第16話
談笑する人々の合間を抜け、ジュリエットはアダムと共に広間前方へたどり着いた。
それまでの間に何人かと挨拶を交わしたが、相手がどこの誰だったのか、顔も、名前すら覚えていない。
主役席の周囲を護衛騎士たちが固め、招待客の何名かが挨拶をするため、侍女の指示に従い待機の列を作っている。
待機の列に並ぶとひとりの侍女がすぐに気づき、ジュリエットたちに近づいてきた。
「お嬢さまへの贈り物はこちらでお預かりいたします」
侍女はジュリエットの持っていた花束と本を恭しく受け取り、広間の奥に積まれた贈り物の山の中へ置いた。
城へ入る際、簡単に持ち物、身体検査は受けたものの、贈り物の中身までは確認されなかった。きっと夜会が終わった後、使用人たちが中身を確かめた上でエミリアの許へ届けるのだろう。
「なんだか僕も緊張してきちゃいました」
隣でそわそわするアダムの声が、意味をなさないただの音として通り過ぎていく。
待機列が徐々に前へ進んでいき、ひとつ、またひとつと順番が迫ってくる。やがてジュリエットたちのふたつ手前の男女が挨拶を終え、侍女の声が響いた。
「次の方、どうぞ」
すぐ前にいた大柄な男性が、ようやく私の番か、と呟いたのが聞こえた。
彼が足を踏み出す直前、ジュリエットはぎゅっと目を瞑り、逸る鼓動を胸の上からそっと押さえる。そして何度か深呼吸を繰り返し、視界を遮るもののなくなった前方に目をやった。
……そこに、エミリアは、いた。
オスカーと同じ、冬色の瞳。
長く伸ばした黒髪はふたつにわけ、側頭部できっちりと結い上げリボンで飾っている。
肌は抜けるような白さだが、頬は薔薇色を一滴落としたような健康的な色に染まっており、血色もよい。
淡い紅色のドレスに身を包んだ娘は、こしらえのよい赤いベルベットの椅子に、人形のようにちょこんと腰掛けていた。
自分の誕生日パーティーだというのに、つまらなさそうな顔だ。内心の不満を取り繕うこともなく、祝福の言葉を述べる相手を仕方なさそうに持てなしている。
ああ、でもその不機嫌そうな表情が、本当にオスカーそっくりだ。
エミリアが十二歳になったと聞き、一体どんな風に成長しただろうとずっと夢想していた。
身長はどのくらい高くなった? 小さかった手は、足は? どのくらい大きくなっただろうか。
何を見て、何を聞いて、何を感じてきたのだろう。どんな声で、どんなことを喋るのだろう。好きなもの、嫌いなものは?
そんな想像に、胸を膨らませていた。
けれどいざ実物を前にし、ジュリエットは自分の想像がいかに貧弱で薄っぺらいものだったかを、はっきりと思い知らされた。
エミリアがすぐ目の前に存在し、瞬きをし、喋っている。
あんなに小さく、弱々しく、ほんの少しのことですぐに壊れてしまいそうなほど危なげな存在だったというのに。今、ジュリエットの目に、紛れもなくエミリアが存在している。生きている。動いている。
赤子の頃の面影を残しながらも立派に成長した我が子の姿に、視線が縫い止められ離せない。
「っ……」
声が詰まり、呼吸をすることさえ忘れた。
鼻の奥がつんとし、目頭が熱くなる。胸がぎゅっと、締め付けられるように痛む。
次の方、と侍女が呼んだ。行きましょうと促すアダムの声も聞こえる。
だが、ジュリエットは動かなかった。――否、動けなかった。
「ジュリエット、さん……?」
アダムの心配そうな声に少し遅れて、ぽたぽたと、水滴が床を打つ音が聞こえた。
何か熱いものが頬を滑り落ちる感触に、ジュリエットは小さく声をこぼす。
「え……」
指先で自分の顔に触れる。濡れていた。
ジュリエットはそこで初めて、自分が泣いていることに気づく。
涙は後から後から溢れ落ち、頬をとめどなく伝い顎から床に滴り落ちていた。
突然泣き出した招待客の姿に、エミリアは目を大きく見開き、驚いている。彼女を取り巻く護衛や侍女たちも、怪訝そうな顔だ。
「ジュリエットさん、具合でも――」
