第19話
「こっちが洗面所で、これがお顔用の石鹸と保湿クリーム。それからタオルと……。空き部屋だけどいつも綺麗に掃除してあるから、寝室もソファも安心して使ってね」
「あ、ありがとうございます」
空き部屋にジュリエットを通したエミリアは、てきぱきと動いて室内の説明をしてくれた。子供ながらにしっかりしたその姿は、まるで小さな女主人のようだ。
こんなに立派になって……と、清潔なタオルを受け取りながら、ジュリエットは密かに感動してしまう。
「わたしは夜会に戻らないといけないけど、お部屋の外に護衛をひとり置いていくから安心してね。ジュリエットはここでゆっくり休んでて」
「でもわたし、帰りの馬車の時間をアダムさんと約束していて……」
さすがに乗合馬車が動いている時間に夜会が終わることはないため、帰りは騎士団の馬車で送ってもらえることになっていた。城から家までの距離が遠く、徒歩では帰れない者がジュリエット以外にも何人かいるのだそうだ。
この部屋にいたら、いつその馬車が出発するのかもわからない。
そう告げると、エミリアは小さく首を傾げた。
「泊まっていけばいいじゃない? 着替えは侍女たちに準備させるし、朝になったらうちの御者に家まで送らせるわ。あ、もちろんアダムには伝えておくから安心してね」
「い、いけませんお嬢さま。突然そのようなことを言われても、お客さまもお困りですよ。――そうですよね?」
護衛たちがエミリアを諫め、次にジュリエットに返事を求める。
――どうせ自分たちの言うことなど聞かないだろうし、貴女の口から断ってほしい。
真剣な眼差しからは、彼らのそんな切実な訴えが感じ取れるようだ。空き部屋で休ませることまでは許容したものの、さすがに泊まらせるという提案までは看過できなかったらしい。
しかし護衛たちに頼まれるまでもなく、ジュリエットは初めからこの申し出を断るつもりだった。
ただでさえエミリアと近づき過ぎたのだ。このまま客間に泊まるなんてことになれば、完全に当初の予定とは正反対の展開になってしまう。
その予定を抜きにして考えても、今日初めて訪れたばかりの他人の家に突然宿泊するなんて図々しいことは、ジュリエットの常識の中ではありない行動だ。
「ジュリエット、困ってるの?」
「いいえ、困ってなどいません。ですがそこまでご迷惑をおかけするわけには参りませんし、わたしはエミリアさまの優しいお気持ちだけで十分ですよ」
エミリアの気分を害さないよう、微笑みを浮かべて優しい口調で告げる。しかしそこで諦めるようなエミリアではなかった。
彼女はジュリエットの手を取り、ねだるような上目遣いで更に言葉を重ねたのだ。
「ねえ、お願いジュリエット! せっかくだから一緒に朝食を食べましょう? 料理長の焼いたパンはとっても美味しいのよ。きっとあなたも気に入るわ」
――なんて可愛いのかしら。
甘えるような声とはしゃいだ笑顔が可愛すぎて、ジュリエットは無意味だとわかっていても思わず想像してしまう。もし、自分が娘と暮らせる未来があったとしたら、こんな風に我儘を言って甘えてもらえたのだろうか……と。
ありえない夢想は、ジュリエットの胸に幸福と切なさを一度にもたらした。
母親としての心が刺激され、思わずエミリアを抱きしめて頭を撫でたくなる。そんな衝動を止めてくれたのは、護衛たちの声だった。
「お嬢さま、無理を仰ってはいけません!」
「そうです! お父上の許可も得ず勝手なことをしてはなりませんと、何度申し上げればわかっていただけるのですか」
せっかくジュリエットが断ったことで安心していただろうに、エミリアが諦めなかったものだから、護衛たちは再び説得に当たらなければならなくなったようだ。
可哀想に、オスカーから叱られることを恐れているのか、その声には悲壮感さえ漂っている。
しかしエミリアは、護衛たちがなぜそんなに反対するのかわからないとばかりに、きょとんと首を傾げるだけだった。
「だったら、お父さまのお許しが出ればいいんでしょう? わたしからお願いするわ」
自分の考えを押し通そうとする意思の強さは、間違いなく父親譲りだろう。オスカーの場合それは領主としての仕事ぶりに出ており、周囲の意見も取り入れつつ譲れない部分は決して譲らないという信念がたびたび感じられた。
消極的だったリデルとは似ても似つかない頑固さだ。
それを我儘だとか自己中心的だと捉える人間もいるだろうが、ジュリエットはひとまず安心していた。
エミリアがこんな風に自分の意見を口にできるのは、それが許される環境で育ったからに他ならない。それに今回のことだって単なる我儘ではなく、元々ジュリエットへの気遣いからくる行動がきっかけなのだから。
「お、お嬢さま、ですが……」
「何か問題がある? 具合の悪い人を無理に帰すなんて、そっちの方が問題だわ」
そんな言い方をされると、すぐには反論の言葉が出てこなかったらしい。
口ごもる護衛に、エミリアは尚も言いつのる。まるで敵の防備が薄くなったのを見逃さず、これが好機だと攻め立てる将のよう。
「あなたたち、人助けなんてどうでもいいと思ってる? 具合の悪い女性を平気で追い出すの? ううん。まさかアッシェンの誇り高き騎士がそんなこと考えるはずないわよね?」
「い、いえ」
「そ、それは……」
元々口論に強い
「ねえ、ジュリエット。あなたもうちに泊まっていきたいわよね? ――ほら、ジュリエット頷いてるわ!」
ちなみにジュリエットは頷いても首を横に振ってもいないのだが、エミリアは勝手に話を進めるつもりのようだ。
