第10話

 しかし事態は、時に思いも寄らぬ方向へ動き出すものだ。

 ジュリエットの許に祖母からの手紙が届いたのは、それから十日後のことだった。

 春の日差しが降り注ぐテラスでお茶の時間を過ごしていたジュリエットは、侍女のメアリから渡された手紙を読み、ついお気に入りのティーカップを床へ落としそうになった。

『可愛いジュリエットへ』

 そんな書き出しから始まる手紙は、このような内容だった。


 先日、祖母が梯子から落ちて怪我をした際のことである。

 腰と足首を襲う痛みに蹲っていた祖母を、その時偶然通りかかったひとりの青年が助けてくれた。彼は祖母を抱きかかえて屋敷内まで運び、慣れた手つきで適切な手当を行ったそうだ。

 祖母は青年の親切にいたく感動し相応の謝礼を渡そうとしたが、彼は固辞するばかりだった。

 何と無欲な青年なのだろうと、祖母はますます深い感謝を覚えた。何とか礼をしたかったが、彼は名乗ることなく風のように去って行ったらしい。

 しかし数日後、青年は沢山の果物を抱え、再び祖母の前に現れた。わざわざ怪我の具合を心配し、見舞いに訪れてくれたのである。

 祖母は今時珍しいほど立派な青年だとすっかり彼のことを気に入り、それから度々屋敷へ招待するようになった。


 ……と、ここまではジュリエットも知っている話だ。

 初めてその話を耳にしたとき、父は祖母を大層心配していた。その青年は財産狙いで資産家の未亡人をたぶらかす、悪党なのではないかと。

 父は祖母から、恩人に何て失礼なことを言うのだと、それはもうこっぴどく叱られたものだ。

 祖母が改めて聞いたところによると、青年の名はアダムといい、年齢は見た目より大分若い十六歳。騎士団に所属する準騎士なのだそうだ。

 もちろん祖母も、恩人の言葉だからと手放しにその自己紹介を鵜呑みにするほど耄碌はしていない。

 信頼できる筋から情報を得て、彼が嘘をついていないことは既に確認済みである。

 それらの情報を踏まえた上で、ジュリエットは更に手紙を読み進めた。


 アダムは祖母に、もうすぐ自分が籍を置く騎士団の本拠地――つまり領主の城で、夜会が催されるという話をしたらしい。領主のひとり娘が十二歳になったことを祝う、ごく内輪向けの誕生日パーティーだそうだ。

 しかしアダムには、パーティーに同伴するような相手がいなかった。

 いくら内輪向けの夜会を称しているとは言え、領主の城で催されるからには社交界か、それに準する場と考えてよいだろう。

 もちろん同伴者がいなくても参加は出来るが、アダムの同僚たちのほとんどは、自身の恋人や婚約者を連れてくるらしい。

 十六歳。そろそろパートナーのひとりやふたり見つからなければ、非常に気まずい年頃である。

 そんなアダムは、同僚たちから誰を連れてくるのか聞かれ、ついこんなことを口にしたそうだ。


 ――懇意にしている老婦人の、お孫さんを誘ったんだ。とても綺麗なご令嬢で、ジュリエットというんだ。皆に会わせるのが楽しみだよ。


 それはアダムの、なけなしの自尊心から出た言葉であっただろう。同僚たちになんとか見栄を張りたいと困窮する彼の頭に、出会ったばかりの老婦人から聞いた年若い孫娘の名がふとよぎったとしても何も不思議な話ではない。

 そうして後に退けなくなったアダムは、己のついた嘘をすべて祖母に打ち明け、孫娘の名を利用したことを謝罪した。その上で、一回だけでいいから、ジュリエットに同伴者の役目を頼みたいと願い出たらしい。


 しかも運の悪いことに、先日祖母の見舞いに行った際、アダムは偶然にもジュリエットの姿を見かけたらしい。祖母の家から出て馬車に向かうジュリエットを偶然見かけ、一目惚れしてしまったそうなのだ。

 祖母の希望もあって、屋敷を訪ねる際は子爵家所有の中でも最も目立たない地味な馬車を使っている。もちろん服装にも、それなりに気を配っていた。あまりに上等な格好で行けばどうしても目立つし、田舎町ではすぐに噂が広まってしまうから。

 だから、よもやアダムも、自分の見かけた少女が子爵令嬢などとは思いもしなかったのだろう。

 パートナーになってもらい、あわよくばお近づきになりたいと、彼はそう考えたらしい。

 助けてもらった恩もあり、祖母も嫌とは言えなかったようだ。おかげで祖母はジュリエットの許可も得ず、そのままアダムの頼みを聞き入れてしまったのである。


『勝手な約束をしてごめんなさいね、ジュリエット。でも本当に素敵な青年だから安心してちょうだい。何なら私は、彼をフォーリンゲンの爵位を継ぐ婿にしてもいいと思うの』

 

