第25話

 はずれ姫の噂は、オスカーも何度か耳にしたことがある。

 病弱で、いつも離宮に引きこもっている陰気な王女。人付き合いが苦手で、たまに社交の場に顔を出したかと思えば、優秀な兄王子や姉王女たちの足を引っ張るような失敗ばかりをする。

 エフィランテ王家の宝花と名高き姉たちと違い、酷く醜い顔をしており、それを隠すために常に俯いているとも。


 しかしそれが本当だとして、わざわざ今、口にすべき話題だろうか。 

 明らかに具合の悪そうな人間を前に、手を差し伸べるでも声をかけるでもなく、陰口を叩く。それが、彼らが誇る『貴族』としての正しい在り方だろうか。

 困っている人がいれば助ける。それは子供でも知っている常識だ。相手が王女であろうと貴族令嬢であろうと庶民の娘であろうと、関係ない。


「……あのままだとまずいんじゃないか?」

「侍女は何をやっているんだ。姿が見当たらないな」 


 オスカーと同じく会場の警備を任されていた他の騎士たちも、口ではそう言いながら、誰も動こうとはしなかった。

 堪らず、オスカーはその場を別の騎士に任せ、人波をかき分けながらリデル王女の許へ駆けつける。

 どけ、と声を荒らげたような記憶もあるが、必死だったので定かではない。誰もが驚いたような顔をしていたが、それもどうでもよかった。


「大丈夫ですか、王女殿下プリンシア!」


 蹲るリデル王女に、オスカーは手を差し出した。間近で見れば彼女の呼吸は荒く、長い髪の隙間から除く肌も、信じられないほど青ざめていた。

 可哀想に。早く休めるところに連れて行かなければ。なぜ皆、こんな苦しげな姿を見て陰口など叩けるのだろうと、不思議でならなかった。


 まさか、誰かがそんな風に声を掛けてくれるとは思ってもいなかったのだろう。王女は、おずおずと顔を上げる。

 涙に濡れた瑠璃色の目と視線が合った時、オスカーは彼女を「はずれ姫」と称した人間は、漏れなく目か頭がどうかしていると思った。


 濃い紫のドレスが真珠のように白い肌を引き立て、小さなダイヤモンドを鏤めたティアラが、銀の髪をより神秘的に煌めかせている。

 細い手も首筋もガラス細工のような儚さで、少しでも強く触れればたちまち壊れてしまいそうな印象だった。

 まるで月の化身だ。

 大きな丸い瞳といい、髪と同じ色をした長い睫毛といい、整った鼻梁といい、醜いところなどどこにも見当たらない。


 しかし、見とれている暇はなかった。

 美しい宝石のような瞳を不安に揺らす王女は、オスカーの登場によってますます周囲の注目を集めている。王女のほうも、オスカーの手を取ってもいいものかどうか迷っているようだ。

