第29話
「お父さまのばか! ばか! わからずや!」
寝台に突っ伏し、枕に顔を埋めてじたばた暴れながら、エミリアはやり場のない父への怒りを悪口に変える。
「わたしはただ、ジュリエットと一緒に朝ご飯を食べたかっただけなのにっ! 石頭! 鉄面皮! けちんぼ!!」
「……お嬢さま、そうおっしゃらず。きっとご主人さまにも、何か深いお考えがあってのことなのですよ」
「深いお考えって何よ! 具合の悪いジュリエットを追い出すことなの!?」
心配して追いかけてきてくれた給仕メイドをキッと睨みつけ、エミリアは寝台から身を起こしつつ語気も荒く問いかける。
すると、まあまあと言わんばかりの苦笑いが返ってきた。『お嬢さま』の起こす癇癪には、すっかり慣れきっているといった表情だ。
「そのジュリエットさんと仰る方は、お具合が悪かったのでしょう? ご主人さまは、ジュリエットさんを早くご自宅へ帰して差し上げようと思ったのではないでしょうか。そうです、きっと思いやりからくる行動で――」
「ロージー……」
脳天気なメイドの言葉に、エミリアは目をすがめて嘆息した。
ロージーの、田舎出身らしいおおらかで柔和な性格はエミリアも大好きだ。侍女たちのように変に気取っていないし、この城の中でエミリアが気負わず話せる、数少ない人間のうちのひとりでもある。
しかし、彼女がもし本気でそんなことを思っているのだとしたら、少々お人好しが過ぎる。
「ロージーだって噂を知ってるでしょ? ジュリエットはお父さまを叩いたのよ。きっとお父さまが、何かとんでもなく失礼なことをしてしまったんだわ」
他人が聞いたら、実の父に対してなんと信用のない発言をするのかと驚くことだろう。普通、初対面の女性が家族を叩いたという噂を耳にすれば、まず真っ先に身内を心配するのが一般的な反応なのだから。
しかしエミリアは基本的に、対人能力という点において、父のことをまったく信用していなかった。
ジュリエットが身分や名前を偽っていたと聞き、正直驚きはした。だが、もしエミリアが父の立場であったら、どうしてそのようなことをしたのかとまず理由を聞くはずだ。
けれど父はジュリエットの言い分も聞かず、頭ごなしに批判したのだろう。
あの父のことだ。財産狙いだとか強欲な女だとか、相当な無礼な言葉をぶつけたに違いない。
――ジュリエットが嘘をついていたことを、わたし以外に話していないのは評価するべきなんだろうけど……。
それでも、エミリアに何の相談もなくジュリエットを追い出してしまったことは、到底赦しがたい横暴な行為だ。
またふつふつと怒りが湧いてきて、ぷっくり頬を膨らませると、ロージーが慌てて口を開く。
「そ、そうとは限りませんわ。もしかしたらジュリエットさんが、酔った勢いでご主人さまを叩いてしまったのかもしれませんし……。ほ、ほら、お酒を飲んだら乱暴になるって方は、結構多いそうですよ!」
そう言う彼女の目は、不自然に泳いでいた。
――やっぱりロージーも、わたしと同じ意見なんじゃない。
雇い主を庇おうという心意気は立派だが、わかりやすすぎる態度に少々呆れてしまう。
ロージーのような性格の人間は本来、メイドになるにはあまり向いていない。階下の者というのは極力『
いっぽうロージーはと言えば、動揺すればすぐ態度に出るし、迂闊な発言をすることもままある。メイド頭の叱責も頻繁に受けており、給仕メイドとして採用されたのはひとえに顔がいいから、などと仲間内で揶揄されるくらいだ。
給仕メイドの主な仕事が接客であるがゆえの話で、本当の採用理由は、ロージーの明るい性格が評価されたからだとエミリアは知っている。
しかし、こうした愚直なほどの素直さを見ていると、顔がどうこうという意見も、あながち間違っていないのではないかとさえ思えてくる。
「ロージーったら、本当に嘘が下手ね。別にいいのよ? ここにはわたししかいないんだし、わざわざお父さまを庇おうとしなくても」
「わ、わたしはそのようなつもりでは」
「お父さまはね、人付き合いが苦手――ううん、きっと他人に興味がないの。だから社交の場にも一切お顔を出さないし、お友達もいないのよ」
子供であるエミリアの目から見ても、父はいつも、どこか冷ややかに世の中を俯瞰しているように感じられる。