肩にアダムの手が触れそうになった瞬間、ジュリエットはとうとう耐えきれなくなり、踵を返してエミリアに背を向けた。
アダムの呼び止める声も侍女たちの心配する声も無視し、ドレスの裾を持ち上げその場から逃げるように走り去る。
行き先なんてわからない。ただ、ここではない場所ならどこでもよかった。泣きながら大広間を立ち去る自分に、すれ違う人々が注目する。
「お嬢さん、大丈夫ですか」
「やだ、あの子泣いてるわ……! 大丈夫なのかしら?」
人々のそんな言葉や視線も、意識の内側へ入ってくることはなかった。
胸を締め付け、他の何も目に入らなくなるほど心の中を強く支配するこの感情が何なのか、ジュリエットにはわからない。
悲みや切なさ。喜びや安堵。そして狂おしいほどの愛おしさ。
前世で、十七年の生を送った。
今生で、十六年の時を過ごしてきた。
ジュリエットにはふたつの人生の記憶がある。けれどそれは、人より長く人生経験を積んだということには決してならない。
思い出したばかりの前世の記憶は、精神の成熟にほとんど影響を与えない。ジュリエットの精神は、間違いなく十六歳の少女のものなのだ。
そんな未熟な心が、勢い良く押し寄せる複雑な感情の波に耐えられるはずがない。
なんて情けないジュリエット。
あんなにも娘に会いたいと思っていたのに、声を交わすことすらできず逃げ出した自分の不甲斐なさが、あまりに惨めだ。
逃げたい。
逃げたい。
どこへ?
どこかへ。
この感情が追いつけない、どこか遠くまで。
がむしゃらに走り続けたジュリエットは、周囲に誰の気配も感じなくなった頃、ようやく足を止めた。そうして、力尽きたようにその場に崩れ落ちる。
まだ、涙は止まらなかった。
涙と共にこの感情が流れてしまえば、少しは楽になるのだろうか。
幾度も幾度も涙を拭い、ジュリエットは蹲りながら声を殺して子供のように泣き続ける。
やがてようやく涙が落ち着いてきた頃、ジュリエットは鼻をくすぐる甘く優美な風の香りを感じた。
ふと、顔を上げる。
紺色の夜空と白い月の光に、いつの間にか自分が建物の外に出てしまっていたことに気付く。
視線を巡らせ、ジュリエットは目の前に広がる風景を、自身の前世の記憶と照らし合わせた。
隅々まで手入れの行き届いた青い芝生に、花壇の中で華やかな存在感を主張する美しい白百合。
ウサギやリス、熊に鹿。動物の形に刈り込まれた見事な庭木に、天使たちの水浴びを模した噴水。その噴水から飛び散る飛沫は月の光を弾き、淡い銀色に輝いていた。
庭師の高い技術と矜持を感じる美しい庭園――ここは、アッシェン城の中庭だ。
「懐かしい……」
鼻を啜り、足を踏み出す。
さく、と芝生を踏めば、草の瑞々しい匂いがした。
この場所で、オスカーはよく鍛錬を行っていた。リデルの部屋からは中庭の様子がよく見渡せて、彼が剣を振るっている時も誰かと談笑している時も、すぐに声や物音で気付いた。
オスカーはきっと気付いていなかっただろうが、窓から彼をこっそり見つめるのがリデルの密かな楽しみだったのだ。
そういえば彼はよく、鍛錬の合間に噴水の縁に腰掛けて休憩をとっていた。
中庭に遊びにくる小鳥たちにパン屑を与えていた姿を、よく覚えている。
「確か……この辺り」
記憶をなぞるように噴水の縁に手で触れた、丁度その時のことだ。背後で芝生を踏みしめる音が響き、ジュリエットは弾かれたように手を引っ込めた。
アダムが追ってきたのか、それとも別の人間か。あるいは――。
不機嫌そうに眇められた氷色の双眸を思い出し、すぐに振り向くことができない。
しかし凍り付くジュリエットの背に掛けられた声は、予想していた誰のものとも違った。
それは鈴が転がるような高く、愛らしい、女の子の声だった。
「――ねえっ。どうして泣いていたの?」
顔を見ずとも、そして初めて聞いた声であっても、ジュリエットには自分の背後にいるのが誰なのか、すぐにわかった。
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