第15話
会場である大広間に到着すると、楽団が奏でる優雅な音楽と共に談笑を楽しむ人々の声が聞こえてきた。
夜会はとっくに始まっており、皆、食事やダンスを楽しんでいるのだろう。
ぎゅっ、と、ついアダムの腕に添えた掌に力がこもってしまう。
前世で、リデルは城内をあまり歩いたことがなかった。自室から出ることも少なく、大広間へ足を踏み入れたことも婚礼を祝う宴の際だけ。それでも見覚えのある壁紙や内装品を見るにつれ、徐々に緊張感が高まっていく。
「ジュリエットさん、少し顔色が……。もしかして緊張してます?」
「は、はい。少し……」
「心配しないで、皆いい人たちばかりですから。でも、もし無理だと思ったら遠慮せず言ってください。早めに帰りましょう」
不安そうなジュリエットを、アダムは嫌な顔ひとつせず優しく気遣ってくれる。せっかくパーティーに来ておいて、早めに帰りたいはずなどないのに。
そんな彼に、迷惑をかけるわけにはいかない。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。きっとすぐに慣れますから」
そう。前世は前世。今は今。
ジュリエットはもう、怯えてばかりの気弱な王女リデルではない。扉の向こうで誰と顔を合わせようが、何も恐れる必要はないのだ。
ぐっと顎を引き前を見据えたジュリエットは、アダムのエスコートを受け、戦場へ赴く戦士のような心持ちで広間へ足を踏み入れた。
「お、アダム! 遅かったじゃないか」
広間に顔を出すなり、アダムと同じ準騎士の制服に身を包んだ若い男性が数名、親しげな様子で近づいてきた。
それぞれ、同じ年頃の女性をパートナーとして連れている。
「どうしたんだ、こんなに遅れるなんて。お前にしては珍しいな?」
「いやぁ。よりにもよってこんな日に、馬車が泥濘にはまってさ。ついさっき到着したばかりなんだ」
「そりゃ大変だったな。――ところで、そちらのお嬢さんが?」
ちら、と男たちの視線が自分に向けられたことに気付き、ジュリエットは密かに気を引き締める。
するとアダムが、同僚たちにジュリエットの紹介を始めた。
「うん、こちらが懇意にしてくださっているご婦人のお孫さん。ジュリエットさんだよ。ご実家は果樹園を経営されているんだ」
「初めまして、ジュリエット・ヘンドリッジです」
用意していた自己紹介を口にしつつ、愛想良く頭を下げる。
第一印象は問題なかったようで、アダムの同僚たちは親しみやすい笑みと共に、快くジュリエットを受け入れてくれた。口々に初めましての挨拶を口にしながら、自分とパートナーの紹介を始める。
そうしてひととおり自己紹介が終わったところで、アダムは同僚たちからいじられる羽目になった。
「やるじゃないか、アダム! お前が本当にパートナーを連れてくるなんてな」
「見直したぞ!」
ははは、と賑やかな笑い声が上がる。
馬鹿にしているような雰囲気ではない。友人同士の気安い応酬といった感じだ。
どうやらこれが、いつもの彼らのやりとりらしい。
「ジュリエットさん、実は俺たち、アダムが知人のお孫さんを誘ったと聞いた時、心配してたんですよ」
「そうそう。彼は見ての通り、大人しいヤツですから。俺たちに見栄を張って、誘ったなんて嘘をついたんじゃないかって」
「でも、まさかこんな綺麗なお嬢さんを連れてくるとは、夢にも思いませんでしたよ!」
アダムは苦笑を浮かべつつ、頭を掻いていた。友人たちの予想が、当たらずとも遠からずであり、少々気まずい思いをしているようである。
いっぽうジュリエットはといえば、内心でほっと胸を撫で下ろしていた。
今のところ、特に果樹園の娘という自己紹介を不審に思われた様子はなさそうだ。
――それもそうよね。
前世の兄や姉たちだって、そう頻繁ではないが何度か身分を隠し市井へお忍びに出かけたことがある。
意外と気付かれないものよ、と姉は笑っていた。普通は護衛が隠れてついていくものだが、兄なんか誰にも内緒で王宮を脱走し、町の祭りに参加したことさえある。
リデル自身は身体が弱くてそんな経験は一度もないが、いつも胸ときめかせながら土産話を待っていたものだ。
王族ですら気付かれないのなら、貴族がたった一日だけ中流階級の娘になりすましたところで、疑いの目を向ける者など出てくるはずもない。
「そ、それより閣下は?」
ジュリエットの前でいつまでもからかわれるのが居たたまれなかったらしく、アダムがキョロキョロと周囲を見渡し、強引に話題を変えようとする。
大広間の中は招待客や給仕をする使用人でごった返しており、あまり見通しはよくない。ジュリエットも先ほどからそれとなくオスカーの姿を探していたのだが、彼の姿は見当たらなかった。
「閣下? ああ、そういえば挨拶を終えられた後は姿を見てないな。自室にでも戻られたんじゃないか」
「えっ?」
思わず大きな声を上げてしまったことに気付き、ジュリエットはぱっと片手で自分の唇を塞いだ。しかし、一度発した声が戻ってくることはない。
準騎士やパートナーたちの注目を受け、おずおずと唇から手を離し言い訳を口にする。
「あ、すみません。その、お嬢さまのお誕生日をお祝いする場なのに……と驚いてしまって」
「ああ、閣下は人付き合いとか華やかな場所がお嫌いなんですよ。お嬢さまの誕生日だけは、毎年こうして祝いの場をもうけていますけどね」
その台詞に、ジュリエットはまたも驚かされてしまった。今度は声を上げることはなかったが、その驚きは先ほど以上である。
――旦那さま……アッシェン伯が、華やかな場所や人付き合いがお嫌い?
