第23話

 オスカーは先代アッシェン伯爵と、貧しい平民女性との間に産まれた庶子だった。

 父は大層好色な人で、政略結婚によって娶った正妻の他、大勢の愛人がいたという。その他、愛人とも呼べない、たった一度や二度だけ手つきになったような女たちも。

 母もそんな女の内のひとりだった。

 若くして夫を喪った彼女は、まだ一歳の娘を自身の両親に預け、洗濯婦として城で働くことを決めた。そこで父の目に留まり、手つきとなったのだ。


 母は近所でも評判の、とても美しい人だったという。

 上品な栗色の髪に、知性的な緑色の瞳。肌は農民の娘らしく健康的な小麦色に焼け、笑顔は太陽のごとき明るさだった。

 玉の輿も夢ではない、と若い頃から皆が口を揃えて言うほどだった。実際、偶然母を見かけた裕福な商家の息子から熱烈な求婚を受けたことさえあるらしい。

 しかし母は、貧しくとも愛する人との生活を選んだ。そして愛する人が遺した娘を守るため、危険を承知で城へ赴いたのだ。


 当時、領主であった父の傍若無人ぶりは領地の隅々にまで広く知れ渡っていた。

 下女として働きに出た娘が、傷物になって戻って来たなんて話は珍しくもなんともなかった。

 まともな親たちは年頃の娘を隠すように育て、決して城の関係者には近づかせなかった。少しでも美しい娘を見れば、城からの回し者が半ば強引に城へ連れ去ってしまうからだ。


 色狂いの人さらい。下半身でものを考える女好き伯爵。

 それが、父に対する領民たちの評価だった。


 母も、初めはとても迷ったのだそうだ。

 彼女が夫の存命中、家計を助けるため城へ働きに出なかったのは、ひとえにその美しさ故だ。そして赤子を産んでからも、その美貌にはまったく翳るところがなかった。

 それでも、老いた両親と共に小さな畑を耕しながら子を育てるより、城の洗濯婦をするほうが格段に稼ぎがいい。


 できるだけ目立たぬよう、いつもひっそりと同僚たちの影に隠れながら城での生活を開始した母だったが、目敏い父の目に留まるまでそう時間はかからなかったらしい。

 哀れな寡婦は、傲慢な中年貴族の無聊を慰めるため、強引に慰み者にされた。

 亡き夫に操を立てているのだと訴えたところで、農民を虫けらのように思っている男の耳には届くはずもなかった。


 使用人など使い捨ての玩具に過ぎないとばかりに、普段は一度や二度寝所へ引きずり込んだらすぐ飽きる父も、母の健康的な美貌には惹かれるものがあったらしい。

 他の愛人たちと同じように広い部屋を与え、母を愛人として囲ったのだ。

 毎日毎日、豪華なドレスやアクセサリーで取っ替え引っ替え着飾らせられ、閨へ侍ることを強要される日々。正妻や貴族出身の愛人から、嫌がらせを受けたことも一度や二度ではなかったそうだ。

 そんな生活が半年も続いた頃、母は身ごもった。


 父には当時、子がひとりもいなかった。

 正妻だけでなく、大勢の愛人や手つきとなった女たちがいたのに、なんと皮肉な話だろう。子を孕むと同時に、母は単なる卑賤な農民女ではなく、跡継ぎを生むかもしれない大事な器となったのだ。

 しかし、農民女が初子を産んだというのでは体裁が悪い。

 父は産まれてくる子を正妻の産んだ子と偽ることにし、情報が外へ漏れぬよう、母を数名の使用人たちと共に離れの塔へ閉じ込めた。 


 父の正妻は、母の腹部がせり出していくのに合わせ、腹に詰め物をして周囲に妊婦であると思わせていたそうだ。悪阻が酷いと部屋で休んでいるふりをし、口の硬い侍女に身の回りの世話をさせ、悠々自適な生活を送っていたらしい。

 その間、彼女が母を見舞うことは一度もなかったと、後に当時のことをよく知る医師が語ってくれた。


 やがて産み月を迎え、ようやく生まれた健康な男児を前に、父は大喜びだったそうだ。

 母や、生まれてくる子への愛情ではない。父はただ、自身を胤無しと罵った親族を見返したかっただけ。自身の弟や従兄弟たちに家督を奪われるのを阻止できて、安堵しただけなのだ。


