二章 過ぎし日の幻影

第22話

 声が響く。

 怒り、詰り、絶望し、責め立てる人々の声が。


 ――全部旦那さまのせいです! 旦那さまが奥さまを殺したんだわ!

 ――どうしてリルを守れなかった!? 私はお前を一生赦さない!

 ――オスカー。あなたは間違えたの。

 ――そうしてそなたの望むような罰を与えたとして……。それで娘が生き返るのかね。

 ――お父さま。どうしてわたしにはお母さまがいないの?


 一歩先すら見渡せないほど真っ暗な闇の中、声は幾度も幾度も木霊し、オスカーの身体に蔦のように絡みつく。

 逃れようともがけばもがくほど、底なし沼に足を踏み入れたかのようにずぶずぶと身体が沈んでいく。

 首を絞められるような圧迫感と共に呼吸が苦しくなり、オスカーは必死で手を伸ばした。しかし、その手の先にあるのは、ただの無。


 お前はその手は何も掴むことができないのだと、ざわめく闇が囁いた。


 ――彼女が死んだのはお前のせいだ。

 ――お前さえいなければ彼女は苦しむことなどなかったのに。

 ――その手は、誰かを守ることなど決してできないのだ。

 ――赦さない、赦さない、赦さない……。


 呪詛のように延々と繰り返される言葉が、毒のように身体に染み込んでいく。

 憎悪が内側からオスカーを苛み、蝕んでいく。

  

 ――ねえ、旦那さま。


 不意に遠くで、懐かしい声が響いた。

 花を揺らす風のように柔らかく、雨上がりの森のように静謐で、ひとひらの雪のように儚げで可憐な、美しい――声。

 苦しかった呼吸が、一瞬楽になる。

 声が、聞きたい。もう一度、今度はもっと近くで。

 身体から力を抜けば、いつの間にか身体の落下は止まっていた。

 暗闇の中、オスカーは耳を澄ませる。声の代わりに、ぽつん、と何か温かい雫が落ちてきた。


 頬が、濡れている。指先で恐る恐る、その場所に触れた。

 ぬるりとした感触。手を目の前に持ってきて――総毛立った。指先が、真っ赤に染まっている。暗闇の中でもわかるほど、はっきりと。 


 不意に、後ろから誰かが近づいてきた。

 ひたひたと、濡れたような小さな足音を立てながら。やがてその誰かは、オスカーのすぐ側で止まる。


 ――ねえ、旦那さま。


 再び、あの声が響く。

 しかし、振り向けない。振り向くのが怖かった。

 硬直するオスカーの耳を、頬を、凍えるような冷気が撫でた。そして。


 なぜ

 わたしを

 殺したのですか?


 頭の中に切々と響くその声が、心臓を一息に貫いた気がした。



「――――ッ!!」


 掛布を撥ねのけ、オスカーは弾かれたように飛び起きた。

 全身の肌は粟立っているというのに、額にも背にもびっしりと冷や汗を掻いている。眼帯を着けていない左目の奥が、ズクズク痛んだ。

 激しい動悸に呼吸は自然と荒くなり、オスカーは片目を大きく見開いたまま周囲を見回す。

 カーテンの隙間から微かに朝日が差し込む、薄暗い室内。 

 部屋の隅々、物陰まで見ても、人の気配はなかった。

 誰もいるはずがない。ここは城主の――オスカーのためだけの寝室なのだから。

 飾り気のない衣装棚と小さなテーブルに椅子、どっしりとした飴色の柱時計が置かれた部屋には、針が時を刻む規則的な音が無機質に響くだけ。ただ、それだけだ。


 深呼吸を繰り返し、オスカーは乱れた息を整える。そうして目元を手で覆い、深く長い溜息をついた。


 ――また、あの夢だ。


 皆が口々にオスカーを責め立て、そして最後は必ず、耳元で彼女、、が囁く。

 どうして自分を殺したのか、と。


 妻を亡くしてから二年間は、毎日のように同じ夢を見続けてきた。

 その後エミリアが徐々に言葉を覚えて喋るようになってからは、慌ただしい日常に押し流されるように、夢を見る頻度も段々と減っていった。そうして最近、すっかり見なくなったと思っていたのだが。


「……随分と久しぶりだったな」


 顔から手を離し、オスカーは寝台から立ち上がる。そして寝る前に棚に置いた、金色のロケットペンダントを手に取った。

 蓋を開くと、中には一幅の肖像画が収められている。

 寝間着を着て、朝焼けの光に包まれ、産んだばかりの我が子を抱く亡き妻の姿。鉛筆で描かれたそれは出産の際、妻の側についてずっと励ましていた乳母が翌朝、その目で実際に見た光景を描いたものだ。

 走り書きとは言え絵心のあった乳母の鉛筆画は繊細で、不思議な柔らかさと温かみがあった。

 オスカーはそれを、乳母に頼んでロケットに入るサイズに新しく描きなおしてもらい、こうして肌身離さず持ち歩いている。


「貴女は俺に、忘れるなと言いに来たのだろう。もっと苦しめと。……当然だ。それだけのことを俺は、した」


 寝台から起き上がり、オスカーは肖像画の中の物言わぬ妻へ話しかけた。

 娘へ向けられた優しく幸せそうな眼差しは、罪に塗れたオスカーにとってただただ眩い。

 オスカーの記憶の中では、彼女はいつも俯いていた。宝石のような瑠璃色の目がオスカーを見る時、いつもその瞳には絶望と恐怖が宿っていた。

 もし、また彼女と会えたとしたら、きっとその目はオスカーへの憎悪と侮蔑に満ちていることだろう。

 それも全て自身の招いた結果だと、わかっている。


 先ほどまでペンダントが置かれていた場所のすぐ隣には、鞣し革の鞘に収められた短剣が置かれていた。柄の部分に美しい装飾が施されており、男の手には少し細すぎるそれに、微かに戦慄く唇へ押し当てながら目を閉じる。

 まるで、祈りを捧げる罪人のごとき姿だった。だが、この罪が赦される日は決して訪れない。


「忘れてなどいない。決して忘れはしない。……忘れるものか」


 ひんやりとした柄の冷たさを感じながら、何度も同じ言葉を繰り返す。それは奇しくも、先ほど夢で耳にした闇の囁きによく似ていた。

 やがて目を開け、短剣から唇を離したオスカーは、光を失って久しい左目をそっと押さえる。

 壁掛け鏡に映る傷痕は醜く抉れ、皮膚が盛り上がっていた。誰もが目を背けたくなるほどの醜い傷痕。

 愚者に相応しい、咎人の証。

 今更悔いても意味がないことはわかっている。このような傷で、己の罪を贖えるとも思っていない。喪った者は、二度と帰ってこないのだ。


「リデル……」


 そう。オスカーが殺した、妻のように   

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