第9話
十七年の生を終えた後、リデルの魂は昏く冷たい闇の中を彷徨っていた。
人間の魂は肉体が死したのち死者の世界へたどり着き、そこで冥府の王レクスに謁見すると言われている。
彼は『魂の審判』と呼ばれる儀式を経て、生前その人物が善人か悪人だったかの判断を下す。そして冥界と天界、どちらへ魂を送るのかを決める……というのがスピウス正教の教えだ。
しかしその教えが正しかったのかどうか確かめるより早く、魂となったリデルは人ならざる大いなる何かによって、闇の中から掬い上げられた。
ふんわりと、リデルの魂をその光が包み込むなり、たちまち多幸感に満たされる。まるで幼い頃、母に抱かれた時の安堵にも似た気持ち。
声を聞いたわけでも、姿を目にしたわけでもない。
ただ、圧倒的な存在を前に、リデルは自然と理解していた。
この姿なき存在が、生前リデルの暮らしていた世界で創造神と崇められ、万物の母と讃えられていた、至高天に座すスピウス女神そのものなのだと。
その後の記憶はごくあやふやで、まるで夢の中で起こったことのようだった。
気付けばリデルは見知らぬ屋敷の中におり、寝台の上で今にも息を引き取りそうな小さな女の子を、俯瞰するような形で見下ろしていた。
四、五歳くらいの可愛い女の子だ。焦げ茶色の髪に青白い肌をしており、仕立ての良い寝間着に身を包まれていた。
周囲には女の子の両親と思しき男女や、使用人の姿がある。
誰もが沈鬱な面持ちで、青ざめて眠る女の子を見守っていた。誰もが彼女を心から愛し、回復を願っていることがひと目でわかる、そんな光景だった。
しかし意識のみの存在となったリデルは、理解していた。
この子の魂はあまりに清らかで、雑念の多い現世の空気にこれ以上耐えられないこと。
弱り切った魂が今まさに彼女の身体から離れようとしていること。
このまま魂を失えば、器たる肉体はそれに伴い死んでしまうことも、何もかも。
そうして目の前で小さな命の灯火が消えかけた瞬間、リデルは思わず存在しないはずの手を伸ばしていた。行かせてはダメだ、と思った。
もはやこの世の存在でなくなった自分に、何かができると思っていたのではない。ただ反射的に、身体が――魂が動いただけ。
不可思議なことが起こったのは、その直後だった。
リデルの意識は突如として何かに引き寄せられ、魂という概念のみが存在する曖昧な世界から強引に押し出されたのだ。
抵抗すら出来ないほど圧倒的な力。それはまるで、強大な渦の中に突然引き込まれたような、強烈な感覚だった。
あの世から引き剥がされたリデルの魂は、瞬く間に小さな女の子の身体に吸い込まれていった。
――あなたにあげる。大事にしてね。
そんな、幼い声が聞こえた気がした。
目覚めた時、リデルは、それら一連の記憶をすっかり失っていた。
今にして思えば、奇跡的な回復を見せた娘の姿に号泣しながら喜ぶ両親の姿を見たのは、その直後。恐らくリデルが『ジュリエット』として目にした、初めての記憶だろう。
以降、ジュリエットは前世のことを欠片も思い出すことなく、穏やかな生活を送ってきた。
そう、二日前、偶然にもアッシェン城を目にするまでは。
ジュリエットは自らの中にある記憶を頼りに、現状の理解に努めた。
そうして、こんな結論にたどり着いた。
どういうわけか自分は大いなる神の導きにより、新たな人生を得たらしい。
それが温情か気まぐれかはよくわからないが、ともかく女神は魂を失いかけていた器――つまりジュリエットの肉体に、代わりにリデルの魂を送り込んだ。
そうして『リデル』としての記憶はすべて抹消され、魂が入れ替わる以前の期間も含めて『ジュリエット』の記憶で塗りつぶされた。
計算してみると、ジュリエットが生まれたのは今から十六年前。リデルがまだ十三歳だった頃のことだ。
女神の行ったことだから何も不思議ではないのかもしれないが、魂が違うものだったとは言えジュリエットとリデルが同じ時代に生きていたという事実が、なんとも奇妙に思える。と、それはともかく。
「天に在(ま)します女神さま、お仕事が少し雑ではありませんか……?」
奇跡と手放しで賛美するには、女神の
鏡を見つめながら、ジュリエットは思わず女神スピウスへの愚痴をぼやいた。
不信心者と謗(そし)られても仕方ない行為だが、恨み言を言いたくもなる。どうせ前世の記憶を消し、新たな人生を与えてくれるのだったら、隅から隅まで徹底してくれればよかったものを。
おかげで、ジュリエットは思い出してしまったではないか。
辛く、悲しかった前世。蔑まれ軽んじられた、はずれ姫だった自分を。
「まさか、こんなことが起きるなんて……」
痛む胸を寝間着の上からそっと押さえ、ジュリエットは目を閉じた。
この肉体に入っている魂は、確かにリデルのものだった。だが、だからと言ってジュリエットとしての自分が消えるわけではない。
四歳までの記憶は女神によって補完されたものだとしても、ジュリエットにはそれから十二年、両親の許で築き上げてきた思い出がある。それは紛れもなく、自分がジュリエット・ディ・グレンウォルシャーとして生きてきた証だ。
顔も、性格も、育った環境も、何もかもが王女リデルとは違いすぎる。
けれど、では『リデル』が完全に消え去ったのかといえば、そうではない。
リデルという存在は単なる過去に過ぎず、いくら前世とはいえ今の自分とはまったく無関係の、別人格だ。
――そう断じることは、記憶を取り戻したばかりのジュリエットには非常に難しく感じられた。
それほどまでに、唐突に蘇った記憶はあまりに鮮烈に、魂に深く食い込みすぎていたのだ。
リデルとジュリエット。
今の自分が異なるふたつの記憶を宿していることを知ったら、両親はどう思うだろう。
娘の中に存在する魂が元々は別人のもので、生まれた時から四歳まで共に過ごした『ジュリエット』の魂は、既にこの世を去っているのだと知ったら。
「……言えるわけ、ない」
ジュリエットはぽつりと呟く。
もし真実を知り、そして信じてくれたとして、両親はこれまでと変わらず娘に接することだろう。ジュリエットはこれまでの人生で、両親との間にそれだけの深い信頼と絆を築いてきた自負があった。
けれど内心がどうであるかは、誰にもわからない。
本人たちが意識しなくとも、心のどこかで、これは本物の娘ではないという気持ちが芽生えるかもしれない。ふとした瞬間に、これは娘の身体を横取りした盗人だという考えが、頭の片隅を掠めるかもしれない。そしてジュリエットは、それを否定しきれない。
そんな僅かな歪みが、これまでの家族の関係を大きく変えてしまうことだって考えられる。
両親たちに不信の目や悲しい表情を向けられることは、ジュリエットとしても本意ではない。
「そう、そうね……。黙っておくのが一番だわ」
元々、思い出す必要などなかったはずの記憶だ。この秘密は、自分ひとりで墓まで持って行こう。
ジュリエットはこの時、そう決意した。
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