俄には信じがたい話だ。
リデルが彼の妻だった頃、オスカーは頻繁に夜会や舞踏会へ顔を出していた。城へ客人を招き、晩餐会を行ったことも何度もある。とても、彼らが言っているような人物だったとは思えない。
それとも単にリデルが知らなかっただけで、内心は嫌がっていたけれど立場上無理して社交的に振る舞っていたのだろうか。
「あ、あの。それでは伯爵夫人とお嬢さまにご挨拶を。贈り物もお渡ししたいですし」
何の気なしに口にした言葉に、今度は相手が意外そうな顔をする番だった。
「閣下は独身ですよ。奥さまが亡くなられてから後妻も娶られず、ずっとお嬢さまとおふたりです。ご存じなかったんですか?」
「……」
「あっ。ジュ、ジュリエットさんは遠方に住んでるんだ。僕が話し忘れてたんだよ」
押し黙るジュリエットを見て気分を害したとでも勘違いしたのか、アダムが慌てて横から口を出す。
もちろん、ジュリエットは気分を害したわけではない。
オスカーが独身だなんて、欠片も想像していなかった。てっきり、再婚したものだとばかり思っていたのに。
――もしかして、王家に気を遣って……?
そうかもしれない。
野盗が現れたことは予期しようもなく、オスカーの責任ではない。何しろ彼は常日頃から領地の安全管理には相当気を配っていたし、あの日も、自身の最も信頼する部下である副長に護送の指揮を任せたのだ。その上でリデルが自害することとなったのは、どう考えても防ぎようのない不幸な事故だった。
しかしリデルが伯爵夫人としてアッシェン領で命を落とした以上、オスカーが王家に対し罪悪感を覚え、後妻を迎えるのに躊躇した可能性は大いに考えられる。
――では、副長の妹やシャーロットは?
オスカーの愛人であったはずの彼女たちはどうなったのだろう。いまだ日陰者の身として扱われつつ、彼と関係を持っているのだろうか。
「――さん。ジュリエットさん」
「なっ、何でしょう」
突然耳にアダムの声が飛び込んできて、ジュリエットは自身が周囲も気にせず思案に暮れていたことに気付く。
しかしそれはさほど長い時間ではなかったらしい。不審な目を向けられることも特になく、ジュリエットはアダムから広間のある一点を指し示される。
「広間の一番奥。あそこにお嬢さまがいらっしゃいます。贈り物を渡しに行きましょう」
「はい……」
アダムの腕にそっと手を添え、ジュリエットは彼の友人たちに断ってその場を離れた。
エミリアが、向こうにいる。愛しい娘が。
会うべきではなかったのにそれでもずっと会いたくて、とうとう会いに来てしまった。
つ、とジュリエットは己の左手に携えられた贈り物に目を落とした。十二歳の娘に何を贈ればいいかなんてわからず、身分を偽っているため予算にも限りがあった。
用意したのは、前世から一番大好きな花だった白薔薇の花束と――、本。
竜にさらわれた姫君と、それを救うため戦う勇敢な王子の物語が描かれた物語。エミリアの名前の由来にもなったあの美しい本を、ジュリエットは自然と手に取っていた。
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