積極的に他人に関わろうとはしないし、自分の領域に踏み込まれることを極端に嫌う。
凍てつくような眼差しと、何者をも拒絶するような雰囲気から『死体のほうがまだ温かみがある』などと噂されるくらいだ。
かと言って、人間不信に多いとされる自己愛が強いタイプとは、まったく思えないのだが。
「そういえば、お父さまってお若い頃は〝氷の騎士〟って呼ばれていたのよね?」
「え、は、はい。わたしも詳しいことは存じ上げませんが、確か貴婦人たちが、ご主人さまの美しい目の色を賞賛して付けた愛称だとか」
「そう。それが今や〝氷漬けの心を持っている〟なんて理由で〝氷の伯爵〟よ」
『騎士』から『伯爵』に変わっただけでも、込められた意味はまったく違う。前者は褒め言葉だが、後者はむしろ蔑称だ。
父親がそんな風に呼ばれて、喜ぶ子供はそう多くはいないだろう。
「氷漬けの心ね……」
父が芯から冷徹な人間でないことは、娘のエミリアが一番よくわかっている。
怪我をしたと聞けば顔色を変えて駆けつけてくれるし、どうしても城を出なければならない際は、過保護なほど護衛を付けてくれる。
エミリアが高熱を出した際など、ひと晩中側にいて看病をしてくれたくらいだ。大半の貴族は、そういった事は使用人に任せきりだというのに。
だから、父がエミリアを愛しているという認識は、きっと間違っていない。
だけど。
――お父さまがいつもどこか遠くを見つめていて、その内いなくなってしまうような気がするのよね……。
それは父がエミリアのすぐ傍にいて、目を合わせて話している時でさえ感じること。
傍から見ればまったく気付かないほどの違和感を、エミリアはもっと幼い頃から、肌で敏感に覚えていた。
もしかしたら父は、人間不信だとか人間嫌いだというのではなく、この世のすべてをどうでもいいと思っているのではないだろうか。
――だってわたし、知っているもの。お母さまの肖像画を見つめている時、お父さまがどんなお顔をしているのか。何度も何度も見てきたわ。
どこか切なげで、苦しげで、それでも溢れるほどの愛情に満ちた、父の温かい眼差し。
なぜそんなに悲しそうな顔をするのか、理由を聞いたことは今まで一度もない。気になってはいたが、それを口にするのはいけないことだと、子供心に察していたからだ。
以前、どうして自分には母がいないのかと聞いた時、父は酷く狼狽し、何度も何度も謝っていた。
十二歳にもなると、漏れ聞こえてくる噂から、生前の母が父と不仲であったらしいことはなんとなく察せられた。
だからエミリアは、あれが自分への謝罪だったのか、あるいは母への謝罪だったのか、いまだに判断できないでいる。
けれど、亡き妻を見てあんな顔をする人の心が、氷漬けでなどあるはずがない。
父はきっと、冷徹に見える表情の奥に、激しい情熱を持った人なのだ。
――まあ、それはそれとして……。
「ねえ、ロージー。抗議の気持ちを伝えるのに一番効果的な方法は何かしら」
「抗議の気持ち、ですか? うーん、そうですねぇ」
ロージーが顎に手を当て、考え込む。そうしてしばらく沈黙した後、ぽんと両手を打ち鳴らした。
「わたしの出身地での話なのですが、牧場主の出す賃金に不満のある牧童たちが、しょっちゅう
「職場放棄?」
「簡単に言えば、雇い主へ不満を訴えるため、一時的に仕事を投げ出すことです。働き手が仕事をしてくれないと雇い主は困るでしょう? そうすると働き手を連れ戻すため、雇い主は嫌でも賃金を上げなければならなくなるんです」
なるほどそういうことか、とエミリアは納得する。
働き手も仕事をしなければ生活していけない以上、毎回その手段で上手くいくとは限らないだろう。だが今のエミリアにとっては、中々に有効な手段だと思えた。
「……決めたわ、ロージー」
「えっ? 何をですか?」
寝台から降りてすっくと立ち上がったエミリアは、ロージーと向かい合う。
我ながらいい案が浮かんだものだ、と嬉しくなり、口元が弧を描いた。
怪訝そうな顔をしているロージーに、エミリアはにっこり笑いかける。
そして、力強く拳を握りしめながら、宣言したのだった。
「わたしも職場放棄――ううん、お勉強放棄するの!」
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