 とにかく、繊細な王女をこれ以上衆目に晒すわけにはいかない。


「私が離宮までお運びしましょう。――ご無礼をお許しください」


 オスカーは彼女の返事も待たず、手を覆っていた白い手袋を外し、落ちていた花束の残骸と共に、細い身体を抱き上げた。

 手袋を着けず淑女に触れるのは非常に失礼な行為であったが、王女が滑り落ちてしまうよりは無礼者と呼ばれたほうがいい。

 甘い花のような香りがふわりと鼻腔をつき、銀の髪が頬を優しくくすぐる。

 足が地面から離れ、王女は小さな悲鳴を上げつつオスカーの首にしがみついた。

 人々が目を丸くしているのを完全に無視し、オスカーはそのまま大広間を後にする。


「あ、あの……。どうか離して下さい……自分で歩けます……」


 外に出たところで、王女が小さく身じろぎをした。

 オスカーは横抱きにした彼女を見下ろし、青白い顔に冷や汗が浮かんでいるのを確認する。どこからどう見ても、自分の足で歩ける状態ではない。


「そのような顔色の王女殿下を歩かせるわけには参りません。私のような者に抱えられるのはご不快と存じますが、どうか離宮までご辛抱ください」

「いいえ、不快なんて……そうではないのです。あの……見苦しいでしょう? 顔も唇の色もとても悪いし、髪も乱れて……。それに、途中で戻すかもしれませんから」

「具合が悪いのですから、顔色が悪いのは当然です。それに見苦しくもありませんし、戻しても構いません。どうぞお気になさらないでください」


 嘔吐しそうだというのは、顔色を見ていればわかる。それを承知の上で抱き上げたのだ。心配こそすれ、気持ち悪いなんて思うはずもない。

 しかし王女は泣きそうになりながら目を伏せ、小さく首を横に振ったのだ。


「ご迷惑をおかけしたくないのです……。汚いから。あなただって、服が汚れたらきっと後悔するでしょう……?」


 今にも消え入りそうな、震える声だった。

 思いもよらぬ言葉に驚き、遅れて怒りがやってくる。

 王女への怒りではない。彼女がそんな発言をするに至った要因に対しての怒りだ。

 よりにもよって具合が悪いときに、自身の心配ではなく他人の服が汚れる心配をするなど――。一体これまでどれだけの人間が、本人にはどうにもできない理由で王女を貶めてきたのだろうか。

 そう思うだけで、彼女に劣等感を植え付けた人間を、片っ端から殴り飛ばしたい気持ちになった。


「そんな――。そんな下らないことは、気にしません」


 他者を慰めるための言葉は、いくらでも存在するだろう。

 しかしオスカーは朴訥で、こんな時、相手にどんな風に声をかければいいのかもわからなかった。ましてやリデル王女は、オスカーがこれまで目にしてきた誰より可憐で、清らかな美しさを持つ少女だ。

 使用人を除き、年頃の女性と接した経験の少ないオスカーが緊張するのも無理はない。騎士になりたての少年にとっては、美しい少女と最低限の会話を交わすことさえ精一杯だったのだ。


 とにかくオスカーは王女の、下ろせだの迷惑をかけたくないだのという一切の訴えを退け、彼女を離宮へ送り届けた。

 王女の侍女は初め、未婚の主人が見知らぬ男の腕に抱かれて戻って来たことを不審に思っていたようだ。だが王女の口から事情を聞き、オスカーに対する非礼を謝罪した上で、何度も礼を述べた。


「主人を助けて下さり、ありがとうございます。リデルさまは人混みが苦手でいらっしゃるのですが、さすがに姉君をお祝いするための場に顔を出さないわけにもいかず……」

「側に侍女がついていたはずなのですが、人混みの中ではぐれたのでしょう。ご迷惑をお掛けし、誠に申し訳なく存じます」

ステアが一緒にお持ち下さった花束は、リデルさまがこの日のため、手ずから育てて作ったものですの。イヴリン王女殿下は、リデルさまと同じで白い薔薇の花を一番好まれますから……」


 ――どこが陰気で醜い王女だ。


 オスカーは舌打ちをしたくなった。

 彼女は姉を祝うため、苦手な社交の場に顔を出すような勇気ある人だ。

 姉の最も好きな花を自分の手で大事に育てるような、思いやりのある人だ。

 そして自身が苦しんでいても、他者への思いやりを決して忘れない、心根の優しい人だ。


 それに比べて、あの場にいた貴族たちはどうだろう。どんなに着飾り、高価な宝石を身に着け、美しい蝶に擬態していても、その中身は性根の腐った害虫だ。


 王女を誹り、中傷してきた貴族たちへの怒りを募らせながら、オスカーは離宮を辞した。

 王女は既に寝台で休んでいたが、侍女たちから代わる代わる名を聞かれた。是非、後日改めて礼をしたいと。

 だが、そんなことは気にしないでほしいと伝えた。

 名乗るほどのことをしたつもりはなかったし、恩を売る気もなかった。ただ、王女の体調が早く回復するようにと願うだけだ。

 くれぐれも王女の身体を労るようにとだけ言い残し、早々に立ち去った。


 王女の存在が頭から離れなくなったのは、その時からだ。

 何をしていても、誰といても、心の中では常に王女のことを考えている。

 潤んだ瑠璃色の目、頼りなげに首裏に回された手の温度、肌の柔らかさ。頬をくすぐる銀の髪。

 オスカーが離宮を去る前、苦しそうにしながらも浮かべた微笑み。

 甘い、花の香り。


 王女が忘れられない。

 もう一度、彼女と言葉を交わしたい。

 あの時、どうして名乗らなかったのだろう。名乗ってさえいれば、今後交流する上でのきっかけとなったかもしれないのに。

 自分で名乗らないと決めたにもかかわらず、身勝手にもそんな後悔を抱いた。

 いくら鈍いオスカーでも、その感情の正体を知るのに、大して時間はかからなかった。


 ――恋。

 生まれて初めて抱いた特別な気持ちが、甘く苦く胸を焦がす。

 オスカーはひと目見た瞬間から、心を奪われていたのだ。

 俗世の穢れから離れた場所で守られ、慈しみ育てられてきた、清らかな月の妖精に。

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