 オスカーを産んだ後、母は何度も暇乞いをしたそうだ。

 実家へ帰してほしい。両親に会いたい。娘が自分を待っているのだと。

 根が素直な母は、跡継ぎを産めたならなんでも言うことを聞いてやる、と以前父が口にした言葉を信じていたのだ。しかし父は、平気で約束を破った。

 それどころか、母を脅したのだ。ここを出て行くのなら、実家の両親や娘の安全は保証できないと。そう言って、母にはこれからも息子の乳母として城で暮らし続けることを強いた。

 それだけでなく、愛人としての仕事も続けるようにと。そうすれば実家へ援助してやってもいいと、金銭をちらつかせながら。 


 不幸なことに、父は母を逃がす気など最初からなかった。

 ひとつには、オスカーが本当は正妻の子ではないという秘密を守るため。そしてもうひとつは、母のことを心底気に入っていたからだ。

 しかしそれは決して愛ではない。思い通りになる美しい人形を手放したくない、子供のような独占欲。

 母は両親のため、そして誰より愛する娘のため、意に染まぬ生活を続けなければならなくなった。


 母に関するオスカーの最初の記憶は、恐らく三、四歳の頃だ。


 ――ナーシー、ナーシー。あたまがいたい。からだがあついよう……。おかあさまはどこ?

 ――可愛い坊ちゃま。お母さまはお忙しいのですよ。でも、坊ちゃまのことを心配しておられますからね。

 ――おかあさまはきてくれないの?

 ――ええ……。でも大丈夫。ナーシーがお側に付いておりますからね。ほら、こうして冷たい氷を当てていると少しよくなってきたでしょう?


 熱を出して寝込んでいるオスカーを、一晩中つきっきりで看病してくれた母。

 当時、オスカーは父の正妻を「おかあさま」と呼び、産みの母のことは単なる乳母で、子守ナーシーだと思い込んでいた。父と正妻が徹底的にそうなるよう仕向けたのだ。


 望まない子だっただろうに、母――〝ナーシー〟はオスカーに対してとても優しかった。

 実母と名乗ることは決してなかったが、彼女の慈しむような眼差しや、寝しなに子守歌を歌ってくれる優しい声が、オスカーは大好きだった。

 ナーシーが本当の母であれば、と願ったことも少なくはない。


 真実を知ったのは、ナーシーが亡くなり、父の正妻も亡くなったずっと後のこと。オスカーが、十六歳の誕生日を迎えた直後のことだった。

 その頃には父も年を取り、体力の衰えと共に寝込む回数が増えていた。相変わらず愛人たちを側に侍らせてはいたものの、どうやら男としての機能が上手く働かないらしく、女たちはいつも不満げな顔をしていた。

 オスカーが産まれた時、父は既に五十歳を超えていたのだ。年齢を考えれば無理もない話である。


 その当時、オスカーは領主代理として父の代わりに職務に当たり、荘園管理や領内の視察を行っていた。父の領主としての能力は高いとは言い難く、まずは傾いた財政を立て直すところから始まった。

 幸いにして、オスカーはまだ十六歳という若さであるにもかかわらず、次期領主として十分過ぎるほどの手腕を身に着けていた。厳しい家庭教師の下で勉学や稽古に励み、血の滲むような努力を積み重ねてきた結果だ。