 そう締め括られた手紙が、ジュリエットの手の中で、クシャリと音を立てて潰れる。


「お……っ、お祖母さま――――――――!」


 淑女らしからぬ怒りの声が、屋敷中に鳴り響いた。


***


 ともかく一旦落ち着こう。

 自室に戻ったジュリエットは手紙についた皺を伸ばし伸ばし、荒ぶった心を静めようと試みる。

 

 祖母が元々情に厚い人間で、だからこそ社交界での煩わしい人間関係や駆け引きを嫌ったことは、ジュリエットも知っている。

 そんな祖母にとって、アダム青年のまっすぐな親切心が、荒んだ心を癒してくれる一服の清涼剤であることもよく理解出来る。

 しかし一体どこの世界に、本人の了承を得ずして見知らぬ男性のパートナーとなることを決める人間がいるというのか。


 ジュリエットはつい先月十六歳を迎えたばかりで、まだ社交界デビューも果たしていない。

 エフィランテ王国では一部の例外を除き、通常、男女共に十七歳で社交界へ足を踏み入れるものだ。そしてデビュタントとして必要な一連の行事に臨むのは、女神の祝福が最も濃いと言われる冬の白月――一年の終わりの月。

 つまり今から、一年と八ヶ月も後のこととなる。

 普通、貴族の娘は社交界デビュー前に妙な噂が立つのを嫌うものである。なぜならこの国では結婚において、花嫁の処女性を非常に重んじるスピウス教の価値観が未だ根強く残っているから。 

 そんな中でジュリエットがもし、婚約すら結んでいない相手と夜会へ顔を出したらどうか。

 フォーリンゲン子爵家の娘は、未婚であるにも関わらず男性と不適切な付き合いをする、ふしだらな娘だという噂が、瞬く間に上流の人々の間で広まることだろう。


 田舎でのびのび育ったジュリエットですら容易に想像がつく展開を、結婚するまでずっと王都で暮らしていた祖母が予想していないわけがない。

 なのに一体なぜ、こんな馬鹿げた約束事を勝手に決めてしまったのだろう。 

 まさか本気で、アダムとやらをジュリエットの婿にし、フォーリンゲン子爵家を継がせるつもりでいるのだろうか。


「どう考えても無理よ……!」


 前世の記憶を思い出した今、ジュリエットは男性――特に騎士と接することに、本能的な恐怖を覚えていた。

 もちろん近い将来、それなりの家柄の次男か三男あたりと婚約を結び、家督を継ぐ婿として屋敷へ迎え入れることは必要だ。貴族の家に生まれた娘として、それはジュリエットに課された義務である。

 しかし、もし結婚するのだとしたら、できれば騎士は遠慮したい。

 今生でまで前世と同じ道を辿ったら――。そう考えると、怖くて怖くて堪らなかった。


 世の中の騎士が全員、オスカーのように妻を軽んじるわけでないことを、頭では理解している。優しく、穏やかな騎士も大勢いることだろう。

 しかし、理屈ではないのだ。今、ジュリエットの心の中には、夫の扱いに傷つき血を流したリデルが確かに存在している。そしてその記憶は、簡単に拭いされるものではない。


 しかも極めつけは、アダムの所属する騎士団というのが、アッシェン領主所有のものであることだ。祖母の住んでいる屋敷がアッシェン領に存在することを考えれば、ごく当然のことだが。

 それは置いておくとして、つまり今度の夜会はオスカーが主催する、エミリアのための誕生日パーティーということになる。


 ――エミリア。

 前世でほんの少しの間しか共にいられなかった、可愛い我が子。

 十二歳になるという彼女は、一体どんな少女に成長しているだろう。オスカーに、大事にされているだろうか。

 気にはなったけれど、産みの母のことなどすっかり忘れ、別の女性を母と呼ぶエミリアを目の当たりにすることを想像するとあまりに辛い。

 オスカーはリデルの死後、きっとすぐに後妻を迎えただろうから。


 前世で母親だったとは言え、今生では赤の他人。真実を打ち明けられるわけでもないのにエミリアの人生に関わり、万が一にも邪魔になるようなことをジュリエットは望まない。

 会わないほうが賢明だ。

 手紙では埒が明かないから祖母には直接会いに行き、断りの文句を告げよう。

 リデルは早速、祖母の屋敷を訪ねる準備に取りかかるため、隣室で待機しているであろうメアリを呼んだ。

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