことだった。


 ***


「お嬢さま、これは一体どういうことなのですか」


 部屋に入ってくるなり、侍女長は眦を吊り上げたままエミリアを見据えた。

 よりにもよって一番面倒な人がやってきた、と内心で焦りながら、エミリアはよく確認もせず扉を開けた自分の迂闊さを呪った。


 立てこもり期間中、食事の用意や清掃などはロージーに任せることにし、他の人間は誰であろうと決して部屋に入れないつもりでいたのだ。

 けれど外から聞こえてきたロージーの声に、夕食を運んできてくれたのだと思い、つい警戒を怠ってしまったのである。


「お嬢さまがいつまで経っても夕食の席に現れないと、ご主人さまが心配しておられました。ロージーから聞きましたよ。お部屋に立てこもるなんて、どういうおつもりですか?」

「お、お父さまが悪いのよ。お父さまがわたしのお友達に失礼なことをするから……」


 厳しげな口調で問い詰められ、ついつい語尾が小さくなってしまう。

 母が嫁ぐ際、王都から共に連れてきたという三十がらみの侍女長を、エミリアは心から信頼している。しかしその厳格さだけは、少々苦手に感じていた。


「ミ、ミーナさま。お嬢さまはただ――」

「あなたには聞いていません」


 エミリアを助けるため果敢にも口を挟んだロージーだったが、とりつく島もなく窘められる。

 押し黙ったロージーをひと睨みし、侍女長――ミーナの目が、改めてエミリアへ向けられた。


「ロージーがお嬢さまに妙な入れ知恵をしたそうですわね。まったく、カーソンさんはメイドにどんな躾をしているのでしょう」 


 はぁ、と呆れたような溜息が落ちる。

 侍女の長であるミーナと、メイドを統率する立場のカーソンは、あまり仲がよくない。

 侍女という立場が使用人の中でも特殊なもので、他の使用人から淑女として扱われる存在であることも影響しているようだ。

 だから皆、ミーナのことを呼ぶ際は『ディエラ・ミーナミーナさま』と敬称を用いるのである。

 今、この城にいる侍女のほとんどは、ミーナと同じく降嫁の際に母が連れてきた者ばかりである。元々王宮で働いていたこともあり、独特の気位の高さによってメイドたちと反目し合っているのではないか……と、エミリアは睨んでいる。


 けれどまさか、自分が軽い気持ちで行ったことによって、より対立を煽るようなことになるとは思ってもみなかった。

 自分のせいでロージーやカーソンが悪く思われるなんて、とエミリアは慌てて否定する。


「ロ、ロージーもカーソンさんも悪くないわ! もともと、わたしがひとりで決めていたことなのよ。お父さまに行動で抗議して、反省してもらおうって」

「それで部屋に立てこもっている間、ロージーに身の回りの世話をさせるおつもりだったと? ロージーは給仕メイドです。お嬢さまのお世話に手を取られ、本来の仕事に支障が出るとはお考えにならなかったのですか?」

「あのぅ、ミーナさま……。わたしは別にそのくらい――」

「私はお嬢さまとお話しをしているのですよ」


 再びぴしゃりと窘められ、ロージーはあからさまにしゅんと肩を落としていた。

 それを見て、エミリアはようやく己の浅はかさを思い知る。自身の安易な行動が他人に迷惑をかけ、このような事態を招いたのだと、今更ながら気付かされた。

 ロージーとカーソンへの批判はともかく、エミリアに対する意見としては、ミーナは何ひとつ間違ったことを言っていない。


「……ごめんなさい、ミーナ。わたしが間違っていたわ。周りの人を巻き込むなんて、貴婦人として相応しくない行動だった」

「ええ、そうですわね」


 素直に謝ればミーナの目尻が僅かに下がり、口調も柔らかくなる。

 彼女は腰を落として視線を合わせると、そっとエミリアの両手を取り、握りしめた。


「お嬢さまのお母さま――リデルさまは、優しく思いやりのある素晴らしい方でした。私はお嬢さまにも、お母さまの名に恥じない立派な貴婦人になっていただきたいのですよ」

「わかっているわ。本当にごめんなさい……」


 母の名を出されると、己の未熟さをますます痛感し、目にじんわり涙が浮かんでしまう。

 するとミーナがエプロンからハンカチを取り出し、濡れた目元を押さえるように丁寧に拭ってくれた。


「お嬢さま。お嬢さまが本当はとても思いやり深い方だということは、私もよく存じております。元々お嬢さまがこのようなことをなさったのは、ご友人のためだったのでしょう?」