 しかし、どんなに如才なく大人びた若者とはいえ、まだオスカーは社交界デビュー前の少年なのだ。

 重責に疲れ、皆に黙ってふらりと近隣の町や村へ赴くことも多かった。

 そうして息抜きに訪れたとある長閑な農村で、昔ナーシーが歌ってくれていた子守歌とまったく同じ旋律を、偶然耳にした。

 懐かしさに足を止め、歌声に耳を傾けたオスカーだったが、ふと違和感に気付く。

 外で洗濯物を干しながら子守歌を歌う若い女の声が、あまりにもナーシーのものと似ていたからだ。


 ナーシーは五年前に死んだ。生きているはずがない。

 そう頭でわかっていても、歌声の主を確認せずにはいられなかった。矢も楯もたまらず風にはためく敷布を勢い良く押しのけ、オスカーはその向こうに佇む少女の姿を確認した。

 敷布の波間から突如現れたオスカーの姿に、彼女は酷く驚いていた。それこそ、思わず悲鳴を上げるほどに。

 しかし、オスカーも同じくらい驚いていた。

 少女の顔が、ナーシーと瓜二つだったからだ。


 栗色の髪も、緑の瞳も、他人のそら似では済ませられないほどまったく同じ。

 年齢以外に違う点を上げるとするなら、目の前にいる少女のほうがナーシーより少し痩せているくらいのものだ。

 オスカーは怪しいものではないと自身の身分を明かし、彼女から話を聞くことにした。


 少女には両親がおらず、祖父母に育てられたそうだ。

 去年、一昨年と祖父母が相次いで亡くなり、今はこの小さな家でひとり暮らしをしているらしい。

 そんな彼女は幼い頃、なぜ自分の母が帰ってこないのか、いつも疑問に思っていたそうだ。


 ――ねえ、母さんはどうしてうちにいないの?

 ――お前の母さんは、お城で働いているからだよ。

 ――じゃあ、いつ帰ってくるの? 来月? 再来月?

 ――お前がいい子にしていたら、きっとね。


 幾度となくそんな会話が繰り返されたものの、母が帰ってきた試しは一度もない。

 城で働いているという友人の母親や父親は、きちんと休みの日には帰ってきているのに。


 ――母さんが帰ってこられないなら、あたしがお城まで会いに行きたい!


