第18話

 エミリアの言葉を聞くまで、ジュリエットは自分の――リデルの肖像画があるなんて、考えてもみなかった。

 当主が亡くなった妻の肖像画を飾ることは珍しいことでも何でもないが、リデルとオスカーの関係性を考えれば、とても彼がそんなことをするとは思えなかったからだ。

 外部からやってきた客人に見せるため、あえて飾らせたのだろうか。一瞬そう思ったが、この階段は基本的に当主一家か、清掃などの業務に携わる使用人しか利用しない。わざわざリデルの肖像画を用意する必要などどこにもなかったはずだ。


「ジュリエット? 立ち止まって、どうしたの?」

「い、いえ……。今行きます」


 戸惑いながら階段を上り、エミリアに追いつく。そしてオスカーの肖像画に寄り添うような形で掛けられた、リデルの肖像画を見つけた。

 他の物と比べて一回りほど小さなそれは、花を象った白く丸い額縁に収められており、陰鬱とした気配の漂う空間でかなり浮いている。

 それだけではない。肖像画と言えば澄ました表情で描かれるのが一般的だ。しかしリデルの肖像画は、そう言った固定概念におけるものとはまるで異なる雰囲気を持っていた。


 結いもせず下ろしたままの銀髪を風になびかせ、瑠璃色の目を細めながら佇む儚げな少女。真っ白なドレスが翻るのを押さえながら青空の下で花綻ぶような笑みを浮かべるその姿は、日常の一場面をそのまま描き写したかのようだ。

 風の音。花の匂い。髪が揺れる音。笑い声。太陽の眩さ。白い肌の滑らかな感触。唇の温度。

 それら全てが感じ取れるような、不思議な臨場感に満ちた絵だった。

 しかしジュリエットには、前世でこのような肖像画を描かせた記憶が一切ない。


 恐らく生前のリデルを知る画家が彼女の死後、想像で描いたものなのだろう。あるいは生前の肖像画を参考にしたのか。

 いずれにせよ、この絵が本人を見本にして描いたものでないことは確かである。

 その証拠に、リデルは年頃になってからは髪を下ろして人前に出たことはないし、白いドレスも婚礼を除いて一度も身に着けたことがなかった。白は花嫁の色と決まっており、それ一色で身に着けるのはマナー違反だからだ。

 更に言うなら、そもそもこの肖像画は、リデルが認識していた自身の姿より大分粉飾されている。

 ――端的に言えば、綺麗すぎるのだ。どこの妖精か、天使かと言いたくなるくらいに。


「これがわたしのお母さま。ね、とっても美人でしょ! 十六、七歳の時のお姿だって、お父さまが言ってたわ」

「え、ええ……」


 何と反応していいかわからず、そう返すのがやっとだった。

 エミリアが生母の顔も知らず育ったわけでないことに関しては、感謝すべきかもしれない。しかしオスカーは一体何を思って、これ以上ないほど美化されたこの肖像画を飾っているのだろうか。

 戸惑うジュリエットの手を握り、エミリアが移動を再開する。


「お母さまはね、わたしがまだ赤ちゃんだった時に亡くなったんですって。肖像画のお母さまはわたしと五歳くらいしか違わないのに、その年の頃にはわたしがお腹にいたってことよね? なんだか不思議!」


 歩きつつ、エミリアは母親についての話を続けた。

 その口調が、まるで幼い頃から身近にいた相手のことを話すような親しげなものだったので、ジュリエットはつい気になって質問してしまう。


「エミリア……さまは、お母さまのお話をどなたからか聞いたことが?」

「ええ! メイド頭のカーソンさんも執事のスミスさんも、他の使用人たちも、優しくて誠実なお人柄だったって。皆、わたしが聞いたらいつも色々お話してくれるのよ。お母さまは元王女さまで、少し身体が弱くて、本を読むのがお好きで、刺繍が苦手だったこととか」


 目をきらきら輝かせながら語るエミリアは、とても誇らしげだ。会ったこともない母親を心から愛し、尊敬しているように見える。

 カーソンもスミスも、右も左もわからないリデルに対してとても親切にしてくれていた。それが仕事だったといえばそれまでだが、彼らが主人オスカーに倣って冷たい態度を取らなかったことは、リデルにとって本当に幸いだった。そしてエミリアに対し、よい思い出ばかりを語ってくれたことも。


「それからお父さまは……。お父さまはね、普段はあまりお母さまのお話をしようとしないの。きっとお母さまのことを思い出して、悲しくなってしまうのね」


 オスカーがリデルの事を語ろうとしないのは、どう考えてもエミリアの想像しているものとは違う理由のせいだ。しかし彼女はどうも、両親がどのような関係であったのかを少しも知らされていないらしい。

 普通に考えれば、娘に対してその母親との不和を積極的に話そうとする父親はあまりいないだろう。いくら疎ましく思っていても、相手が亡くなっているなら尚更、愛娘にだけは悟られまいとするのが親心のはずだ。父と亡き母が不仲だったと聞いて傷つきこそすれ、喜ぶ子供なんているはずがないのだから。

 もちろん『リデル』も同意見だ。

 だからジュリエットにできるのは、エミリアの言葉を曖昧に微笑んで肯定することだけ。


「そ、うですね。きっと、エミリアさまの仰るとおりです」


 娘には真実を知らないまま優しい世界で生きてほしいし、この先も決して傷つくことのないよう、仲のよい両親の許に望まれて生まれてきたのだという幻想を信じていてほしかった。


「――あ。でもね、前にお父さま言ってたわ。お母さまはとても物静かで、控えめな性格だったって。穏やかに笑う、綺麗な人だったって」

「……お嬢さまにも見習っていただきたいものです」


 ぼそりと、それまで黙っていた騎士の呟きが聞こえた。恐らく、わざと聞こえるように言ったのだろう。

 ひどい、とエミリアが怒り出す。本気で怒っているわけでなく、拗ねたような声と表情を作っているのは一目瞭然だ。


「わたしはお母さまにそっくりだってよく言われるのよ!」

「それは性格ではなく、お顔のことでしょう」


 護衛とエミリアのやりとりに、ジュリエットは表面上は楽しげに笑ってみせた。けれど頭の中では先ほど耳にしたばかりの言葉が何度も木霊し、とても平静ではいられない。


 ――お父さま言ってたわ。お母さまはとても物静かで、控えめな性格だったって。穏やかに笑う、綺麗な人だったって。


 それは亡くなった母親が素敵な女性であることを娘に印象づけるための、オスカーの苦し紛れの詭弁だったに違いない。物静かで控えめというのはともかく、彼がリデルを綺麗だと思ったことなんて一度もないはずだから。

 彼が好きだったのは、副長の妹やシャーロットのような、華やかで目を引く女性たちだ。リデルのような地味な娘では決して、ない。

 けれどジュリエットの中に存在するリデルの心は、それをわかっていながら目敏く反応してしまう。

 彼を恋い慕う気持ちが、時を経た今でも分不相応な期待を抱かせるのだ。

 もしかしてオスカーも、少しくらいは自分リデルに情があったのではないか……。愛や恋というほどでなくとも、多少は大切に思ってくれていたのではないか、と。


 ああ、やはり自分はジュリエットでありリデルなのだと、この時ほど強く実感したことはない。

 前世と今は別ものである。そう割り切ろうとしたし、割り切れたと思っていた。

 それなのに、ふとしたきっかけでありえない夢を見てしまうほどには、ジュリエットは未だに前世の自分という存在に引きずられ過ぎていた。

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