第21話

「君とアダムが遅れて到着しなければ、あるいは私もわざわざ君たちに目を留めることはなかったかもしれない。だがそれも僅かな時間の差だ。遅かれ早かれ、私は違和感のある招待客に必ず気付いていただろう」

「あ……」

「君自身は、貴族の招待されていない夜会にあって、自分の所作がどれほど目立っているかという自覚がまったくないようだが――。地味なアクセサリーを身に着け、安い仕立てのドレスを纏っていても、身体に馴染んだ気品というものは隠せないものだ」


 初めから、気付いていたのか。

 そうして自室の窓から、ずっとジュリエットを……庶民のふりをした怪しい女を、監視していたというのか。

 愕然とするジュリエットを追い詰めるように、オスカーは尚も言葉を続けた。


「自分で言うのもなんだが、私は人を見る目はあるほうだと自負している。招待客や使用人たちの目は誤魔化せても、私の目は誤魔化せない。目的はなんだ?」

「も、目的?」

「君は身分を偽ってまでこの夜会に参加し、嘘泣きによってエミリアの気を引いた。そうして狡猾にも娘の優しさを利用し、この部屋へ足を踏み入れた。――目的がないとは言わせない」


 ジュリエットは瞬きも忘れ、オスカーに気圧されていた。

 たった二歳しか違わなかった前世ですら、リデルはいつも彼の前で縮こまっていた。そうして三十一歳になった今、彼の威圧感は十二年前と比べても凄まじいものだった。


「目論見が発覚して声も出ないか? 生憎だが、今までにも何度かこういった経験があって、それなりに警戒しているんだ。君と同じように娘を使って私に近づき、後妻の座を射止めようとする愚かな貴族令嬢は少なくない。酷い時は、使用人に金を握らせてまで私の寝室に忍び込もうとした者もいた。既成事実でも作ろうとしたのだろう」


 その使用人はもちろん解雇したが、とオスカーが吐き捨てる。

 彼が今までどれほど、そういった女たちに迷惑を掛けられてきたのか分かる、嫌悪に満ちた表情だった。


 誤解だ、とジュリエットは言いたかった。けれど同時に、自分のこれまでの行動を振り返れば確かにそう思われても仕方がない、という思いもあった。

 すぐさま反論し、身分を偽ったことを含めて彼に説明するべきだという考えが頭を過ぎる。反論しなければ。オスカーの発言を認めたも同然だからだ。

 しかしこの時、ジュリエットは自身がリデルに逆戻りしたような錯覚に陥っていた。

 イーサンとの不義を疑われたあの日と同じく、口が自分のものではなくなってしまったかのように、自由に動かなくなってしまっていたのだ。


「アッシェン伯夫人の座と、我が家の財に目が眩んだのだろうが、君のしたことは犯罪だ。即刻お帰り願おう」

「ち、ちが……わたし……」


 何からどう否定していいか、頭の中がぐちゃぐちゃになってわからない。

 それでもどうにか唇をこじあけ目に涙を浮かべながら説明しようとしたジュリエットに対し、オスカーはくっと喉の奥で嗤う。


「この期に及んで泣き落としか。その根性だけは見上げたものだ。だが、私は君がどこの貴族令嬢であろうと知る気はないし、興味もない。決死の覚悟でやってきたのだろうが、騎士団に突き出して尋問しないだけでもありがたいと思ってほしいくらいだ」


 ふるふるとかぶりを振る。振動で目の縁に溜まっていた涙が零れ、床にぽつんと落ちた。

 泣くものか、と奥歯を噛みしめ唇を引き結ぶのに精一杯で、ジュリエットはまたしても声を失ってしまう。

 しかし、オスカーが次に発した言葉を聞いた瞬間。ジュリエットは自身を締め付けていた『恐怖』という名の箍が、軋む音を聞いた気がした。


「おおかた強突ごうつりの両親にけしかけられたか、あるいは没落した家の困窮を救うための人身御供にされたといったところだろう。が、選んだ相手が悪かったな」

「――わたしの……」


 ジュリエットの口から、普段より一段も二段も低い、腹の底から響くような声が漏れる。

 しかしオスカーはそれに気付かないまま、しゃべり続けた。


「特別に帰りの馬車は出してやる。いつまでもここにいられては迷惑だが、若い娘をこんな時間にただ放り出すわけにはいかないからな。――さあ、わかったならその化粧の崩れた見苦しい顔を洗い、帰るんだ。そして両親へ伝えるがいい。私は浅ましいハイエナ共に施しを与えるつもりはない、と」


 彼がそう言い放つと同時に、目の前が真っ赤に染まった気がした。


「わたしの両親を侮辱しないで!」


 ぱぁんっ!

 大きな破裂音が響いた。ジュリエットは初め、それが先ほどから心の中で軋み続けていた、見えない箍の弾け飛ぶ音だと思っていた。

 しかし、遅れて右掌に広がった熱と痛み。そして目の前で見る間に赤く染まっていくオスカーの頬を見て、その考えが間違いであったことに気付く。


 ジュリエットは、オスカーの頬を打擲ちょうちゃくしていた。

 それも、頬に跡が残るほど強く。

 頭に血が上り、深く考える間もなく、反射的にってしまっていたのだ。


 前世でも今世でも、他者に暴力をふるったことなど一度もなかった。騎士の決闘や戦闘を除く野蛮な肉体言語は、唾棄すべき最底辺の文化とされており、王族、貴族として暮らしてきた人生において最も縁遠いものであったからだ。

 しまった、と瞬時に思った。だが、不思議と後悔はなかった。


 ――強突く張りの両親。人身御供。浅ましいハイエナ。

 それは両親を愛するジュリエットにとって、最も許しがたい暴言だった。


 女性から殴打された経験などほとんど――いや、きっと一度もないのだろう。

 オスカーは頬に手をやり、奇怪な生物でも見るような目でジュリエットを見つめる。怒りはなく、ただ呆然と、魂を抜かれたような顔をして。

 その頃になると、腹の底から沸々と湧き上がるような煮えたぎる怒りは少しだけ収まっていた。ジュリエットは怒りを押し殺した淡々とした声で、オスカーに告げる。 


「――あなたのような無礼な方に、馬車を出していただく必要などございませんわ。ご心配なさらずとも、大切な両親を愚弄するような無神経な城主のいらっしゃるお城に、これ以上長居するつもりなど微塵もありませんもの」

「な……」

「わたしは歩いて帰りますので、どうぞお気遣いなく」


 エミリアから渡されてきたタオルで、ジュリエットは乱暴に顔を拭う。

 乾いたままではあったが、ここまで言われて呑気に洗面所を使う気にもなれなかった。

 汚れたタオルを丁寧に畳んでガラスのテーブルに置き、胸を張って淑女の礼をする。そして殊更に意識して顔の筋肉を動かし、家庭教師に教えられた通りに鏡の前で練習し続けた、『気品のある笑み』を形作った。

 もう自分は、オスカーにただ怯えるだけの気弱な妻ではないのだと心の中で言い聞かせながら。


「ごきげんよう、アッシェン卿。二度とお会いすることはないと存じますが、今後貴方さまが、〝娘に近づく貴族令嬢は悉く自分の後妻の座を狙っている〟などという愚かしい自惚れをお捨てになることを願いますわ。それでは失礼致します。どうぞエミリアさまに、ご親切のお礼を申し上げておいてください」


 最後まで笑みを崩さないまま、ジュリエットは顎を引き、背筋をぴんと伸ばして部屋を立ち去った。

 棒きれのように立ち尽くすオスカーを、ひとり残して。

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