第20話

 ジュリエットは信じられない思いで、声もなくオスカーを見つめた。

 なぜ。どうして。あの綺麗な、リデルの大好きだった冬色の瞳が。

 ――目が……目を、どうしたの?


 頭の中で何度も自問するが、答えなど出るはずがなかった。

 オスカーの左目は、医療用で使う白いガーゼのそれとは明らかに違い、光を遮るような黒革の眼帯で覆い隠されていた。それだけではない。彼の額から首筋へ向かって、鋭い刃で切りつけられたような惨い傷痕があったのだ。


 随分前のものらしく、傷自体は完全に塞がっている。

 しかし、抉られた場所は元々の白い肌と異なり、生々しい肉色をしていた。僅かに盛り上がった周辺の皮膚は痛々しく引き攣れており、何針も縫ったであろうことがひと目でわかるほどだ。

 この傷のせいで、彼は目を失ったのだろう。


 けれど一体何があったら、彼がこれほどの怪我を負う羽目になるのか。

 騎士の称号を持つ貴族の中には、まともな訓練を積んだことのない名目ばかりの騎士も大勢いたが、オスカーは彼らとは違う。アッシェン騎士団を率いる長として、それに恥じない働きを見せてきた。

 山間を拠点として旅人や町の人々を襲う盗賊たちを制圧し、隣国との国境での小競り合いも見事鎮圧してみせた。彼がわずか、十七歳だった時の話だ。

 天覧試合で負けたことも一度もなく、無敗の名を持つ。そんな彼に、一体誰がこのような怪我を負わせられたというのだろう。


 凍り付いたジュリエットを、オスカーが頭ふたつ分ほど高い位置から見下ろしている。

 至近距離で長いこと相手の顔を見つめる。それは、子供でもわかるほど無礼な行為であったし、普段のジュリエットであれば絶対にとらない行動でもあった。

 衝撃のあまり半ば思考停止状態に陥っていたジュリエットがそのことに思い至ったのは、頭上からオスカーの声が降ってきた時だった。


「傷のある醜い顔がそんなに珍しいか」


 彼がまだ十九歳の青年だった時よりはっきりと低くなった、固い声。

 三十一歳になった彼の、十二年前と比べて更に冷ややかな声音に、ジュリエットはハッと我に返る。


「……っ、い、いえ。そんな……!」


 慌ててぶんぶんと首を振りながら、己がどれほど不躾で無神経なことをしていたのかようやく気付いた。

 初対面の相手に顔を――それも大きな傷痕が残る顔をじっと見つめられれば、誰でも興味本位ゆえの行動だと考えるはずだ。気分がいいはずない。

 ジュリエット自身にそういう意図がなかったにせよ、他者はそうは思わない。ましてや、凝視された本人は尚更。

 相手を不快な思いをさせてしまった自身の迂闊さがあまりに恥ずかしく、ジュリエットは必死で頭を下げた。


「申し訳ございません、その……。少し、驚いてしまって。まさかお会いできるとは思わなかったものですから」


 これは半分本当だ。

 挨拶の後、部屋に引っ込んだのだろうとアダムの同僚から聞き、ジュリエットはこのままオスカーと顔を合わせずに済むと思い込んでいたのだ。

 エミリアから空き部屋に案内された際は、同じ並びに彼の部屋があるという懸念が微かに胸を過ぎったものの、それでも部屋にこもってさえいれば大丈夫だろうと……。

 なのに実際には、オスカーはなぜかジュリエットのいる部屋へ押し入るような形で現れ、今こうして目の前に佇んでいる。

 唇を歪め、酷薄な笑みを浮かべながら。


「――ほう? あまりにも不躾に凝視されたせいで、君の驚きは私の見苦しい顔に向けられたものだと思っていた」

「そんな……っ。とんでもございません」

「それに、会えると思わなくて、、、、、、、、、驚いた、、、? エミリアを使ってまでこの私的な場所まで入り込んでおいて、そんな言い訳が通用するとでも?」


 オスカーの目が怖くて、ジュリエットはこくんと生唾を呑み込む。

 彼は――彼は確かに以前から冷たい目をする人であったが、だが、それでもここれほどまでに空虚な色を宿していたことがあっただろうか。まるで闇の深淵を覗き込んだようなくらい、ぞっとするような目つきで他人をめ付ける人だっただろうか。


「言い訳、なんて……。わたし、わたしはただ……」


 十二年という歳月を経て相対した元夫の変化が恐ろしく、ジュリエットは思わず後ずさりしていた。

 じりじりと、恐ろしい猛獣を前にした獲物のようにゆっくりと。

 しかしすぐ背中が壁に突き当たり、それ以上の逃げ場を失ってしまう。


 恐怖と不安に瞳を揺らめかせる哀れな獲物ジュリエットを、オスカーは逃がさない。

 足音も立てず一気に距離を詰め、ジュリエットの顔の両隣を囲うように壁に手を突き、逃げ場を無くす。

 ひっ、と喉の奥で悲鳴が零れた。

 彼に会っても毅然としていよう。

 城に足を踏み入れた時に抱いたそんな決意は、いざオスカーを目の前にし、脆くも儚く崩れ去っていた。


「――君は、誰だ?」


 息がかかるほど間近でジュリエットを見下ろしながら、オスカーが問いかける。

 ジュリエットは乾いた唇を何度か舌で潤し、みっともなく声を上擦らせながら答えた。


「ジュ、ジュリエット……ジュリエット・ヘンドリッジと申します。準騎士の、アダムさんのパートナーとして――」

「違う」


 不格好な自己紹介は、にべもなく遮られた。


「それは偽名だろう。私は、君の、本名を聞いている」


 息が、止まるようだった。

 ひとことひとこと区切るようなオスカーの言葉が、一切の反論を認めないと言っている。

 どうして、と声にならない掠れた吐息が零れた。そしてオスカーは、その声なき問いかけが聞こえたかのように、嘲りを帯びた表情で目を細めた。


「……私の部屋の窓からは、大広間が隅々まで見渡せる。君がアダム・ターナーに伴われて会場へ訪れた姿も、準騎士たちと談笑していた姿も、贈り物を手にエミリアの許へ向かう姿も、全て見ていた」

「わ、わたし、は……でも、わたしの他にも、たくさん……」


 何をどう言っていいか分からず、ジュリエットは無様に震えながら子供のように拙い言葉を重ねる。

 確かにオスカーの部屋からは、階下の様子がよく見えるのかもしれない。

 だが大広間にはあの時、百は優に越える招待客が集まっていたのだ。使用人たちを合わせれば、二百人近かっただろう。だというのに、誰かひとりの動向に目を留めるなんて、普通はあり得ない。

 そう、特別目立つことでもしない限りは。


「ああ、招待客が大勢いたのに、なぜ私が君ひとりに注目していたのかを聞きたいのか」


 自身の疑問を正しく察したオスカーの言葉に、ジュリエットは声もなくこくこくと頷く。

 オスカーが捕食者のように獰猛に瞳を煌めかせながら、乾いた声でわらった。 


「招待客の名簿には一通り目を通している。準騎士のアダムが、果樹園の娘を同伴することも知っていた」

「……」

「それ自体も本当の名前かどうかわからないが、便宜上そう呼ばせてもらおう。――ジュリエット。君は中流階級の娘を装うには、あまりに品がありすぎたんだ」


 その言葉は断罪の響きすら帯びて、ジュリエットの耳を冷たく打った。

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