 少女は一度だけ、そんな願い事をしたそうだ。

 けれど祖父母は困ったように顔を見合わせ、申し訳なさそうに謝るばかり。祖母など、涙まで流していたそうだ。

 触れてはいけない話題なのだと幼心に察し、少女はそれ以降、母親の話題には触れないようにした。

 しかし祖父が亡くなる際に発した恨み言によって、彼女は自身の母がどんな目に遭ったのかを知ることとなる。

 洗濯婦として城へ働きに出て、領主によって強引に愛人とされたことを。


 母を恋しがる少女に、祖母は歌を教えてくれたそうだ。

 祖母の、そのまた祖母の、更にずっと前の誰かご先祖さまから受け継がれた歌だと言って。


 ――まだわたしが赤ちゃんの時、母が子守唄として歌ってくれてたんだって、祖母が言っていたわ。


 そう語る少女が、ナーシーの娘であることは間違いなかった。

 ナーシーは離れて暮らす娘と両親に、いつも手紙を送っていたそうだ。


 ――今年こそ帰れると思います。

 ――来年の春には帰ってもいいと言われました。父さん、母さんには苦労をかけてごめんなさい。

 ――娘はどんなに大きくなったでしょうか。早く会って、抱きしめたいです。


 大事に束ねられ、保管された手紙を見て、オスカーは怒りに打ち震えた。


 父とナーシーがただならぬ仲であったことは、薄々勘づいていた。

 初めて察した時には父を汚らわしいと思う以上に、ナーシーへの落胆の気持ちが大きかった。

 幼かったオスカーは、彼女の優しさも、親切も、愛情も、すべて父の関心を得るためのまがい物だったと思ったのだ。

 もちろん彼女を慕う気持ちが消えてしまったわけではないが、反抗期には、随分ナーシーに迷惑をかけてしまった。

 あれは恐らく、ナーシーの愛情を独り占めできないことに対する憤りのような、未熟な子供にありがちな身勝手さの現れだったのだ。

 そして、優しい彼女になら甘えても大丈夫だという驕りが、オスカーにはあった。


 だが、それは大きな間違いだった。 

 ナーシーは父の愛人になどなりたくなかった。早く家族の許へ戻りたかったのだ。

 そんな切実な願いを踏みにじり、父がナーシーを不幸な目に遭わせたことが赦せなかった。 


 城へ戻ったオスカーは、父が伏せていることなど気にもかけず、彼の私室へ押し入った。

 父は相変わらず、裸同然の愛人たちを侍らせている。〝若君〟の登場に色目を使う愛人たちを無視し、オスカーは厳しい口調でナーシーの件を問いただした。

 父はぽかんと口を開け、目を見開き、やがてくっくっと笑い出す。


 ――いきなりどうしたのかと思えば……。それが、何か問題なのかね? 私は貧しい農民の女に目をかけ、贅沢をさせてやったのだぞ。感謝してほしいくらいだ。


 醜悪な笑みには、後悔も、謝罪の気持ちも何もない。樹に生った林檎をもいで何が悪い、とでも言いたげな顔だった。

 瞬間的に頭に血が上り、オスカーは父の胸ぐらを乱暴に掴んでいた。

 愛人たちが、悲鳴を上げながら逃げていく。

 首が絞まり、激しく咳き込んでいるにもかかわらず、父は相変わらず愉しそうに笑っていた。

 何がそんなにおかしいのかと益々怒りが湧き上がり、もう少しで目の前の顔を殴りそうになる。そんなオスカーを止めたのは、父が歌うように告げた一言だ。


 ――めでたいな。


 意味がわからず、胸ぐらを掴む力が一瞬弱まる。

 すると父は目を細め、愉快な道化師でも見るような表情でオスカーに告げた。


 ――まだ気付かないのか、オスカー。……あれはお前の生母だ。


 オスカーの手が力を失い、父から完全に離れる。

 父の言葉を理解することを、脳が拒んだ。ナーシーが自分の……何だと言っているのか。同じ言語を喋っているはずなのに、まるで異国の言葉を耳にしたような錯覚に陥る。


 ――息子よ。どうしてお前が『母』と呼んでいた女が、あれほどお前に冷たかったか考えたことはないかね? なぜ、ただの子守女を領主夫人という立場の母親があれほど嫌うのかも? 


 確かに、母はオスカーに冷たかった。それどころか、憎まれていると感じることすらあった。

 初めは、勘違いだろうと思おうとした。もっと頑張れば、母はきっと自分を愛してくれると。だが、彼女の誕生日に花束を贈った際、汚らわしい手で触れるなとはたき落とされたことが決定打となった。

 その後も母はことあるごとにオスカーを穢れた血だの卑しい子だと呼び、あからさまに蔑み続けた。

 当時はその言葉の意味すらわからなかったが、今思えばどうして気づけなかったのだろう。

 青い血に誇りを持つ貴族たちが、それ以外の人間のことを穢れていると考えるのはごく有名な話だったというのに。


 ――お前は母親に愛されたいという希望を捨て切れなかったようだがな。まあ、自分が子を産めないことだけでも随分と矜持が傷つけられたのに、それどころか下賎の女が跡継ぎを産んだのだ。気位の高い妻には耐えられなかったのだろう。


 何も言い返せず硬直する息子を見て、父は至極満足そうだった。自分の言葉が相手に衝撃を与えたことで優越感に浸っているのだろう。そういう男だ。


 ――ああ、オスカー。我が優秀にして愚鈍なる息子よ。お前は本当にめでたいな。私が母子を引き裂いた? いいや、違う。あの女が城へ留まらざるを得なくなったのは、お前のせいだ。お前さえ産まれなければ、あの女も家族の許へ帰れていただろうに。お前の存在があの女と、その家族たちを不幸にしてしまったのだ。


 全身の血が足下へ落ちていき、頭がすっと冷えるような感覚に陥った。

 父の言葉は完全な責任転嫁であり、ただ息子を傷つけ痛めつけるためだけに発されたものであることは間違いなかった。客観的な視点で冷静に聞けば、明らかに論理破綻していることがわかる。

 彼は実の息子ですら、利用価値の高い道具としてしか見ていなかったのだ。


 ――何だその顔は。この父のおかげで、お前は単なる劣り腹の私生児から、この広大な領地を継ぐ伯爵家の嫡男となれたのだぞ。感謝すべきだ。


 まだ年若いオスカーの心に深い傷を残すのに、それは十分な暴言であった。

 自分が今までアッシェン伯の後継として当然のように享受していた恩恵は、本来は決して得られなかったもの。

 オスカーは紛いものの嫡男で、望まれて生まれてきたわけではなかった。

 父の罪深き愚行の産物。母の犠牲の証。


 何が、ナーシーが本当の母であればよかっただ。

 オスカーの人生は、彼女の犠牲の上に成り立っていたというのに。

 母の苦労も知らず、のうのうと彼女の優しさに甘え続けていた自分の傲慢さに反吐が出る。

 自分の存在が、母から家族を奪ったのだ。


 三日月型に細められた父の目。オスカーと同じ冬色の瞳が、何も知らず、気づこうともしなかった息子を哀れみ、蔑んでいる。

 恐ろしいほど自分にそっくりな父の顔から、オスカーは視線を逸らした。震える足を叱咤し、その場から逃げ出した。


 だが、どこまで逃げても、背に突き刺さる父の高笑いや、母と思っていた女の口からかつて幾度も放たれた侮蔑の言葉は消えてくれない。

 それは、その後も長いこと強い呪縛としてオスカーを苦しめ続けることとなった。

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