「ええ……。でも、わたしは自分のことばかりで……」

「人間はどんなに正しくあろうとしても、必ず間違える生き物です。一番大事なのは過ちを反省し、正そうとする心を持つこと。ロージーとカーソンさんを庇おうとしたお嬢さまには、きっとそう難しくはないはずですわ」


 そうでしょう、と問いかけるような視線に、エミリアはますます泣きそうになってしまう。

 涙を堪えるように唇を噛み、何度も頷けば、ミーナの顔からようやく険しさが消え去る。それはとても微かな変化であったが、エミリアには、ミーナがもうすっかり怒りを解いたことがわかっていた。


「――ロージー、あなたはもう行きなさい。今回はお嬢さまに免じて見逃しましょう」 


 エミリアが落ち着くのを待って、ミーナがロージーへ退室を促す。

 ロージーは少しのあいだ逡巡していたが、一介のメイドが侍女長の命令に背けるはずもなく、心配そうな表情のまま部屋を出て行った。

 扉が閉まるのを確認し、ミーナがエミリアの手を引いてソファへ座らせる。


「お嬢さま。三日だけでよろしければ、私ども侍女たちがご助力いたしますわ」

「え? 三日って、何が?」

「私たちはお嬢さまへお仕えする身です。できる限りお力になり、お嬢さまが立派な貴婦人となる助けになりたいと思っております。そして今回、お嬢さまがご友人のために働きかけたこと自体は間違っていない、と私は思っております」


 ミーナの言葉が信じられず、エミリアはしばし、ぽかんとしてしまう。恐らく鏡を見れば、猫が棚から落ちたような顔だ、と感じたことだろう。

 侍女たちの仕事がエミリアの世話をすることとはいえ、雇い主であり給金を出しているのは父である。

 そんな父に背くような真似をしてまで、ミーナが今回の件で味方してくれるとは思ってもみなかったのだ。

 しかし徐々に脳が状況を理解し始め、沸き上がる喜びと共にじわじわと口角が上がっていく。


「本当に!? 本当にいいの!?」


 嬉しさが頂点に達し、エミリアははしゃぎながらミーナに問いかけた。


「旦那さまのご心配やお嬢さまの今後を考え、さすがに三日以上お部屋へ立てこもることは看過できませんが……。それでもよろしければ」

「ありがとう、十分よ! それじゃ、エヴァンズ男爵夫人の授業は受けなくていい?」

「ええ、男爵夫人には私からお話をしておきますわ。三日程度の遅れならすぐに取り戻せるでしょう」

「お部屋の外へ出なくてもいい?」

「お食事もこちらで召し上がれるよう手配致します」

「セロリも食べなくていい?」

「それはだめです。セロリは胃によい成分が含まれており、塩分を排出する効果もある食材なのですよ」


 このまま勢いに乗って嫌いな食材を排除してもらおうと試みたのだが、残念ながらミーナのほうがうわてだった。

 むぅ、と唇を尖らせながら、他に何かないかとエミリアは考える。

 そしてもうひとつだけ、ミーナに頼みたいことを思いついた。


「あのね、ミーナ」

「なんでしょう」

「……お部屋に立てこもっている間、またお母さまのお話を聞かせてくれる……?」


 おずおずと、ねだってみる。

 主人リデルの死後もアッシェンに留まり、そのひとり娘の世話を続ける忠義者が、緑色の目を一瞬だけ見開く。そして普段の厳格さが信じられないほど穏やかに目を細め、微笑みながら頷いたのだった。

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