なるほど、エミリアはどうもジュリエットを気に入ってしまったらしい。護衛たちの反対を振り切ってまで、ここに泊まっていってほしいと思うほどには。
何か特別なことをしたつもりはないのに、なぜそうなったのか理由はわからない。
だが、あえて自分にとって都合のいい考え方をするならば、絆がふたりを引き合わせたとは考えられないだろうか。目に見えない親子の
――なんて。そんなはずないわよね。
ジュリエットは自身の願望に苦笑する。
もしそうだとしたら、と信じたい気持ちはあるが、見えない絆などという話はあまり現実的ではない。
――まあ、前世の記憶を持つわたしが現実的とか非現実的なんて言っても、あまり説得力はないかもしれないけど……。
それはさておき、初対面で相手を気に入るというのはままある話だし、第一印象で友達になれそうだと感じた経験はジュリエットにもある。
いわゆる直感というものだが、きっとエミリアがジュリエットを気に入ったのも、それと同じような理由だろう。
何にせよ、エミリアが見ず知らずの泣いている人間を気遣い、慌てて後を追ってきてくれるような優しい子であることは間違いないのだ。
そうやってまたしても感慨に耽っていると、エミリアがとうとう護衛たちを追い出しにかかった。
「ほら、女性が休もうとしているのにいつまでも見てないで! 早く出て行かないと失礼よ!」
エミリアの勢いに押され、護衛たちは反論する隙も与えられないまま、邪魔な野良犬のように部屋の外へ追い払われる。
「じゃあね、ジュリエット。お父さまには後でわたしから話しておくから、あなたは何も心配しないで休んでね」
「は、はい……」
エミリアも護衛たちの後に続き、部屋を出て行った。
ぱたんと扉が閉まり、あれよあれよという間にジュリエットはひとり、部屋の中に取り残されたのだった。
「ええと……」
ひとりきりになり、ジュリエットがまずしたのは室内をうろうろすることだ。何もしていない、とも言えるのだが、頭の中ではめまぐるしくさまざまな思考が巡っている。
エミリアが護衛たちの手を焼かせるほどの頑固なじゃじゃ馬で、でも可愛くて優しくて、オスカーはなぜかリデルの肖像画を飾っていて、エミリアは亡き母親を慕っていて。
しかもその亡き母親本人の生まれ変わりである自分をエミリアが気に入り、どういうわけか空き部屋に泊まることになってしまうなんて――。
「いくらなんでも、一度に色々起こりすぎて頭がついていかないわ……」
今更だが、自分はとんでもない状況に陥っているのではないだろうか。
城に足を踏み入れた時は、まさかこんな展開になるなど夢にも思っていなかった。
タオルを抱えたまま、ジュリエットはへなへなとソファにへたり込む。ガラス張りのテーブルに視線を落とすと、化粧がみっともなく崩れた若い娘の顔が映っている。
「わぁ……」
あまりにひどい有様に、自分でも表情が引きつるのがわかった。
目の周りを縁取る目化粧は涙で流れて黒い筋を描いているし、瞼を彩っていた薄紅の色粉まで溶けて崩れていた。白粉もところどころが剥げてしまい、とても人前に出られる有様ではない。
エミリアが顔を洗えと言った意味が、ここにきてようやく理解できた。思っていたより大分、いやかなり酷い。普段より濃い化粧をしていたのが裏目に出たのだろうが、無惨という言葉がぴったりだ。
まだ子供のエミリアだけだったならまだしも、こんな顔を護衛たちにまで晒していたなんて、羞恥で地中深くまで埋まってしまいそう。
今更後悔しても遅いが、一刻も早く顔を洗おうという気分になり、ジュリエットはソファから立ち上がった。
すると廊下から、誰かの話し声が聞こえてくるのに気付く。扉越しなのでぼそぼそとくぐもっていて聞こえないが、男性の声のようだ。
エミリアが置いていってくれた護衛が、通りかかった使用人とでも話しているのだろう。
特に気に留めることもなく、ジュリエットはそのまま洗面所へ向かおうとした。
しかし一歩足を踏み出した、その時だった。
部屋から廊下へ繋がる出入り口の扉が乱暴に開け放たれたことによって、ジュリエットは足を止めざるを得なくなる。
「お、お待ち下さい閣下……っ!」
慌てたように制止する護衛の声が、どこか遠くで聞こえたような気がした。
手も、足も、顔も。全身が凍り付いて動かない。
闇から掬い上げたような漆黒の衣服が視界の端に入った瞬間、ジュリエットは自分でも驚くくらい素早く、反射的に視線を床に移していた。それはリデルの頃から染みついた、習慣のような行動。
こつ、こつと、固い革靴の底が床を叩き、少しずつ近づいて来て、ジュリエットのすぐ目の前で止まる。
顔を上げなくともわかる。全身に怒りの気配を纏ったオスカーが、そこに佇んでいた。
記憶にあるものよりもっと冷然とした彼の空気。鋭い氷柱のような肌を突き刺す視線に足が震え、ジュリエットは彼に対する恐怖が、未だに自身の心の奥底にこびりついていることを知った。
顔が、上げられない。
目を、合わせられない。
だがオスカーはジュリエットに、そのまま俯き続けることを許さなかった。
「……顔を、上げろ」
有無を言わさぬ命令に、ジュリエットはおずおずと顔を上げる。ゆっくりと、静かに、彼と目を合わせる。
その瞬間、乾いた唇からひゅっと鋭い音が鳴った。
オスカーの、冬色の瞳が。あの、見る者全てを威圧するような冷徹な瞳が――なぜかそこにひとつしか、なかったのだ。
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