第17話
「エミリア……」
唇から、小さな呟きが零れた。
エミリアの白い頬は上気し、息が少し上がっている。
いきなり泣き出した相手に興味を引かれ、走って追いかけてきたのだろうか。背後には護衛がふたり付いており、勝手な行動をしたエミリアを窘めている。
「お嬢さま。勝手に広間を抜け出してはなりません」
「あら、どうして?」
厳し目に注意する護衛に対し、エミリアは涼しい表情だ。本気で、何を責められているのかわからないという顔をしている。
護衛ふたりは困ったように顔を見合わせ、ひとりがエミリアと視線を合わせるため膝を屈めた。
「お父上からも言いつけられていたはずです。夜会中は決しておひとりにならず、我々や侍女たちから離れないようにと」
「あなたたちが付いてきてくれたんだから、別にいいじゃない。ひとりになってないでしょ」
十二歳という年齢の割にはませていて、大人に反論することに慣れている態度だった。
つんと護衛たちにそっぽを向き、エミリアが改めてジュリエットに向き直る。
先ほどまで招待客に見せていた退屈そうな表情は、今やすっかり消え去っていた。その代わりエミリアの冬色の瞳に宿っているのは、旺盛な好奇心だ。大きく、少し吊り上がった猫のような目が、まじまじとジュリエットを見つめていた。
「ここで何してたの? ひとりで泣いてたの? どこか痛いの? それとも悲しいことがあったの?」
「お嬢さま、初対面のお相手に失礼ですよ! ほら、早く戻りましょう」
立て続けの質問に、護衛が慌てたような声を上げてエミリアの肩に触れる。不躾な質問に対する注意という形は取っているものの、本心はきっとジュリエットを警戒しての発言だ。
護衛は主人を守るのが仕事だ。相手がいかに非力そうな小娘でも、エミリアの側にいるというだけで疑ってかからなければならない
だがエミリアは、相変わらず護衛の言うことなど聞こうともしない。ぱっとジュリエットの側へ駆け寄って、両手を握りしめる。
「具合が悪いのなら先生のところへ連れていってあげましょうか? 先生はね、ちょっと厳しいし注射は痛いけど、すごい名医なんですって」
「え……っ、あ、あの」
「それとも、お医者さまが怖いなら、休める場所に連れて行ってあげましょうか? お化粧が崩れてるし、先にお顔を洗ったほうがいいかも。ね、そうしましょう!」
さも名案を思いついたとばかりに、エミリアが得意げな笑みを浮かべた。
そうして笑うと、年齢の割に大人びた雰囲気はすっかり消えてなくなり、等身大の十二歳が現れる。
何て可愛いのだろう。ますます胸が詰まり、ジュリエットは何も言えなくなってしまった。
本来なら、ジュリエットは単なる招待客として冷静な受け答えをするべきであった。エミリアの申し出を丁寧に断り、この場を辞すべきだった。
それでなくとも大広間から立ち去ったことで、周囲から注目を受けてしまっている。この上、更にエミリアの興味を引くような行動をするのは得策ではない。
だが、ひとめ会うだけ……たった一言祝いの言葉を伝えるだけで十分だ……と。そう思っていたことが、逆によくなかったのだろう。
ジュリエットには、エミリアと挨拶以上の言葉を交わす心構えが出来ていなかった。その結果頭が真っ白になり、信じられないほどお粗末な態度を取ってしまう。
すなわち、まともな返事をすることもできず棒立ち状態だ。
「ほら、こっちよ!」
いつまでも立ち尽くしたまま、まともな返事をしない相手に焦れたようだ。エミリアはジュリエットの右手をぐいぐい引っ張り、どこかへ連れていこうとする。
思いも寄らぬ出来事に慌てたのは、ジュリエットよりむしろ護衛たちだった。
「お嬢さま! 見ず知らずの人間をそんな風に信頼してはなりませんと……!」
「お嬢さまに何かあったら、我々が閣下に叱られるのですよ!」
エミリアを諫める護衛たちの台詞からは、すっかり建前が消えてしまっている。内心がどうあれ、招待客を表だって不審者のように扱うべきではないという建前が。
それほどまでに、エミリアの突飛な行動に焦らされたのだろう。
しかし当のエミリアはというと、やはり注意を聞こうとするどころか眉間に皺を寄せ、不満をあらわにした。
「もうっ、うるさい!」
「な……っ。お、お嬢さま!」
「――ねえ、あなたお名前は? 今日は誰と夜会に来たの?」
それが自分への問いかけだ、とジュリエットは若干遅れて気付いた。もたつく思考と舌を動かし、なんとか答える。
「ジュ、ジュリエット……ヘンドリッジです。今日は、準騎士のアダムさんのパートナーとして連れてきていただきました」
「ごきげんよう、ジュリエット。わたしはエミリア。よろしくね」
ワンピースの裾を摘まみ、こてんと可愛らしく頭を下げたエミリアは、勝ち誇ったような顔で護衛たちを振り向いた。
「ほら、これで見ず知らずの他人じゃないわ。お友達よ。あなたたち、わたしのお友達に失礼な態度を取るの?」
ふふん、と胸を張る小さな伯爵令嬢の屁理屈に、護衛たちは説得をすっかり諦めたようだ。眉を下げ、困り顔で嘆息する。
仕方ない、と目で会話するふたりの姿から、どうやら彼らはエミリアのこうした我儘に頻繁に振り回されているであろうことがわかった。
「……わかりました。ですが、念のため我々も同行させていただきますよ。よろしいですね?」
エミリアと、そしてジュリエットにも向けられた念押し。根負けしたとはいえ、彼らはジュリエットに対する警戒まで解いたわけではない。
アダムのパートナーと名乗ったことで多少は和らいだかもしれないが、そこで完全に油断してしまうほど護衛たちも愚かではなかった。
監視するような視線を背に浴びながら、ジュリエットはエミリアに手を引かれ、建物内へ戻った。
エミリアが向かったのは、大広間とは正反対の方向だ。聞こえてくる喧噪に背を向けるように廊下を通り抜け、玄関ホールの前に到着し、正面の階段と向かい合う。
「この階段を上るのよ」
退屈な夜会を抜け出し別のことをしているのが余程楽しいのか、エミリアがはしゃいだ声で言った。
紫色の絨毯の敷かれたこの階段が、主人一家のための居室が並ぶ私的な空間へ繋がっていることをジュリエットは知っている。
きっとエミリアは、どこか空いた部屋でジュリエットを休ませるつもりなのだろう。
「行きましょ」
手を繋いだまま、エミリアは階段に足をかけた。ジュリエットがそれに続き、護衛たちが無言のまま三歩ほど後ろを付いてくる。
階段を上り始めてすぐ、誰かに監視されているような気がして、ジュリエットはぞくりと悪寒に身を震わせた。エミリアでも、護衛のものでもない。肌を突き刺すような、複数の冷たい視線。
――
リデルとして生きていた頃も、この階段を使うたび同じような不安に襲われたことを、ジュリエットは覚えていた。
理由はわかっている。
ジュリエットは恐る恐る、すぐ側の壁に目をやった。少しだけ視線を上げると、豪奢な金の額縁に納められた大きな肖像画が、壁面を飾っている。
一枚ではない。何枚も何枚も、まるで今にも動き出しそうなほど繊細かつ生々しい筆致で描かれたそれは、アーリング家の歴代当主やその家族たちの肖像画。
いずれも『幸福』という言葉からはほど遠い陰気な目をしており、生前の姿を描いているにもかかわらず亡霊のよう。
肖像画はこの階段だけでなく、応接室や広間などにもかけられている。主立ったものを除けば、倉庫に眠っているものも少なくない。
その数を見ればわかるように、アッシェン伯爵家の歴史は非常に長い。オスカーがアッシェン伯爵家を語る際、『大した歴史も財もない伯爵家』というような表現を用いていたが、それは間違いだ。
初代アーリング家当主が伯爵の位を叙爵されたのは、スピウス暦四〇〇年代中期のこと。
今から千百年ほど前、初代国王がこの地に存在した八つの王国をひとつにまとめ、エフィランテという王国を作り上げた頃の話だ。
その際、初代国王は他部族制覇のため武勲を立てた新興氏族に対し、その功績に見合った褒賞と地位を与えた。
そのうちのひとつが、アーリング家だ。
アーリング一族は元々戦闘を生業とする土着の部族だったらしく、戦において目覚ましい働きを見せた。それにより初代国王から伯爵位と領地を賜り、それから今に至るまでずっとアッシェンの地を治めてきた。
土地経営や農地開発に熱心に取り組み、治水、灌漑事業だけでなく国内唯一の紅茶生産業においても高い実績を上げている。
長きにわたりエフィランテ王家に忠誠を誓い、国防の要でもあるアッシェン領を守り続けてきたアーリング家は、王宮でも一目置かれる存在である。
一概に『伯爵』と言うが、『アッシェン伯』はまったくの別物だと思ってもいい。権力、財力、求心力などあらゆる面を鑑みても、侯爵に匹敵するほどの力を有する家なのだ。
確かに、全土統一前からシルフィリアの一族に仕えていた諸侯に比べれば、その歴史は浅いかもしれない。血統を重視する廷臣の中には、千年以上も前のことを持ち出し新参者と軽んじる者も少なくなかった。
オスカーがあんな発言をしたのも、そういった理由があったのかもしれない。
けれど、統一後に爵位を与えられた貴族の中に『侯爵』位を有する一族はひとつもない。それを考えれば、簡単に軽んじられていいような立場ではないのだ。
「――ジュリエット、どうしたの?」
いつの間にか足が止まっていたらしい。
エミリアが軽く腕を引っ張り、ジュリエットを見上げていた。
「あ、その、随分と肖像画がたくさんあるんだなぁと思いまして……」
不審に思われないような言い訳を慌てて口にすれば、エミリアは肖像画を指し示しながら色々と説明をしてくれる。
「わたしのご先祖さまたちよ! あれがおじいさま、あれがひいひいおじいさま、あれが大お祖母さまにその従妹たちでしょ。あとは――ほら、これ!」
ジュリエットの手をぱっと離したエミリアが、階段を一気に駆け上って一番上にかかっている肖像画を指差す。
黒髪に冬色の目。自分にそっくりな色を持つ、彼女の父親の姿を。
「わたしのお父さまの若い頃よ。ちょっと厳しそうだけど素敵でしょう?」
「え、ええ……」
リデルがここにいた頃から飾られていたものだから、恐らくオスカーが十八歳くらいの頃に描かれたものだろう。腕を組み、悠然と椅子に腰掛け、射貫くように正面を見据えている。
思わず視線を背けたくなるような厳しい表情を、しかしエミリアは満面の笑みで見つめていた。父親を慕っている証拠だ。
つまり裏を返せば、エミリアがオスカーにそれだけ大事にされているということになる。誕生日を祝うための夜会を開くくらいだから、無下に扱っているわけでないとはわかっていたが……。
密かに安堵したジュリエットの耳に、上にいるエミリアの思いがけない言葉が飛び込んできたのは、その直後だった。
「それとね、こっちがわたしのお母さまよ!」
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